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042: 日下秀行

 遠刈田系のこけしの内では佐藤茂吉に強く惹かれます。茂吉のあらましに関しては「021: 大沼昇治」で既に触れています。『いやしの微笑』や『こけし 伝統の美』などに掲載されている茂吉のこけしは、目元までの短いおかっぱ頭に愛想のかけらもない表情ですが、しかし何故か憎めない佇まいで圧倒的な存在感を漂わしているように思えました。『こけし 美と系譜』には手絡模様のこけしも確認できます。一本一本に異なった様式があり大いに興味をそそられました。晩年の枯れた筆致は古いこけしの素朴美をいっそう感じさせる要因となっているように思います。

 茂吉のこけしは第一次こけしブームの昭和14年頃に残された最晩年の作だけが遺されています。今となっては老工の存命中に古い遠刈田の多様性が記録として残されたことに感謝しなくてはならないのですが、しかし息子である円吉、円吉の婿養子である治郎は茂吉型というような写しを特に残しませんでした。その後、治郎の弟子大沼昇治が茂吉型に取り組んだことは前にも載せました。しかしその大沼昇治が亡くなったことで茂吉の系列は途絶えてしまいました。型は作られなくなると話題に上ることがなくなり忘れられていくようで、遠刈田の古式を伝える茂吉のこけしも今や地味なこけしという印象をもたれるまでになってしまいました。

 のですが。

 2015年6月3日より西荻窪イトチで行われた「うつくしこけし展」にて、H氏が日下秀行工人に依頼した茂吉型が展示販売されたのです。予定をなんとかやりくりして初日に駆けつけました。店頭に並べられていた中で最も整っていない面描を選んだ記憶があります。こけしを買うとついてきた『日下秀行工人復元之栞』によると、「残念ながら、現在の遠刈田では、茂吉こけしは忘れられたこけしである。今回、茂吉の直系ではないが、同じ吉郎平系列の日下秀行工人に復元を依頼。まずはリボン黒髪八寸を試作することになった。」「遠刈田の地で、新しい茂吉型の誕生。この小さなルネッサンスを喜びたい。」とあります。茂吉型に限らず、現在遠刈田では多くの型が途絶え漸次多様性が失われつつあるように思われます。そのことはひいてはこけしの魅力を低下させることに繋がるのではないでしょうか。だとすれば、若く意欲のある工人がそれら古い型に取り組み引き継いでいった方が未来につながるように思うのです。

日下秀行工人 茂吉型 1
佐藤茂吉型 初作 8寸 2015年6月3日

 この時入手した茂吉型初作は西田峯吉蒐集品の8寸の様式を土台としながら、面描は鈴木鼓堂旧蔵品の表情を採用しているものと思われます。頭頂に赤と緑で飾りが描かれる特異なおかっぱ頭。西田峯吉は目尻あたりで横鬢が終わりますがこのこけしは口元まで伸びます。目つきは西田手よりもずっと穏やかではありますが、きっと結んだ口元と相まってなんとも気の強そうな表情に見受けられます。胴模様はロクロ線と手描きの衿が混在する重菊模様で、菊と菊との隙間がなく互いに密着しています。大沼昇治亡き後久しく途絶えていた茂吉の系列に再び脚光が当てられたことに深い感動を覚えました。

 その後、日下工人が茂吉型をどうこうしたという話は全く話題になりませんでした。伝え聞くところでは、茂吉型は製作するのをやめて佐藤吉弥型に専念するという話もあり、このこけしは再び廃絶の道を辿るかに思えました。日下工人と直接話をすることができたのは2016年の全国こけし祭りも閉幕した夕刻でした。イトチで入手した茂吉型にいたく感銘をうけた事、茂吉こけしの面白さ、重要性等を熱っぽく話したと思います。聞けば、やはり製作をやめたわけではなく、時間はかかるが頼めば作ってくれるということだったので茂吉型に注目している身としては一安心をした次第。

 2016年11月12日の高岩寺の実演で日下工人は再び茂吉型を出品されました。今回は前回程時間をかける事ができなかったとのことですが、面描はより先鋭的なものとなって見る者に迫ってくるように思えました。今回は完全な鼓堂旧蔵品の写しで胴裏には菖蒲模様が描かれています。この表情はどうでしょう。美人でありながら心に沁み入るような味わいに溢れ、いつまでも見飽きない深みがあるように思います。2本を並べると作風は一層深化したように思え、私はこの写しに限りない愛着を感じているのです。

