046: 松田忠雄 ①
ともすると似たようなこけしばかりで変化に乏しいという鳴子こけしに対するそれまでの印象を一変させたのが西田峯吉氏による名著『鳴子・こけし・工人』でした。同書口絵の写真は鳴子古型への興味を掻き立てる魅力に溢れているように思われました。

高野幸八型 6寸3分
ちょうど『鳴子・こけし・工人』を入手した直後だったと思いますが、2015年2月北鎌倉おもとの商品棚に口絵の写真で目にしたばかりの変わった古鳴子の型を見つけました。口絵1枚目の「米浪氏蔵A 伝高野幸八」の右側6寸2分の写しです。下部に鉋溝を入れた細胴を、紅と紫のロクロ線で一杯にし、蕪型の頭部には水引きの代わりに髷が描かれています。面描は古風な一筆目。胴底には達筆な筆跡で「忠雄」と署名されていました。おもと店主によると「松田忠雄」という工人さんの作であるとのこと。『鳴子・こけし・工人』で開眼した古鳴子への興味の足がかりとして持ち帰ることにしました。
西田峯吉は高野幸八のこの型を「全く他に例を見ないほど異色あるもの」と表しています。『鳴子・こけし・工人』では高野幸八の系列を「又五郎系」と分類していますが、現在では「幸八系列」の方が通りは良いかと思います。高野幸八は工人ひしめく鳴子系にあって一系列をなす重要工人なのです。明治2年(1869年)10月8日、塗師・幸作の八男として生まれ、18歳で叔父の大沼又五郎につき木地を修業。又五郎の没後、現在の高亀商店の並びに「高幸商店」を開業し、明治31年頃に鳴子を訪れた伊沢為次郎から一人挽きを習ったとのこと。鳴子木地同業組合初代組合長を務め、弟子に鈴木庸吉、遊佐民之助、松田初見がいます。大正9年(1920年)7月25日没。

西田民之助写し 4寸
さて、幸八型を手にしてから暫くの間、古鳴子への興味は大沼岩蔵、大沼甚四郎、庄司永吉ら岩太郎系列と遊佐雄四郎に向いていたのですが、その年の秋に町田木ぼこを訪れたその帰りがけ、店の棚でなんとなく目に留まった可愛らしい作り付けの胴底に「忠雄」の署名を認めたのです。そのこけしのいわれは分かりませんでしたがその後の収集の発展を期待して入手しました。
松田忠雄工人は昭和31年(1956年)5月2日生まれ。松田三夫長男で、高野幸八の弟子であった松田初見を祖父にもちます。『こけし手帖』421号阿部弘一氏による「松田忠雄と幸八系列のこけし」は平成8年当時までのこけしの変遷が記録された好資料です。同記事のうち、写真⑨の左端に木ぼこで入手したのと同じ手が載っています。それによるとこのこけしは「西田コレクションにある逸品の一つ民之助四寸の写しで、平成六年正月東京こけし友の会例会で頒布された」とのこと。胴底には「6 1 23」と鉛筆でメモ描きがされており、このこけしもその時の頒布品であることが伺えます。二筆による簡単な花が4段。間に図案化された葉が描かれています。目はクリクリとしていて可憐ですが、頭半分よりだいぶ下に描かれた大きな鼻、外側にいく程長くなる鬢、後方が3つに分かれる前髪など、幸八系列の特徴がきちんと備わっています。

高野幸八型たちこ 3寸5分
それからひと月ほどすると今度はヤフオクに『鳴子・こけし・工人』口絵に掲載されたうちのもう一本、3寸5分の写しが出品されました。胴底には「H1 1 22」のメモ書き。口絵の写真と比べるとだいぶ頭が小さいため必然的に胴が長くなり、「原」のもつぼってりとして剽軽な味わいに欠ける印象は拭えませんが、幸八型2種、西田民之助4寸と手元に増えたことによって松田忠雄という工人さんに俄然注目するようになり、彼の手掛ける高野幸八型、遊佐民之助型といった古鳴子の写しを収集対象としてはっきりと意識するようになったのです。
参考リンク
・kokeshi wiki「松田忠雄」
・kokeshi wiki「高野幸八」

高野幸八型 6寸3分
ちょうど『鳴子・こけし・工人』を入手した直後だったと思いますが、2015年2月北鎌倉おもとの商品棚に口絵の写真で目にしたばかりの変わった古鳴子の型を見つけました。口絵1枚目の「米浪氏蔵A 伝高野幸八」の右側6寸2分の写しです。下部に鉋溝を入れた細胴を、紅と紫のロクロ線で一杯にし、蕪型の頭部には水引きの代わりに髷が描かれています。面描は古風な一筆目。胴底には達筆な筆跡で「忠雄」と署名されていました。おもと店主によると「松田忠雄」という工人さんの作であるとのこと。『鳴子・こけし・工人』で開眼した古鳴子への興味の足がかりとして持ち帰ることにしました。
西田峯吉は高野幸八のこの型を「全く他に例を見ないほど異色あるもの」と表しています。『鳴子・こけし・工人』では高野幸八の系列を「又五郎系」と分類していますが、現在では「幸八系列」の方が通りは良いかと思います。高野幸八は工人ひしめく鳴子系にあって一系列をなす重要工人なのです。明治2年(1869年)10月8日、塗師・幸作の八男として生まれ、18歳で叔父の大沼又五郎につき木地を修業。又五郎の没後、現在の高亀商店の並びに「高幸商店」を開業し、明治31年頃に鳴子を訪れた伊沢為次郎から一人挽きを習ったとのこと。鳴子木地同業組合初代組合長を務め、弟子に鈴木庸吉、遊佐民之助、松田初見がいます。大正9年(1920年)7月25日没。

