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045: 新山左内

 私が初めて手に入れた伝統こけしが新山左京の玉山型だったことは「001: 新山左京」で記事にしました。以来その父・新山左内のこけしのことはいつも頭の片隅にあって入手の機会をうかがってきましたが、今年の初め高幡不動の楽語舎にてようやく満足いくものを入手することができました。

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新山左内 9寸3分 助川時代?

 大きさは9寸3分で図らずも左京玉山型と同寸。両者を並べてみると同じ寸法、同じ型でも印象はずいぶん違うものだと気付かされます。最も目につくのは木地形態でしょうか。頭部の大きさの違いが胴の長さに影響し、左京玉山型のすっきりとした細身に対し左内の作は頭が大きい分だけ胴短く、太さも相まって一種の量感を感じます。こけしの場合、生身の人間のように8頭身に近づけば近づくほど美しいとは限らないのが面白いところ。昔の木地師は得てして造形に対する感覚が優れているように感じます。

新山左内1-2
新山左京玉山型と新山左内の比較

 頭部は嵌め込み。鳴子こけしのようにキュッキュと鳴るのは左京玉山型と同様です。ロクロの爪は全て同じ方向を向いた4つ爪で、少し楕円形状に歪んだ木地が足踏みロクロによる作であることを物語ります。胴底には「戦前」と鉛筆でメモ書きされており、さすがに「玉山型」の原となっている左内の玉山在住時代(昭和1~10年)のものほど古くはないかもしれませんが、それに続く助川在住時代(昭和11~19年)の作であると考えられます。ただし種々文献を調べてみると玉山時代も助川時代も作風に大差はないようです。強いて相違点を挙げれば古い時代のものは鼻が撥鼻であるとの由。今回入手したこけしは丸鼻に変化しており助川時代という年代特定の拠り所としています。

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胴底には「戦前」のメモ書き。何かを削ったと思しき跡も見える。

 ふっくらとした丸頭には控え目な表情が描かれていてなんとも愛らしく感じますが、間近で見てみると眼点の下に下瞼が一筆加えられていて見ようによっては佐藤伝内や本田鶴松に通じる鋭さを内に秘めているともとれます。概して弥治郎の古作には一見可愛らしいけれどよくよく見ると鋭い眼光を持つこけしが少なくないような気がします。昔の弥治郎こけしはこの面描のように上瞼、眼点、それに沿った下瞼という具合に三筆による二側目であったのが、徐々に下瞼が省略されるようになり完全な一側目に移行していったのかもしれません。この目の描き方はその推移を物語っているようにも考えられます。

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意外と鋭い眼差し

『こけし手帖』17号は弥治郎こけし特集。深沢要の遺稿によると左内自身の話として「ここでは椿を手に入れることは水木よりも簡単です。水木を買うには原の町辺まで行かなければ買えません。ここの在に行くと椿が家囲になって沢山あります。」とあり、「これは助川時代の話である。その頃のこけしは椿を使用することが多かった」と補注がされています。今回入手したこけしはそれ自体胴が太いというのもありますが、左京玉山型と比べてずっしりと重く感じます。あるいはこの材も椿材なのかもしれません。

『こけし手帖』162号は特集で新山左内が取り上げられており、それによると「玉山時代は今まで作らなかったこけし、木地玩具などを足踏みで作って宿、土産物屋に卸したり、家では木地屋だけでなく食料品も売っていたので、店でも売った。この頃から蒐集家も訪ねて来るようになり、深沢、橘、米浪、川口、西田、加賀山さん方が見えた」とあります。これは天江富弥による『こけし這子の話』の図版(「四.陸前、磐城、岩代」の右から2・3番目)に玉山時代の作が掲載されていたことによると思われます。左内のこけしは最も古いこけし専門文献から知られた由緒正しいこけしなのです。