日下秀行工人 茂吉型 2-1
佐藤茂吉型 第2作 8寸 2016年11月12日

日下秀行工人 茂吉型 2-2
胴裏の菖蒲模様 「昭和作」はさすがにやり過ぎの感なきにしもあらず

 高岩寺の出品を見て某氏は「衰えた頃の筆をそのまま写すのはいかがなものか。工人の筆の冴えていた頃を想像した方が良いのではないか」という趣旨の発言をしておられました。私の印象とは異なる見解でしたが、なるほど一理あるとも思いました。筆力のある全盛期の茂吉の面相を想像してこけしを作るのはなんと創造的な仕事だろうかと。

 一方で、茂吉こけしのどこに魅力を感じるかというと、①古い遠刈田の様式の数々を今に伝える点、②鋭く厳しい目つき、③枯れた筆致による古びた味わい、にあると捉えています。筆の揺れは茂吉こけしの古格を助長する大きな要因となっており、茂吉という工人のこけしは老工の晩年作として強く認識されているように思われます。この筆を伸びのあるものにしてしまうことは、茂吉の魅力を半減させることになるのではないか、とも思うのです。

 写しのやり方は工人それぞれのようです。大沼昇治の茂吉型は目つきの鋭さをさらに強調したもので古遠刈田の様式を昇治なりに消化した大沼昇治のこけしというべきものであったと思います。一方、佐藤春二に端を発する弥治郎系の茂吉型は茂吉の一様式を弥治郎系に採用したもので、井上一族の華麗な作風の中で独自の型として発展してきたように見受けられます。花巻の佐藤長雄も茂吉型を手掛けたといいますが、サンプルが少ないのでなんとも言えません。日下秀行工人は「原」を忠実に写そうとする工人です。これは工人としての強みであり、優れた資質でもあります。老工の筆の揺れまで写し取らんとするその姿勢は大いに買うべきものではないでしょうか。同じく「原」に忠実な写しを心掛けるとおっしゃる高橋正吾工人のこけしをみれば忠実に写そうとする方が大成するのではないかという仮説も成り立つような気がしてくるのです。

 それはともかく、この催事にあたり日下工人は茂吉型を8本持ってきたとのことでしたが、その全てに買い手がついたということは何を意味するのでしょうか。たとえそれが作為的なものであったとしても、愛好家が他のこけしにはない素朴な味わいを感じ取り茂吉型のこけしを買っていかれたのだとしたら、一概に批評ばかりもしていられないように思うのです。これは今晃工人の人気にも通じるある種の問題を孕んでいるように私には思えます。つまり、現代の美麗なこけしに対するアンチテーゼなのではなかろうかと考えられます。少なくともそういった古い時代の拙い面描に興味を持つ愛好家が私以外にも少なからずいるというのもまた否定のできない事実です。

 兎も角、重要なのはこの筆致を写して工人が何を感じるか、そしてそれがどうその後に活かされるかであるように思います。そういう意味でも、日下工人の茂吉型からは今後も目が離せません。

追記
日下工人は2017年5月の第59回全日本こけしコンクールに招待工人として参加され、「茂吉型8号」が「東日本放送」賞を受賞されたとのこと。受賞作の写真が青葉こけし会のブログ(「第59回全日本こけしコンクール:ホワイトキューブ」)で確認できます。画像が少し不明瞭ですが表情は佐藤吉弥に接近した印象を受けます。


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037: 佐藤忠

『木の花』第22号の「こけし古作と写し展図説」でこの写しを知ったと記憶する。「原」は『こけし古作図譜』119番の佐藤菊治6寸1分。後ろの解説には「大正後期 川口」とあるがこの場合、川口睦子氏の所蔵品ということになる。「形態細く締まりながら温かさがあり、描彩余裕たっぷりと明るく毅然としていて格調高い。しかも大正期(裏に八・六・二五と記入の前所蔵者の張紙あり大正八年か)の菊治では唯一の一側目の貴重さもあって、忠に見せたいこけしであった」と矢田正生氏が書かれている。昭和51年末に青根を訪れ年明けに写しが送られてきたと続く。