西田民之助写し 4寸
さて、幸八型を手にしてから暫くの間、古鳴子への興味は大沼岩蔵、大沼甚四郎、庄司永吉ら岩太郎系列と遊佐雄四郎に向いていたのですが、その年の秋に町田木ぼこを訪れたその帰りがけ、店の棚でなんとなく目に留まった可愛らしい作り付けの胴底に「忠雄」の署名を認めたのです。そのこけしのいわれは分かりませんでしたがその後の収集の発展を期待して入手しました。
松田忠雄工人は昭和31年(1956年)5月2日生まれ。松田三夫長男で、高野幸八の弟子であった松田初見を祖父にもちます。『こけし手帖』421号阿部弘一氏による「松田忠雄と幸八系列のこけし」は平成8年当時までのこけしの変遷が記録された好資料です。同記事のうち、写真⑨の左端に木ぼこで入手したのと同じ手が載っています。それによるとこのこけしは「西田コレクションにある逸品の一つ民之助四寸の写しで、平成六年正月東京こけし友の会例会で頒布された」とのこと。胴底には「6 1 23」と鉛筆でメモ描きがされており、このこけしもその時の頒布品であることが伺えます。二筆による簡単な花が4段。間に図案化された葉が描かれています。目はクリクリとしていて可憐ですが、頭半分よりだいぶ下に描かれた大きな鼻、外側にいく程長くなる鬢、後方が3つに分かれる前髪など、幸八系列の特徴がきちんと備わっています。

高野幸八型たちこ 3寸5分
それからひと月ほどすると今度はヤフオクに『鳴子・こけし・工人』口絵に掲載されたうちのもう一本、3寸5分の写しが出品されました。胴底には「H1 1 22」のメモ書き。口絵の写真と比べるとだいぶ頭が小さいため必然的に胴が長くなり、「原」のもつぼってりとして剽軽な味わいに欠ける印象は拭えませんが、幸八型2種、西田民之助4寸と手元に増えたことによって松田忠雄という工人さんに俄然注目するようになり、彼の手掛ける高野幸八型、遊佐民之助型といった古鳴子の写しを収集対象としてはっきりと意識するようになったのです。
参考リンク
・kokeshi wiki「松田忠雄」
・kokeshi wiki「高野幸八」
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045: 新山左内
私が初めて手に入れた伝統こけしが新山左京の玉山型だったことは「001: 新山左京」で記事にしました。以来その父・新山左内のこけしのことはいつも頭の片隅にあって入手の機会をうかがってきましたが、今年の初め高幡不動の楽語舎にてようやく満足いくものを入手することができました。

新山左内 9寸3分 助川時代?
大きさは9寸3分で図らずも左京玉山型と同寸。両者を並べてみると同じ寸法、同じ型でも印象はずいぶん違うものだと気付かされます。最も目につくのは木地形態でしょうか。頭部の大きさの違いが胴の長さに影響し、左京玉山型のすっきりとした細身に対し左内の作は頭が大きい分だけ胴短く、太さも相まって一種の量感を感じます。こけしの場合、生身の人間のように8頭身に近づけば近づくほど美しいとは限らないのが面白いところ。昔の木地師は得てして造形に対する感覚が優れているように感じます。

新山左京玉山型と新山左内の比較
頭部は嵌め込み。鳴子こけしのようにキュッキュと鳴るのは左京玉山型と同様です。ロクロの爪は全て同じ方向を向いた4つ爪で、少し楕円形状に歪んだ木地が足踏みロクロによる作であることを物語ります。胴底には「戦前」と鉛筆でメモ書きされており、さすがに「玉山型」の原となっている左内の玉山在住時代(昭和1~10年)のものほど古くはないかもしれませんが、それに続く助川在住時代(昭和11~19年)の作であると考えられます。ただし種々文献を調べてみると玉山時代も助川時代も作風に大差はないようです。強いて相違点を挙げれば古い時代のものは鼻が撥鼻であるとの由。今回入手したこけしは丸鼻に変化しており助川時代という年代特定の拠り所としています。

胴底には「戦前」のメモ書き。何かを削ったと思しき跡も見える。
ふっくらとした丸頭には控え目な表情が描かれていてなんとも愛らしく感じますが、間近で見てみると眼点の下に下瞼が一筆加えられていて見ようによっては佐藤伝内や本田鶴松に通じる鋭さを内に秘めているともとれます。概して弥治郎の古作には一見可愛らしいけれどよくよく見ると鋭い眼光を持つこけしが少なくないような気がします。昔の弥治郎こけしはこの面描のように上瞼、眼点、それに沿った下瞼という具合に三筆による二側目であったのが、徐々に下瞼が省略されるようになり完全な一側目に移行していったのかもしれません。この目の描き方はその推移を物語っているようにも考えられます。

意外と鋭い眼差し
『こけし手帖』17号は弥治郎こけし特集。深沢要の遺稿によると左内自身の話として「ここでは椿を手に入れることは水木よりも簡単です。水木を買うには原の町辺まで行かなければ買えません。ここの在に行くと椿が家囲になって沢山あります。」とあり、「これは助川時代の話である。その頃のこけしは椿を使用することが多かった」と補注がされています。今回入手したこけしはそれ自体胴が太いというのもありますが、左京玉山型と比べてずっしりと重く感じます。あるいはこの材も椿材なのかもしれません。
『こけし手帖』162号は特集で新山左内が取り上げられており、それによると「玉山時代は今まで作らなかったこけし、木地玩具などを足踏みで作って宿、土産物屋に卸したり、家では木地屋だけでなく食料品も売っていたので、店でも売った。この頃から蒐集家も訪ねて来るようになり、深沢、橘、米浪、川口、西田、加賀山さん方が見えた」とあります。これは天江富弥による『こけし這子の話』の図版(「四.陸前、磐城、岩代」の右から2・3番目)に玉山時代の作が掲載されていたことによると思われます。左内のこけしは最も古いこけし専門文献から知られた由緒正しいこけしなのです。
しかし続く『日本郷土玩具 東の部』における武井武雄の評価は「弥治郎系、熱塩(※佐藤春二)と五十歩百歩のものだが、黄を主色としてゐる丈けにこの方が明るい点僅かに拾ひものであろう。」とそっけありません。橘文策の『こけしと作者』でも「兄(※久治)に似て胴を黄色に染めてゐるが、透明な感じで迫力に乏しい。大寸ものに胴の窄んだものがある。孰れも弥治郎系らしく中央に数本の配色のいゝロクロ線を入れ、赤い蹴出しを描いた所に特色がある。」と評価は上がらず。『古計志加々美』に至っては「木地師としては拙いわけではないが、兄久治の弥治郎風を固守し、そのためが綿密な仕上げが却って陳腐な感じをさへ與へる。」と散々な云われようです。
確かに、左内のこけしは華やかさに欠ける印象が否めません。私自身、最初に入手した伝統こけしが左京玉山型でなければ、気に懸ける対象ではなかったかもしれません。しかし質実剛健とも言うべき極限までに装飾を削ぎ落とした意匠は、やはり自分の気質に通じるものがあるようにも思うのです。蓼食う虫も好き好き、ということでしょうか。繰り返しますが新山左内のこけしは由緒正しいこけしです。そして、今日まで由緒正しく軽んじられ続けているこけしともいえるかもしれません。であればせめて私は、最初に手に取った伝統こけし云々を抜きにしても、この子たちに温かい愛情と眼差しを注ぎ続けようと思うのです。