 しかし続く『日本郷土玩具 東の部』における武井武雄の評価は「弥治郎系、熱塩(※佐藤春二)と五十歩百歩のものだが、黄を主色としてゐる丈けにこの方が明るい点僅かに拾ひものであろう。」とそっけありません。橘文策の『こけしと作者』でも「兄(※久治)に似て胴を黄色に染めてゐるが、透明な感じで迫力に乏しい。大寸ものに胴の窄んだものがある。孰れも弥治郎系らしく中央に数本の配色のいゝロクロ線を入れ、赤い蹴出しを描いた所に特色がある。」と評価は上がらず。『古計志加々美』に至っては「木地師としては拙いわけではないが、兄久治の弥治郎風を固守し、そのためが綿密な仕上げが却って陳腐な感じをさへ與へる。」と散々な云われようです。

 確かに、左内のこけしは華やかさに欠ける印象が否めません。私自身、最初に入手した伝統こけしが左京玉山型でなければ、気に懸ける対象ではなかったかもしれません。しかし質実剛健とも言うべき極限までに装飾を削ぎ落とした意匠は、やはり自分の気質に通じるものがあるようにも思うのです。蓼食う虫も好き好き、ということでしょうか。繰り返しますが新山左内のこけしは由緒正しいこけしです。そして、今日まで由緒正しく軽んじられ続けているこけしともいえるかもしれません。であればせめて私は、最初に手に取った伝統こけし云々を抜きにしても、この子たちに温かい愛情と眼差しを注ぎ続けようと思うのです。

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039: 佐藤伝

東京こけし友の会2016年11月例会。残ったこけしの中から上目遣いでこちらを見てくるこけしがいた。けなげでいじらしい。なんともいえない味があり連れて帰ることにした。佐藤伝(つたえ)のこけしである。

佐藤伝
弟子屈 佐藤伝 6寸2分

保存状態は良い。褪色なくロー引きされていない木地は木の質感に富んでいる。頭部は縦長で上下が平らな棗に似た形態。目と眉は離れ、目は顔の中央より下に収まりあどけない。鼻と口は極度に接近し、何かもの言いたそうな、しかし無言で何かを訴えるような表情である。胴は細めで畳付きにかけてはやや裾広がる。ロクロ線の帯によって三分割され、薄い黄胴の上に衿と菊花が描かれる。菊花は上が緑、下が赤で描かれている。裏面にも同様の花模様が描かれているがこちらは上下の色使いが逆になる。筆致は何気なくバサバサと描かれているがこれがかえって子供のおもちゃ然とした素朴を感じさせる一因となっているように見受けられる。

『こけし手帖』658号に「談話会覚書(24)」として佐藤伝、伝喜、伝伍のこけしが取り上げられている。三人とも弥治郎系の重要工人・佐藤伝内の息子である。伝は伝内の二男で明治39年3月26日に生まれた。大正9年から木地を修業するが父の伝内は放浪の人だったため、父の弟子である渡辺求、本田鶴松についた。したがって伝内こけしにみられる、世を睥睨するようなあの鋭さはついぞ受け継がなかった。昭和元年頃に弥治郎を離れると自身も各地を渡り歩いた後、北海道に落ち着く。こけしは昭和4年、屈斜路湖畔にいた頃から作っていたが戦後は休止していた。昭和32年秋田亮氏の勧めで途絶えていたこけし作りを復活させた。昭和55年10月26日に75歳で亡くなっている。

前掲『こけし手帖』によれば「戦後の伝は相当に変質」しているとし、「筆の枯れた晩年作の幼女らしいあどけなさに見どころを探る」と続く。また、『こけし辞典』には「戦前に比して表情少なく情味に欠ける。最近作は若干甘さがでてきた」とあり、昭和41年12月作が掲載されている。

作例からするとおそらく本項のこけしはその頃以降のものであろうと思われるが、たとえ変質し戦前作に比べ情味に欠けていたとしても、綺麗にまとまったこけしの溢れかえる現在にこそ評価されるべきこけしではないだろうか。