佐藤忠1
佐藤忠による佐藤菊治写し 6寸

先日の東京こけし友の会の例会で入手したこのこけしの胴底には鉛筆で「96-5-12 ナゴヤ」とメモ書きがなされている。6寸大の遠刈田の中でも頭小振りな作例で頭部の口径が小さい分、胴細長く洗練された形態となっているように思う。墨による二筆で描かれた口元、鬢横の耳状の手絡(?)等古い青根の様式を今に伝える良い写しである。が、「原」と比べてしまうと綺麗すぎて味わいに欠ける節もある。

『こけし古作図譜』で見る「原」は古ぼけ、紫のロクロ線もやや褪色しかかっており朧げであるが染料が木地に馴染み何とも言えない味わいがある。この写しは形態、様式、全体的な雰囲気はよく捉えられているものの、胴模様は鋭く筆が伸び、それがかえって硬質な印象を与える。

『木の花』第23号の中で箕輪新一氏は「時代の香」と称してこれら古作と写しの隔たりを論じている。「明治という時代の西欧文化に対する日本人のあり方が窺われる」とか「大正という時代のもつほの暗さや憂愁」といったその時代その時代の雰囲気が古作には宿っているとし、写しは「古いこけし群のなかに確かにある「時代の香」、こけしがこけしであり、おもちゃであった時代の味を、どういかして「写し」とる作業」たるべきと説く。

佐藤忠の写しと佐藤菊治の「原」との隔たりはどこにあるのだろうか。そのことを考察していくひとつの手立てとして、こけしが上手物化したことが挙げられないだろうかと考えている。

そもそもこけしは岡崎栄治郎や鳴子の大寸もの等一部の飾るためのこけしを除き、下手物だったと言われている。子供への土産物として大量に生産された安価で粗雑なおもちゃであり、仕上げは今のように念入りには行われなかったため染料は木地に滲む。しかしそういった荒さこそが昔の玩具人を惹きつけた味わいであったように思う。

しかし時代が進むにつれこけしを取り巻く環境や価値観が変化していき上手物化が進んだのではないだろうか。上手物化にはいくつかの要因が考えられる。

①製作環境の向上
戦後動力ロクロが普及するとともにサンドペーパー、筆等の品質が向上したこと。

②コンクールの存在
いつの頃からかは分からないがコンクールの審査基準に木地の仕上げという項目が設けられたことにより、綺麗に磨かれた見栄えの良いこけしが評価されるようになっていったこと。

③品質重視
製品としての均一性を求める風潮が広まり、青果と同じようにこけしも品質が重視されるようになったこと。寡聞にして蝋引きが一般的になったのもいつの頃からかわからないが、品質重視の象徴ではないかと考えている。

第2次こけしブーム以降に作られたこけしを見ていると、こうした時代の移り変わりの中で綺麗になっていくのと引き換えに素朴さと味わいが失われていったように思われる。田舎の純朴な娘さんが都会に出て、垢抜け、綺麗になるのと同じように。これが「こけし千夜一夜物語」でいわれるところの「こけしの近代化」ということかもしれない。

製作環境の変化、価値観、こけしに求められるものの変化が渾然一体となり現代の「時代の香」として漂っている。工人であろうと蒐集家であろうと何人たりともそういった時代性の影響は避けられない。

特に価値観などというものは、ある日を境に劇的に変わるものではなく日一日と徐々に浸透していき知らず知らずのうちにそのことが当たり前になっていく類いのものでありなかなか意識できるものではないが、こけしの場合「原」となる古作に立ち返り、現代という時代の反映である写しとよく見比べることによって、その差異を生むものの存在が明らかになってくるようにも思われる。

下手物という観点からすると、もしかしたら現代のこけしは単純に磨かれ過ぎなのかもしれない。


033: 佐藤一夫

蔵王こけし館の名和コレクション見学はこけし収集の大きな転機であった。同コレクションの佐藤巳之吉のこげすは、佐藤三蔵のこけしとともに深く印象に残り、その後の収集の方向性を決定付けたように思う。良質なこけしの鑑賞は収集を発展させる。