新山左内 9寸3分 助川時代?
大きさは9寸3分で図らずも左京玉山型と同寸。両者を並べてみると同じ寸法、同じ型でも印象はずいぶん違うものだと気付かされます。最も目につくのは木地形態でしょうか。頭部の大きさの違いが胴の長さに影響し、左京玉山型のすっきりとした細身に対し左内の作は頭が大きい分だけ胴短く、太さも相まって一種の量感を感じます。こけしの場合、生身の人間のように8頭身に近づけば近づくほど美しいとは限らないのが面白いところ。昔の木地師は得てして造形に対する感覚が優れているように感じます。

新山左京玉山型と新山左内の比較
頭部は嵌め込み。鳴子こけしのようにキュッキュと鳴るのは左京玉山型と同様です。ロクロの爪は全て同じ方向を向いた4つ爪で、少し楕円形状に歪んだ木地が足踏みロクロによる作であることを物語ります。胴底には「戦前」と鉛筆でメモ書きされており、さすがに「玉山型」の原となっている左内の玉山在住時代(昭和1~10年)のものほど古くはないかもしれませんが、それに続く助川在住時代(昭和11~19年)の作であると考えられます。ただし種々文献を調べてみると玉山時代も助川時代も作風に大差はないようです。強いて相違点を挙げれば古い時代のものは鼻が撥鼻であるとの由。今回入手したこけしは丸鼻に変化しており助川時代という年代特定の拠り所としています。

胴底には「戦前」のメモ書き。何かを削ったと思しき跡も見える。
ふっくらとした丸頭には控え目な表情が描かれていてなんとも愛らしく感じますが、間近で見てみると眼点の下に下瞼が一筆加えられていて見ようによっては佐藤伝内や本田鶴松に通じる鋭さを内に秘めているともとれます。概して弥治郎の古作には一見可愛らしいけれどよくよく見ると鋭い眼光を持つこけしが少なくないような気がします。昔の弥治郎こけしはこの面描のように上瞼、眼点、それに沿った下瞼という具合に三筆による二側目であったのが、徐々に下瞼が省略されるようになり完全な一側目に移行していったのかもしれません。この目の描き方はその推移を物語っているようにも考えられます。

意外と鋭い眼差し
『こけし手帖』17号は弥治郎こけし特集。深沢要の遺稿によると左内自身の話として「ここでは椿を手に入れることは水木よりも簡単です。水木を買うには原の町辺まで行かなければ買えません。ここの在に行くと椿が家囲になって沢山あります。」とあり、「これは助川時代の話である。その頃のこけしは椿を使用することが多かった」と補注がされています。今回入手したこけしはそれ自体胴が太いというのもありますが、左京玉山型と比べてずっしりと重く感じます。あるいはこの材も椿材なのかもしれません。
『こけし手帖』162号は特集で新山左内が取り上げられており、それによると「玉山時代は今まで作らなかったこけし、木地玩具などを足踏みで作って宿、土産物屋に卸したり、家では木地屋だけでなく食料品も売っていたので、店でも売った。この頃から蒐集家も訪ねて来るようになり、深沢、橘、米浪、川口、西田、加賀山さん方が見えた」とあります。これは天江富弥による『こけし這子の話』の図版(「四.陸前、磐城、岩代」の右から2・3番目)に玉山時代の作が掲載されていたことによると思われます。左内のこけしは最も古いこけし専門文献から知られた由緒正しいこけしなのです。
しかし続く『日本郷土玩具 東の部』における武井武雄の評価は「弥治郎系、熱塩(※佐藤春二)と五十歩百歩のものだが、黄を主色としてゐる丈けにこの方が明るい点僅かに拾ひものであろう。」とそっけありません。橘文策の『こけしと作者』でも「兄(※久治)に似て胴を黄色に染めてゐるが、透明な感じで迫力に乏しい。大寸ものに胴の窄んだものがある。孰れも弥治郎系らしく中央に数本の配色のいゝロクロ線を入れ、赤い蹴出しを描いた所に特色がある。」と評価は上がらず。『古計志加々美』に至っては「木地師としては拙いわけではないが、兄久治の弥治郎風を固守し、そのためが綿密な仕上げが却って陳腐な感じをさへ與へる。」と散々な云われようです。
確かに、左内のこけしは華やかさに欠ける印象が否めません。私自身、最初に入手した伝統こけしが左京玉山型でなければ、気に懸ける対象ではなかったかもしれません。しかし質実剛健とも言うべき極限までに装飾を削ぎ落とした意匠は、やはり自分の気質に通じるものがあるようにも思うのです。蓼食う虫も好き好き、ということでしょうか。繰り返しますが新山左内のこけしは由緒正しいこけしです。そして、今日まで由緒正しく軽んじられ続けているこけしともいえるかもしれません。であればせめて私は、最初に手に取った伝統こけし云々を抜きにしても、この子たちに温かい愛情と眼差しを注ぎ続けようと思うのです。
044: 本間久雄 ⑧
『こけし手帖』666号、667号に拙稿「本間久雄・義勝の酒田こけし」を掲載させて頂いて以来、本ブログでは同こけしを取り上げてきませんでした。しかしそれ以降も酒田こけしが収集の核であることに変わりはなく、飽きることなく収集を進めてきましたので新しく入手したこけしを掲載していこうと思います。
東京こけし友の会2016年11月例会の抽選こけしに本間久雄初期作が出品されました。初期特有の重菊の様式、緑黄赤3色によるロクロ線、胴背面への署名、頭髪に接する鬢等、初期の典型的作例と言うべきもので、しかも保存状態は良好。直近一年半の間に同手のこけしが抽選に出されたのは3~4回あったと記憶していますが、一度たりとも入手することはできていませんでした。今回もくじ運に見放され万事休すかに思われましたが、先に名前を呼ばれたH会長が順番をお譲り下さり晴れて入手することができた次第。有り難や有り難や。
久雄初期作はそれより前に1本だけ所有していて『こけし手帖』666号に掲載しました。写真①の6寸がそれです。本ブログでは「010: 本間久雄 ②」に載せています。『山形のこけし』の7寸と同手ですが、後日名古屋のY先生にお送りいただいた『木でこ』122号の記事によると、この『山形のこけし』掲載品はもともと名古屋こけし会で昭和48年9月に頒布されたものであるとのこと。
今回入手したこけしの胴底には「48・7月」とのメモ書きがされているので名古屋の頒布より更に2ヶ月前の作ということになるでしょうか。『木でこ』には昭和48年7月に名古屋の蒐集家T氏が酒田の本間久雄のもとを訪れた記事が掲載されています。あいにく久雄は不在であり「つくったこけしは全部出てしまい在庫はありませんでした」と書かれているのですが、ちょうどその時期のこけしが保存状態も良いままこうして手元にあるというのは感慨もひとしおです。