035: 新山実

5月の投稿を最後にすっかり間が空いてしまった。『こけし手帖』へ酒田こけしに関する記事を掲載することになりその下調べや推敲でブログを書く時間が取れなかったことに加え、私事になるが一年振りのリーダーバンドのライヴ(ボサノヴァのピアノトリオでコントラバスを弾いている)やら副業の試験やら講習やらが諸々重なりあれよあれよと現在に至ってしまった。その間拙ブログを気にかけ訪問を続けて下さった方々には感謝の念が尽きない。

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頒布の様子。左端の古作が「原」の橘文策旧蔵品。右の古作が赤の太い波線を参考にした米浪庄弐旧蔵品。

さて、東京こけし友の会2016年9月例会で新山実工人による新山栄五郎写しが新品頒布された。「原」はS幹事所蔵の橘文策旧蔵品。氏による頒布品の説明によると最初の試作品では胴下部が肩口のようなロクロ模様であったが「栄五郎のこけしとしては違和感があり」同じく氏所蔵の米浪庄弐旧蔵品を参考に赤の太い波線に変えてもらったという。

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古雅な味わい

一筆目の作り付けで首元に首巻きのような突起状の膨らみが付く少し変わった木地形態。胴中央より上にはくびれがつく。「原」と見比べるとやや細身のシルエットに見えるが、氏によると敢えてそうしてもらったということであった。自分が観察した限りでは「原」は全体的に重心が低く胴裾もわずかに広がっているようにも見受けられたが、写しにそれは反映されておらずスマートですっきりとしたフォルムにまとめられている。

描彩に関しては筆致細く、「原」の味わいとは趣を異にする。また頭髪、鬢とも毛先鋭く黒々とした健康的な量感に欠ける。つまり詳細に「原」と比べてしまえば写しとしてはフォルム、描彩ともに多少の不満は残るわけであるが、しかし少なくとも自分が参加してきたこの一年の間、友の会の新品頒布で「原」を元にした写しは初めてのことであった。由緒ある古型を現在の愛好家に伝えるという意味ではとても意義のある頒布であるし、実際、栄五郎型を見て見ぬ振りをしていた節のある自分も興味を覚え思いがけず入手に至った次第である。

「原」との比較ではなく、こけし単体で改めて見てみる。

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新山実工人による新山栄五郎写し。東京こけし友の会2016年9月頒布品。

大振りな葡萄の粒を思わせる頭部。線の細い面描は可憐で儚さも漂う。鋭い筆遣いによる頭髪と鬢は軽やかで毛先に動きがあり現代的な感覚があるとも考えられる。胴模様に関しては、胴裾に太い破線が配されたことにより、視覚的に締まりがもたらされたように思われる。試作の段階で引かれていたというロクロ線を想像してみるに胴の上から下までの変化に乏しく思われ、ロクロ線による繰り返しのあと少し余白を空け最後に描かれる赤く太い波線は強烈で、これにより抑揚がもたらされ全体としての起承転結が確立する。これは「原」に忠実であろうとすると生まれ得なかった効果であると思われる。実工人の描彩の独自性と、こけしとしての完成度を考えれば秀作といっても過言ではないと思う。

東京こけし友の会に学問的啓蒙的な役割があるとしたらこのような頒布の仕方を通してもそれができるし、談話会という形での勉強会よりも敷居は低く間口は広い。友の会幹事の方々は貴重な古作を所蔵されているのだから、こういった古作の写しを頒布として積極的に展開いってほしいと思う。私見では新品頒布に意義や情熱がなければ例会は本当の意味で盛り上がらないと思われるのだが。いずれにしても、今後の試金石となり得る好頒布であることは間違いない。


001: 新山左京

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初めて入手した伝統こけしは、弥治郎系・新山左京工人の9寸であった。