名和コレクションの佐藤巳之吉

佐藤巳之吉は明治26年(1893年)に遠刈田新地に生まれた。明治40年(1907年)に佐藤吉郎平に弟子入りし木地挽きを修業した。『こけし辞典』にあたってみるとこの巳之吉という人は各地を転々とする工人であったようで、ざっと見ても神戸、蔵王高湯、北海道奥尻、仙台、米沢、名古屋、静岡県磐田と渡り歩いている。こけしを製作したのは、修業後に北岡木工所で働いた大正末から昭和初めにかけての第一期遠刈田時代、仙台から帰郷し再び北岡木工所で働いた昭和10年(1935年)からの第二期遠刈田時代、そして米沢に移った昭和12年(1937年)〜昭和15年(1940年)頃の米沢時代の三期であるという。名和コレクションの巳之吉こけしは『美しきこけしー名和和子こけしコレクション図譜』によると昭和13〜14年頃の米沢時代の作ということになる。巳之吉は昭和31年(1956年)8月5日に磐田で亡くなった。

その巳之吉型を継承したのが甥にあたる佐藤米蔵。米蔵は明治42年(1909年)11月22日、木地師佐藤春吉の長男として新地に生まれた。高等小学校卒業後は木地業に就かず東京京橋に出て働く。二度の応召を経て昭和20年(1945年)帰郷した。昭和30年(1955年)頃より新型の木地挽きをはじめ、昭和39年(1964年)より旧型こけしの製作を手掛けるようになった。叔父・巳之吉の写しを始めたのは昭和43年(1968年)から。『こけし辞典』には昭和45年(1970年)3月の作が掲載されている。昭和56年(1981年)3月7日没。行年72歳。

米蔵によって継承された巳之吉型は長男・一夫に受け継がれている。佐藤一夫は昭和11年(1936年)1月1日、横浜市鶴見区で生まれた。第二次大戦が激化すると父の生地である遠刈田新地へと疎開。同地で少年時代を過ごす。昭和26年(1951年)3月、15歳で佐藤守正に師事し木地挽きを修業。朝倉栄次や父のもとで新型こけしの木地挽きをしていたが、紆余曲折を経て一時木地挽きより離れる。昭和53年(1978年)から昭和55年(1980年)にかけて父・米蔵より描彩の指導を受ける。伝統こけしの製作を始めたのは米蔵が逝去した昭和56年(1981年)の4月12日から。工人45歳の時である。この当時の状況は『こけし手帖289号』高橋利夫氏による「巳之吉を継ぐ遠刈田系工人・佐藤一夫」の記事に詳しい。それによると巳之吉型に着手したのは昭和58年(1983年)からであるという。翌年、遠刈田新地に「木偶之房(でくのぼう)」を開業。昭和60年(1985年)には再び佐藤守正に描彩を習っている。現在80歳。

佐藤一夫 1-1

最初に入手した巳之吉型は7寸5分。『こけし 美と系譜』『こけし古作図譜』に掲載されている中屋惣舜氏旧蔵の写しであると思われる。「原」は正末昭初の大傑作といわれるものであるが、この写しは切れ長の大きな三日月目や大振りな重ね菊、角張った大頭の木地形態など、その雰囲気をよく捉えた快作であると思う。ロー引きされていない木地に濃厚な染料が染み入る様は渋く、格別の味わいがある。重ね菊の葉は、草書体の「原」とは対照的に様式された描法で整然と並ぶ。細かいマンサク模様のこけしを描き上げる一夫の本領のように思われる。

佐藤一夫 1-2

高幡不動の茶房たんたん(現・楽語舎)で入手した6寸4分は、植木昭夫氏所蔵の昭和15年作の写し。米沢時代末の作で『愛こけし』に掲載されている。小さめの頭に長めの胴がつくすっきりとした木地形態。『こけし手帖289号』によると、昭和59年(1984年)に取り組み始め、同年4月には東京こけし友の会より頒布されたとのこと。真っ直ぐ前を見据える写しに対し、「原」は視線向って左上に流れ、目は左目が思い切って上がる。こうしてみると巳之吉という工人は案外おおらかに筆を運ぶ人だったのかもしれない。残るこけしの変化も大きい。なお、この写しの胴裾には鉋溝が2本入れられているが、2015年秋の山河之響の会の折ご本人に確認したところ、これは本人による工夫で入れたものであるということであった。