T氏の酒田訪問は秋田県湯沢市で「久雄が柏倉勝郎型を挽き出したという事」を耳にしたことがきっかけだったということですから、昭和48年7月作は初期作の中でも特に早い時期のものであると推測されます。ちなみに、T氏のこの訪問がきっかけとなって、昭和48年9月、11月、昭和49年1月と3回に渡る名古屋こけし会の頒布に至ったということです。
『山形のこけし』7寸、手帖に掲載した拙蔵6寸、今回入手した7寸を見比べると面描が安定しておらず表情に幅があることが分かります。『木でこ』では『山形のこけし』掲載品を「うっとりと、とりとめのないようなところのある、穏やかなこけしである」と評しています。拙蔵6寸は儚げでたどたどしい。一方、今回のこけしは、初めて入手した久雄作(木でこ③の昭和49年1月作、手帖④と同手)のような目眉が吊り上がったムスッとした表情になっています。初期作ということで描き慣れていないため面描に変化があるというのは当然と言えば当然ですが、そのことが収集の面白さに繋がっているように思います。
木地形態に関しては、この手は肩低く、裾にかけての広がりが小さいフォルムで概してバランスは良いように思います。しかしこの後さほど時をおかずに面描低調となり、木地も肩がすぼんでバランスを崩すことになります(「011: 本間久雄 ③」参照)。久雄初期作のうち、ロクロ線に黄色が入っていた頃の作は他の時期にはちょっと見られない格別の味わいがあるように思われるのです。
東京こけし友の会2016年11月例会の抽選こけしに本間久雄初期作が出品されました。初期特有の重菊の様式、緑黄赤3色によるロクロ線、胴背面への署名、頭髪に接する鬢等、初期の典型的作例と言うべきもので、しかも保存状態は良好。直近一年半の間に同手のこけしが抽選に出されたのは3~4回あったと記憶していますが、一度たりとも入手することはできていませんでした。今回もくじ運に見放され万事休すかに思われましたが、先に名前を呼ばれたH会長が順番をお譲り下さり晴れて入手することができた次第。有り難や有り難や。
久雄初期作はそれより前に1本だけ所有していて『こけし手帖』666号に掲載しました。写真①の6寸がそれです。本ブログでは「010: 本間久雄 ②」に載せています。『山形のこけし』の7寸と同手ですが、後日名古屋のY先生にお送りいただいた『木でこ』122号の記事によると、この『山形のこけし』掲載品はもともと名古屋こけし会で昭和48年9月に頒布されたものであるとのこと。
今回入手したこけしの胴底には「48・7月」とのメモ書きがされているので名古屋の頒布より更に2ヶ月前の作ということになるでしょうか。『木でこ』には昭和48年7月に名古屋の蒐集家T氏が酒田の本間久雄のもとを訪れた記事が掲載されています。あいにく久雄は不在であり「つくったこけしは全部出てしまい在庫はありませんでした」と書かれているのですが、ちょうどその時期のこけしが保存状態も良いままこうして手元にあるというのは感慨もひとしおです。