2014年2月、北鎌倉の「おもと」さんに立ち寄った際に数あるこけしの中から直感で選んだ一本。まだその当時は伝統こけしが11系統に分類されている事や、手にしたこのこけしが弥治郎系の工人さんによるものであるということなどまったく分からなかったわけであるが、今から考えると①桜材の使用による木の色調と木目の美しさ、②余計な装飾を配した簡潔なフォルムといったこの時の判断材料は、かつてコントラバスを購入した時のそれとまったく同じであるということに気付く。コントラバスを入手したのが今から約11年前であるから、それ以来自分の美的感覚がまったく変化していないという事実も伺い知ることができて少し面白い。ちなみにコントラバスも飾りっけなどまったくないドイツ産の質実剛健なものを選んでいる。

今、改めてこのこけしを見直してみると、なかなか見所の多いこけしであるように思う。頭と胴の比率はおよそ1:3。首から肩にかけてなだらかな曲線を描いた後は胴底にかけて徐々に末広がりになっていくAラインの木地形態で、小さな頭と相まってスマートな佇まいを漂わす。

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頭頂は轆轤線によるベレー帽。桜材に乗せた紫色が深い味わいを醸す。

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胴底には「新山左京」という署名とともに「玉山型」と記されている。「玉山型」に関しては寡聞にして詳細がはっきりとしないが、このような木地形態、着物模様と轆轤線の組み合わせの型であると推測される。「おもと」の店主さんは、「本来この型は胴が黄色く塗られるがこのこけしは桜材なので黄色は塗られていない」と教えてくれたと記憶する。たしかに「こけし 玉山型」などで画像検索すると黄色い胴の似たようなこけしが散見される。こういったところを確認しておきたいと思うのだが適当な資料がないのは残念なところではある。また、胴底には鉛筆で「46」と書き込みがある。この手の書き込みからすると昭和46年入手と考えるのが妥当であるが、仮にそうだとすると1971年頃のこけしであると推測される。(ただし、前所有者の46番目に入手したこけしであるという可能性もまた否定はできない。)

今ある手元の資料で新山左京工人について確認すると、昭和9年(1934年)3月18日生まれ、木地業・新山左内長男とあり、「父左内の玉山時代に生まれ、父とともに日立市助川、福島県矢祭を経て、昭和24年に弥次郎へ帰郷した。木地は同年から父について修行し、新型を多く挽いたが、昭和30年頃より左内の型を作り、また40年より英五郎型も作っている。」とのこと。(土橋慶三監修(1973)『伝統こけしガイド』美術出版社 p.93)

胴中央の轆轤線は、端を緑で縁取り、次に赤を大小交互に3本ずつ、続いて太めの紫、中央を同じ太さの緑で線引きした後、対照的な色使いでもって折り返している。表側の轆轤線は残念ながら少なからず退色してしまっていることが胴の裏側を見れば分かるのだが、桜材特有の木肌の濃さにより退色の印象は薄れている。もっともこけし初心者たる当時の自分にはもちろんそこまで注意を払う事はできなかったわけであるが。着物の裾付近には赤と緑の井桁が描かれていて控えめな洒脱さを感じる。

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頭部の接写。「ぽっぽ堂こけしギャラリー」さんに新山左内工人の玉山時代の古作が掲載されている。昭和8年という大変古い逸品であるが、この時期のこけしがここでいう「玉山型」の原型であると考えてもよいだろう。昭和一桁の古作と比較するのは少し酷ではあるが、比べてみるとぽっぽ堂さんの古作にみられるとぼけたようなユーモラスに欠け、表情が硬直であることがわかる。眼点の大きさに由来するものであろうか。しかし相対的な比較を差し置くと、このこけしはこのこけしで素朴で簡素な大らかさをたたえていると思う。真っ直ぐ前を見据えた眼差しをもった素直なこけしである。

初めて手に入れる伝統こけしというのは後にも先にもこれ一本である。このこけしが自分にとっては伝統こけしの出発地点であり、全てのこけしにたいする基準点となるわけである。お会計を済ました後で「おもと」の店主さんが言われた「大事にしてあげて下さい」という一言がただただ身に滲みる。