佐藤一夫 1-3

3本目となる巳之吉型は北鎌倉おもとで求めた7分5分。店主の話では巳之吉型ということであったし表情もそれらしいものであったが、それまでの2本のように「巳之吉型」という表記はなく、また梅花をあしらったような胴模様も見慣れないもので少し引っ掛かるこけしではあった。これもご本人に確認したところ、「原」となったのは鈴木鼓堂氏旧蔵品で『こけし辞典』でも確認できる昭和初期作。「原」の胴模様は他の巳之吉こけしと同様の重ね菊であるが、こちらのこけしの衿と梅花はやはり本人の工夫によるものということだった。胴一杯に描かれた不揃いの梅花はしかし古風な佇まいを醸し、もしかしたら巳之吉もこのような胴模様を描いていたのかもしれないと想像を巡らせるに足る面白さがある。古くからの型に学び、そこに一工夫を加えることで新たな発展をもたらすという伝統におけるひとつの理想型をここに垣間みる思いがする。自らが継承した型をおざなりにしてはいけないし、しかし同時にその型に固執してもいけない。型と伝統性について考えさせる示唆に富んだ良作であると思う。

佐藤一夫 1-4

前述、山河之響の会で入手した6寸3分は高橋五郎氏所蔵品の写し。手持ちの資料では三春町歴史民俗資料館による企画展「幻想のこけし」展の図録に「原」を確認できる。一本目にみられたような渋みはないが、明朗な雰囲気に溢れ、長年巳之吉型に取り組んできただけあって手慣れた軽やかさがある。

一夫工人は現在までに10種類の巳之吉型を手掛けてきており、木偶之房にはその見本があるという。冒頭に述べた名和コレクションのこげす型は作ったことがないとのことである。(敬称略)


032: 山尾広昭

山尾昭の天江庄七写しの落手と時を同じくして、息子・山尾広昭の三蔵写し8寸を手に入れた。出品者の説明によるとこのこけしは平成14年(2002年)1月の作で、植木昭夫氏所蔵の三蔵写しであるという。『愛こけし』『木偶相聞』で確認できる氏所蔵の三蔵こけしは2本で、どうも1尺5寸の縮写であると思われる。胴背面には「名古屋こけし会第111回定期頒布」のシールが貼られている。

山尾広昭1-1

面白いと思うのは頭部の様式で、顔を取り囲むようにして頭部側面から背面まで黒々とした横髪が描かれている。頭頂には長い線状の一本線が引かれており、頭部全体を俯瞰するとチョンマゲのようにも見える。1尺5寸を確認するとやはり顔の側面にその横髪の端らしきものが見える。

山尾広昭1-2

力強い筆致の面描は古こけしに通じる味わいを感じさせる。『木偶相聞』と見比べると目の位置が顔半分より下に描かれていてこのこけし特有の幼さに結びつく。三蔵作の多くは目が高い位置に描かれることが多くそれが独特の凄みの要因となっているように思える。ただし、この広昭作はこれで稚気溢れ安心して眺めていられる穏やかさがある。菅原敏による三蔵型とは一線を画す新鮮な解釈と言えるかもしれない。頒布している会は違えど、父・昭の天江庄七の写しとともに山尾一家の古秋保への取り組みに注目するようになったのは言うまでもない。

さて先日、同じ出品者から広昭による3本の三蔵写しを落札した。前述8寸と同じく名古屋こけし会の頒布品であり、それぞれ第110回、第111回、第113回というシールが貼られている。この時期名古屋こけし会が広昭に対して集中的に三蔵型の写しを依頼しそれを頒布したことがわかる。

山尾広昭1-3

最初の7寸のこけしは「深沢コレクションの昭和15年三蔵復活初作を元に」作られたこけしとのこと。『こけしの追求』には「原」となるこけしの白黒写真とともに入手した経緯が記されているので該当箇所を引用する。

昨年(昭和十五年)一月私は又しても三蔵を訪ねたのであった。翌朝行って見ると三蔵は自家の作業場で、既に三箇の頭を作り、それに穴をあけているところであった。他に造付の一箇を加えて全部が出来上がるのは夕方になったが、前髪の小さい鬢下がりの如何にも親しみのあるこけしを受取る時には、さすがに嬉しかった。

『こけし古作図譜』にはその深澤三蔵がカラー写真で掲載されている。広昭の写しは目つきの強烈さには欠けるものの「原」を忠実に写したことが伺える。縦長の角張った頭部、長い垂れ鼻、切れ長の二側目。胴に轆轤線はなく「る」の字の前身と思われる模様が描かれており興味をそそる。