T氏の酒田訪問は秋田県湯沢市で「久雄が柏倉勝郎型を挽き出したという事」を耳にしたことがきっかけだったということですから、昭和48年7月作は初期作の中でも特に早い時期のものであると推測されます。ちなみに、T氏のこの訪問がきっかけとなって、昭和48年9月、11月、昭和49年1月と3回に渡る名古屋こけし会の頒布に至ったということです。
『山形のこけし』7寸、手帖に掲載した拙蔵6寸、今回入手した7寸を見比べると面描が安定しておらず表情に幅があることが分かります。『木でこ』では『山形のこけし』掲載品を「うっとりと、とりとめのないようなところのある、穏やかなこけしである」と評しています。拙蔵6寸は儚げでたどたどしい。一方、今回のこけしは、初めて入手した久雄作(木でこ③の昭和49年1月作、手帖④と同手)のような目眉が吊り上がったムスッとした表情になっています。初期作ということで描き慣れていないため面描に変化があるというのは当然と言えば当然ですが、そのことが収集の面白さに繋がっているように思います。
木地形態に関しては、この手は肩低く、裾にかけての広がりが小さいフォルムで概してバランスは良いように思います。しかしこの後さほど時をおかずに面描低調となり、木地も肩がすぼんでバランスを崩すことになります(「011: 本間久雄 ③」参照)。久雄初期作のうち、ロクロ線に黄色が入っていた頃の作は他の時期にはちょっと見られない格別の味わいがあるように思われるのです。
043: 高橋金三①
南部系中の大名物であるにも関わらず昨今のブームではほとんど見向きもされていないのが藤井梅吉のこけしではないでしょうか。現役でこの型を手掛ける工人がなく『伝統こけしのデザイン』でも取り上げられていないこともひとつの要因となっているように思われます。
私が梅吉型を知ったのはヤフオクの出品の中に「南部系 金三」と書かれたタイトルを見つけた時だったと思います。当時既に『こけし 美と系譜』を読み耽っていたと記憶していますが、同書掲載の藤井梅吉には気付きもしていなかったことを思うとどうもヤフオクでその存在を知ったとしか考えられないのです。あれも欲しいこれも欲しいという収集初期における衝動の為せる業だったと言えます。
『伝統こけしガイド』で高橋金三の項を調べてみると、大正12年(1923年)8月10日に木地業・高橋悟郎の長男として生まれ「木地は父悟郎より習得。昭和27年頃から悟郎木地のものに描彩(新型)。昭和33年、佐藤誠が花巻に来てから誠のすすめで旧型を練習し、昭和47年2月から、藤井梅吉型を本格的に作りはじめた。」とあります。それではと『こけし辞典』で父・悟郎の項をひくと「<ガイド>改定版で古くからこけしを作っているように紹介しているが、実際は戦後の輸出用こけしが最初で、作品の様式などから見ても、伝統こけし工人とは認めがたい」と記されており、金三の代になって伝統型に取り組みはじめたことが伺えます。『こけし辞典』における金三の記述に至ってはわずか5行にとどまり、昭和46年の初版発行時点では伝統こけし工人とは認識されていなかったようです。
昭和47年1月25日発行の『こけし手帖』131号に「こけし界ニュース」として金三の梅吉型継承の経緯が報告されています。
★鉛こけし藤井梅吉型の後継者決る。故佐藤誠が生前中梅吉の遺族の許しを得て梅吉型を作っていたが、誠さんの死亡後岩手県内の新型こけしブローカーが、いち早くこれに目をつけ、版権獲得の暗躍をしたが、岩手県南部系(花巻系)の工人たちから猛反対を受け失敗した事実がある。
今回花巻市の老工人高橋吾郎氏の長男金三さんが、梅吉さんの遺族から正式の許しを得て、梅吉型こけしを作ることになった。
なお、この件に関し花巻こけし界の長老煤孫実太郎を始め先輩が指導後援する由。
今日、金三のこけしの評価が低いのはどうも第2次こけしブームの最中に伝統型に取り組みはじめた新参者であったことに起因しているように思えます。しかしながら、金三の取り組んだ梅吉型は先に述べた通り南部系こけしの中でも外すことのできない重要なこけしであり、金三による継承は伝統的観点からすると非常に意義のあるものであったことは間違いないように思います。
といいつつ、2014年の6月に初めて入手した金三の梅吉型はもう手元に残っていません。手絡模様の頭部とロクロ線のない重菊模様の8寸のこけしで、面描からしておそらく昭和60年代の作と推測されるものでした。当時撮影した写真を改めて見返してみてもやはり木地のバランスも表情も今ひとつ物足りないものに感じられ手放した理由もさもありなん。それでもその後も梅吉型に見切りを付けずに常に注目してきたことを考えると、自分にとってはやはり気になる存在であり続けてきたことは確かなようです。
『こけし千夜一夜物語』第902、903話で金三の梅吉型が取り上げられています。それによると本家・藤井梅吉の頭部の描彩様式は4種類程に分けられるとされ、金三の梅吉型への取り組みは以下の順でなされたと解説されています。
①蛇の目に前髪と手絡
②蛇の目のみ
③蛇の目に手絡
④手絡のみ
昭和47年の梅吉型作り始めにあたり金三はまず「蛇の目に前髪と手絡」から取りかかったとあります。『千夜一夜』に写真掲載されている初作近辺作を見る限り、表情は佐藤誠の影響化にあるように見受けられます。その後2~3年をかけて表情が遠刈田風のものに変化すると同時にその作風も安定していく様子が見て取れます。

左よりキナキナ5寸8分、梅吉型8寸、6寸。集まる時は一気に集まる不思議。
2016年2月、金三こけしが3本集まりました。キナキナ5寸8分、そして「蛇の目に前髪と手絡」の梅吉型8寸と同6寸です。キナキナは今は店舗なき西荻窪のベビヰドヲルの棚の中から持ち帰ったもので、胴にボリューム感があり曲線の美しさを感じています。ヤフオクより入手した8寸は最下部の四つ花のない「蒐楽会頒布品」と同手のもので『千夜一夜』では「一皮むけたような秀作」と評価されているこけしです。友の会の中古品の6寸はやや頭でっかちで目の湾曲著しいためか表情がキツくグロテスクですらあります。個人的にはどちらの梅吉型もフォルムが鈍重で野暮ったく感じるのですが梅吉型収集の仕切り直しとして手元に置いています。
本当の意味で金三の作る梅吉型に魅了されたのは楽語舎で入手した6寸からです。(続く)
私が梅吉型を知ったのはヤフオクの出品の中に「南部系 金三」と書かれたタイトルを見つけた時だったと思います。当時既に『こけし 美と系譜』を読み耽っていたと記憶していますが、同書掲載の藤井梅吉には気付きもしていなかったことを思うとどうもヤフオクでその存在を知ったとしか考えられないのです。あれも欲しいこれも欲しいという収集初期における衝動の為せる業だったと言えます。
『伝統こけしガイド』で高橋金三の項を調べてみると、大正12年(1923年)8月10日に木地業・高橋悟郎の長男として生まれ「木地は父悟郎より習得。昭和27年頃から悟郎木地のものに描彩(新型)。昭和33年、佐藤誠が花巻に来てから誠のすすめで旧型を練習し、昭和47年2月から、藤井梅吉型を本格的に作りはじめた。」とあります。それではと『こけし辞典』で父・悟郎の項をひくと「<ガイド>改定版で古くからこけしを作っているように紹介しているが、実際は戦後の輸出用こけしが最初で、作品の様式などから見ても、伝統こけし工人とは認めがたい」と記されており、金三の代になって伝統型に取り組みはじめたことが伺えます。『こけし辞典』における金三の記述に至ってはわずか5行にとどまり、昭和46年の初版発行時点では伝統こけし工人とは認識されていなかったようです。
昭和47年1月25日発行の『こけし手帖』131号に「こけし界ニュース」として金三の梅吉型継承の経緯が報告されています。
★鉛こけし藤井梅吉型の後継者決る。故佐藤誠が生前中梅吉の遺族の許しを得て梅吉型を作っていたが、誠さんの死亡後岩手県内の新型こけしブローカーが、いち早くこれに目をつけ、版権獲得の暗躍をしたが、岩手県南部系(花巻系)の工人たちから猛反対を受け失敗した事実がある。
今回花巻市の老工人高橋吾郎氏の長男金三さんが、梅吉さんの遺族から正式の許しを得て、梅吉型こけしを作ることになった。
なお、この件に関し花巻こけし界の長老煤孫実太郎を始め先輩が指導後援する由。
今日、金三のこけしの評価が低いのはどうも第2次こけしブームの最中に伝統型に取り組みはじめた新参者であったことに起因しているように思えます。しかしながら、金三の取り組んだ梅吉型は先に述べた通り南部系こけしの中でも外すことのできない重要なこけしであり、金三による継承は伝統的観点からすると非常に意義のあるものであったことは間違いないように思います。
といいつつ、2014年の6月に初めて入手した金三の梅吉型はもう手元に残っていません。手絡模様の頭部とロクロ線のない重菊模様の8寸のこけしで、面描からしておそらく昭和60年代の作と推測されるものでした。当時撮影した写真を改めて見返してみてもやはり木地のバランスも表情も今ひとつ物足りないものに感じられ手放した理由もさもありなん。それでもその後も梅吉型に見切りを付けずに常に注目してきたことを考えると、自分にとってはやはり気になる存在であり続けてきたことは確かなようです。
『こけし千夜一夜物語』第902、903話で金三の梅吉型が取り上げられています。それによると本家・藤井梅吉の頭部の描彩様式は4種類程に分けられるとされ、金三の梅吉型への取り組みは以下の順でなされたと解説されています。
①蛇の目に前髪と手絡
②蛇の目のみ
③蛇の目に手絡
④手絡のみ
昭和47年の梅吉型作り始めにあたり金三はまず「蛇の目に前髪と手絡」から取りかかったとあります。『千夜一夜』に写真掲載されている初作近辺作を見る限り、表情は佐藤誠の影響化にあるように見受けられます。その後2~3年をかけて表情が遠刈田風のものに変化すると同時にその作風も安定していく様子が見て取れます。

左よりキナキナ5寸8分、梅吉型8寸、6寸。集まる時は一気に集まる不思議。
2016年2月、金三こけしが3本集まりました。キナキナ5寸8分、そして「蛇の目に前髪と手絡」の梅吉型8寸と同6寸です。キナキナは今は店舗なき西荻窪のベビヰドヲルの棚の中から持ち帰ったもので、胴にボリューム感があり曲線の美しさを感じています。ヤフオクより入手した8寸は最下部の四つ花のない「蒐楽会頒布品」と同手のもので『千夜一夜』では「一皮むけたような秀作」と評価されているこけしです。友の会の中古品の6寸はやや頭でっかちで目の湾曲著しいためか表情がキツくグロテスクですらあります。個人的にはどちらの梅吉型もフォルムが鈍重で野暮ったく感じるのですが梅吉型収集の仕切り直しとして手元に置いています。
本当の意味で金三の作る梅吉型に魅了されたのは楽語舎で入手した6寸からです。(続く)
042: 日下秀行
遠刈田系のこけしの内では佐藤茂吉に強く惹かれます。茂吉のあらましに関しては「021: 大沼昇治」で既に触れています。『いやしの微笑』や『こけし 伝統の美』などに掲載されている茂吉のこけしは、目元までの短いおかっぱ頭に愛想のかけらもない表情ですが、しかし何故か憎めない佇まいで圧倒的な存在感を漂わしているように思えました。『こけし 美と系譜』には手絡模様のこけしも確認できます。一本一本に異なった様式があり大いに興味をそそられました。晩年の枯れた筆致は古いこけしの素朴美をいっそう感じさせる要因となっているように思います。
茂吉のこけしは第一次こけしブームの昭和14年頃に残された最晩年の作だけが遺されています。今となっては老工の存命中に古い遠刈田の多様性が記録として残されたことに感謝しなくてはならないのですが、しかし息子である円吉、円吉の婿養子である治郎は茂吉型というような写しを特に残しませんでした。その後、治郎の弟子大沼昇治が茂吉型に取り組んだことは前にも載せました。しかしその大沼昇治が亡くなったことで茂吉の系列は途絶えてしまいました。型は作られなくなると話題に上ることがなくなり忘れられていくようで、遠刈田の古式を伝える茂吉のこけしも今や地味なこけしという印象をもたれるまでになってしまいました。
のですが。
2015年6月3日より西荻窪イトチで行われた「うつくしこけし展」にて、H氏が日下秀行工人に依頼した茂吉型が展示販売されたのです。予定をなんとかやりくりして初日に駆けつけました。店頭に並べられていた中で最も整っていない面描を選んだ記憶があります。こけしを買うとついてきた『日下秀行工人復元之栞』によると、「残念ながら、現在の遠刈田では、茂吉こけしは忘れられたこけしである。今回、茂吉の直系ではないが、同じ吉郎平系列の日下秀行工人に復元を依頼。まずはリボン黒髪八寸を試作することになった。」「遠刈田の地で、新しい茂吉型の誕生。この小さなルネッサンスを喜びたい。」とあります。茂吉型に限らず、現在遠刈田では多くの型が途絶え漸次多様性が失われつつあるように思われます。そのことはひいてはこけしの魅力を低下させることに繋がるのではないでしょうか。だとすれば、若く意欲のある工人がそれら古い型に取り組み引き継いでいった方が未来につながるように思うのです。

佐藤茂吉型 初作 8寸 2015年6月3日
この時入手した茂吉型初作は西田峯吉蒐集品の8寸の様式を土台としながら、面描は鈴木鼓堂旧蔵品の表情を採用しているものと思われます。頭頂に赤と緑で飾りが描かれる特異なおかっぱ頭。西田峯吉は目尻あたりで横鬢が終わりますがこのこけしは口元まで伸びます。目つきは西田手よりもずっと穏やかではありますが、きっと結んだ口元と相まってなんとも気の強そうな表情に見受けられます。胴模様はロクロ線と手描きの衿が混在する重菊模様で、菊と菊との隙間がなく互いに密着しています。大沼昇治亡き後久しく途絶えていた茂吉の系列に再び脚光が当てられたことに深い感動を覚えました。
その後、日下工人が茂吉型をどうこうしたという話は全く話題になりませんでした。伝え聞くところでは、茂吉型は製作するのをやめて佐藤吉弥型に専念するという話もあり、このこけしは再び廃絶の道を辿るかに思えました。日下工人と直接話をすることができたのは2016年の全国こけし祭りも閉幕した夕刻でした。イトチで入手した茂吉型にいたく感銘をうけた事、茂吉こけしの面白さ、重要性等を熱っぽく話したと思います。聞けば、やはり製作をやめたわけではなく、時間はかかるが頼めば作ってくれるということだったので茂吉型に注目している身としては一安心をした次第。
2016年11月12日の高岩寺の実演で日下工人は再び茂吉型を出品されました。今回は前回程時間をかける事ができなかったとのことですが、面描はより先鋭的なものとなって見る者に迫ってくるように思えました。今回は完全な鼓堂旧蔵品の写しで胴裏には菖蒲模様が描かれています。この表情はどうでしょう。美人でありながら心に沁み入るような味わいに溢れ、いつまでも見飽きない深みがあるように思います。2本を並べると作風は一層深化したように思え、私はこの写しに限りない愛着を感じているのです。

佐藤茂吉型 第2作 8寸 2016年11月12日

胴裏の菖蒲模様 「昭和作」はさすがにやり過ぎの感なきにしもあらず
高岩寺の出品を見て某氏は「衰えた頃の筆をそのまま写すのはいかがなものか。工人の筆の冴えていた頃を想像した方が良いのではないか」という趣旨の発言をしておられました。私の印象とは異なる見解でしたが、なるほど一理あるとも思いました。筆力のある全盛期の茂吉の面相を想像してこけしを作るのはなんと創造的な仕事だろうかと。
一方で、茂吉こけしのどこに魅力を感じるかというと、①古い遠刈田の様式の数々を今に伝える点、②鋭く厳しい目つき、③枯れた筆致による古びた味わい、にあると捉えています。筆の揺れは茂吉こけしの古格を助長する大きな要因となっており、茂吉という工人のこけしは老工の晩年作として強く認識されているように思われます。この筆を伸びのあるものにしてしまうことは、茂吉の魅力を半減させることになるのではないか、とも思うのです。
写しのやり方は工人それぞれのようです。大沼昇治の茂吉型は目つきの鋭さをさらに強調したもので古遠刈田の様式を昇治なりに消化した大沼昇治のこけしというべきものであったと思います。一方、佐藤春二に端を発する弥治郎系の茂吉型は茂吉の一様式を弥治郎系に採用したもので、井上一族の華麗な作風の中で独自の型として発展してきたように見受けられます。花巻の佐藤長雄も茂吉型を手掛けたといいますが、サンプルが少ないのでなんとも言えません。日下秀行工人は「原」を忠実に写そうとする工人です。これは工人としての強みであり、優れた資質でもあります。老工の筆の揺れまで写し取らんとするその姿勢は大いに買うべきものではないでしょうか。同じく「原」に忠実な写しを心掛けるとおっしゃる高橋正吾工人のこけしをみれば忠実に写そうとする方が大成するのではないかという仮説も成り立つような気がしてくるのです。
それはともかく、この催事にあたり日下工人は茂吉型を8本持ってきたとのことでしたが、その全てに買い手がついたということは何を意味するのでしょうか。たとえそれが作為的なものであったとしても、愛好家が他のこけしにはない素朴な味わいを感じ取り茂吉型のこけしを買っていかれたのだとしたら、一概に批評ばかりもしていられないように思うのです。これは今晃工人の人気にも通じるある種の問題を孕んでいるように私には思えます。つまり、現代の美麗なこけしに対するアンチテーゼなのではなかろうかと考えられます。少なくともそういった古い時代の拙い面描に興味を持つ愛好家が私以外にも少なからずいるというのもまた否定のできない事実です。
兎も角、重要なのはこの筆致を写して工人が何を感じるか、そしてそれがどうその後に活かされるかであるように思います。そういう意味でも、日下工人の茂吉型からは今後も目が離せません。
追記
日下工人は2017年5月の第59回全日本こけしコンクールに招待工人として参加され、「茂吉型8号」が「東日本放送」賞を受賞されたとのこと。受賞作の写真が青葉こけし会のブログ(「第59回全日本こけしコンクール:ホワイトキューブ」)で確認できます。画像が少し不明瞭ですが表情は佐藤吉弥に接近した印象を受けます。
茂吉のこけしは第一次こけしブームの昭和14年頃に残された最晩年の作だけが遺されています。今となっては老工の存命中に古い遠刈田の多様性が記録として残されたことに感謝しなくてはならないのですが、しかし息子である円吉、円吉の婿養子である治郎は茂吉型というような写しを特に残しませんでした。その後、治郎の弟子大沼昇治が茂吉型に取り組んだことは前にも載せました。しかしその大沼昇治が亡くなったことで茂吉の系列は途絶えてしまいました。型は作られなくなると話題に上ることがなくなり忘れられていくようで、遠刈田の古式を伝える茂吉のこけしも今や地味なこけしという印象をもたれるまでになってしまいました。
のですが。
2015年6月3日より西荻窪イトチで行われた「うつくしこけし展」にて、H氏が日下秀行工人に依頼した茂吉型が展示販売されたのです。予定をなんとかやりくりして初日に駆けつけました。店頭に並べられていた中で最も整っていない面描を選んだ記憶があります。こけしを買うとついてきた『日下秀行工人復元之栞』によると、「残念ながら、現在の遠刈田では、茂吉こけしは忘れられたこけしである。今回、茂吉の直系ではないが、同じ吉郎平系列の日下秀行工人に復元を依頼。まずはリボン黒髪八寸を試作することになった。」「遠刈田の地で、新しい茂吉型の誕生。この小さなルネッサンスを喜びたい。」とあります。茂吉型に限らず、現在遠刈田では多くの型が途絶え漸次多様性が失われつつあるように思われます。そのことはひいてはこけしの魅力を低下させることに繋がるのではないでしょうか。だとすれば、若く意欲のある工人がそれら古い型に取り組み引き継いでいった方が未来につながるように思うのです。

佐藤茂吉型 初作 8寸 2015年6月3日
この時入手した茂吉型初作は西田峯吉蒐集品の8寸の様式を土台としながら、面描は鈴木鼓堂旧蔵品の表情を採用しているものと思われます。頭頂に赤と緑で飾りが描かれる特異なおかっぱ頭。西田峯吉は目尻あたりで横鬢が終わりますがこのこけしは口元まで伸びます。目つきは西田手よりもずっと穏やかではありますが、きっと結んだ口元と相まってなんとも気の強そうな表情に見受けられます。胴模様はロクロ線と手描きの衿が混在する重菊模様で、菊と菊との隙間がなく互いに密着しています。大沼昇治亡き後久しく途絶えていた茂吉の系列に再び脚光が当てられたことに深い感動を覚えました。
その後、日下工人が茂吉型をどうこうしたという話は全く話題になりませんでした。伝え聞くところでは、茂吉型は製作するのをやめて佐藤吉弥型に専念するという話もあり、このこけしは再び廃絶の道を辿るかに思えました。日下工人と直接話をすることができたのは2016年の全国こけし祭りも閉幕した夕刻でした。イトチで入手した茂吉型にいたく感銘をうけた事、茂吉こけしの面白さ、重要性等を熱っぽく話したと思います。聞けば、やはり製作をやめたわけではなく、時間はかかるが頼めば作ってくれるということだったので茂吉型に注目している身としては一安心をした次第。
2016年11月12日の高岩寺の実演で日下工人は再び茂吉型を出品されました。今回は前回程時間をかける事ができなかったとのことですが、面描はより先鋭的なものとなって見る者に迫ってくるように思えました。今回は完全な鼓堂旧蔵品の写しで胴裏には菖蒲模様が描かれています。この表情はどうでしょう。美人でありながら心に沁み入るような味わいに溢れ、いつまでも見飽きない深みがあるように思います。2本を並べると作風は一層深化したように思え、私はこの写しに限りない愛着を感じているのです。

佐藤茂吉型 第2作 8寸 2016年11月12日

胴裏の菖蒲模様 「昭和作」はさすがにやり過ぎの感なきにしもあらず
高岩寺の出品を見て某氏は「衰えた頃の筆をそのまま写すのはいかがなものか。工人の筆の冴えていた頃を想像した方が良いのではないか」という趣旨の発言をしておられました。私の印象とは異なる見解でしたが、なるほど一理あるとも思いました。筆力のある全盛期の茂吉の面相を想像してこけしを作るのはなんと創造的な仕事だろうかと。
一方で、茂吉こけしのどこに魅力を感じるかというと、①古い遠刈田の様式の数々を今に伝える点、②鋭く厳しい目つき、③枯れた筆致による古びた味わい、にあると捉えています。筆の揺れは茂吉こけしの古格を助長する大きな要因となっており、茂吉という工人のこけしは老工の晩年作として強く認識されているように思われます。この筆を伸びのあるものにしてしまうことは、茂吉の魅力を半減させることになるのではないか、とも思うのです。
写しのやり方は工人それぞれのようです。大沼昇治の茂吉型は目つきの鋭さをさらに強調したもので古遠刈田の様式を昇治なりに消化した大沼昇治のこけしというべきものであったと思います。一方、佐藤春二に端を発する弥治郎系の茂吉型は茂吉の一様式を弥治郎系に採用したもので、井上一族の華麗な作風の中で独自の型として発展してきたように見受けられます。花巻の佐藤長雄も茂吉型を手掛けたといいますが、サンプルが少ないのでなんとも言えません。日下秀行工人は「原」を忠実に写そうとする工人です。これは工人としての強みであり、優れた資質でもあります。老工の筆の揺れまで写し取らんとするその姿勢は大いに買うべきものではないでしょうか。同じく「原」に忠実な写しを心掛けるとおっしゃる高橋正吾工人のこけしをみれば忠実に写そうとする方が大成するのではないかという仮説も成り立つような気がしてくるのです。
それはともかく、この催事にあたり日下工人は茂吉型を8本持ってきたとのことでしたが、その全てに買い手がついたということは何を意味するのでしょうか。たとえそれが作為的なものであったとしても、愛好家が他のこけしにはない素朴な味わいを感じ取り茂吉型のこけしを買っていかれたのだとしたら、一概に批評ばかりもしていられないように思うのです。これは今晃工人の人気にも通じるある種の問題を孕んでいるように私には思えます。つまり、現代の美麗なこけしに対するアンチテーゼなのではなかろうかと考えられます。少なくともそういった古い時代の拙い面描に興味を持つ愛好家が私以外にも少なからずいるというのもまた否定のできない事実です。
兎も角、重要なのはこの筆致を写して工人が何を感じるか、そしてそれがどうその後に活かされるかであるように思います。そういう意味でも、日下工人の茂吉型からは今後も目が離せません。
追記
日下工人は2017年5月の第59回全日本こけしコンクールに招待工人として参加され、「茂吉型8号」が「東日本放送」賞を受賞されたとのこと。受賞作の写真が青葉こけし会のブログ(「第59回全日本こけしコンクール:ホワイトキューブ」)で確認できます。画像が少し不明瞭ですが表情は佐藤吉弥に接近した印象を受けます。