山尾広昭1-4

次の6寸は川口貫一郎コレクションの三蔵を元に作られた平成15年(2003年)1月作。出品者の説明によれば重ね菊で轆轤線がない珍しい胴模様であるという。「原」を確認したわけではないが自分の中の三蔵のイメージはこれに近い。鼻は小さめの垂れ鼻。目鼻頭の上部に寄り、口は紅で太めに描かれる。胴いっぱいに重ね菊が配置され装飾的な葉があしらわれている。頭部は小さめに抑えられており洗練された木地形態であるように思う。そして全体の雰囲気に鋭さがある。

山尾広昭1-5

3つ目は平成15年(2003年)5月作。酒井利治氏『木這子との邂逅』109番の写しであるとのこと。頭部小さく丸みを帯び、太めの胴が安定感を与える。二側目は大きく見開かれ真っ直ぐ前を見据える。三蔵型には珍しいねこ鼻で口は紅により一筆で描かれる。太い緑の轆轤線が上下に2本ずつ引かれ、間に「る」の字が2つ配される。

山尾広昭1-6

最近入手したこの6寸はひやねの『こけし往来』即売品。やはり名古屋こけし会の頒布品で、胴背面には第112回のシールが貼られている。この写しの「原」についての情報は持ち合わせていないがおそらく『こけし這子の話』の図譜に掲載されているものと推測される。切れ長の三日月目は下瞼が下に膨らまない典型的な遠刈田の二側目。胴上下の轆轤線は緑以上に赤が目立ち、大振りに描かれた重ね菊と相まって濃厚な雰囲気を漂わす。

こうして見てみると、5本とも異なる様式を持ち三蔵こけしのもつ意外な程の幅広さが浮き彫りになる。そしてまた同時に、山尾広昭という工人の写しの仕事振りにも感心せざるを得ない。特に良いと思うのは面描。その筆致の力強さによって古い味わいを感じさせるこけしとなっている点である。三蔵の遺したこけし自体、枯れた稚拙の筆使いがひとつの特徴となっているように思うが、広昭の面描は上手に整えることをせず、筆太く、揺れて曲がり、そしてたどたどしい。けっして綺麗な筆致ではないけれど、こけしが子供のおもちゃだった時代はこういった無骨とも言える描彩のものが多かったのではないかと想像させられるのである。現代ではなかなかこのような筆使いでこけしを描く工人は少ないような気がする。

『伝統こけし最新工人録』によると、山尾広昭は昭和33年(1958年)12月14日、山尾昭の長男として生まれた。木地修行を始めたのは昭和61年(1986年)4月頃から。工人27歳の時である。「ひとこと」の欄には「木地職人の祖父、父を持ち三代目として仕事の休みを利用しての勉強です。祖父のこけし復元にも興味を持っております。妻(※山尾裕華)と共にこれからの私ですが、伝統を守り続けて参ります。」と寄せており、他に仕事を持つ兼業でのこけし製作であることが窺い知ることができる。上に挙げた名古屋こけし会頒布による三蔵写しは平成14年〜15年作であるので工人44歳前後の作ということになる。この後の経緯はわからないが広昭は2016年4月現在55歳。残念ながらこけし製作は中断しているということである。


031: 佐藤治郎

こけしに興味を持ち始めた当初、寝ても覚めてもこけしこけしという塩梅で膨大な記事数をものともせず「こけし千夜一夜物語」を古い記事順に読み進めていった。その中で特に大沼昇治を中心とする遠刈田系の梅こけしには心惹かれるものがあり、オークションでも注目する型となった。最初に入手した遠刈田系梅こけしは大沼昇治ではなくその師匠、佐藤治郎による7寸であった。手元のメモを確認すると9本目に手にした伝統こけしということである。まさに収集しはじめの頃に入手したものということになるが、この前後に入手した尺サイズのこけし群は初こけしである新山左京9寸を残し思い切りよく整理した。そのような断捨離めいた状況でも整理対象にならず今もこうして手元に置いているということはそれだけ何か惹かれるものを感じているからなのだろう。

佐藤治郎は大正4年(1915年)7月13日、農業を営む木須春五郎の三男として生まれた。余談ではあるが自分と誕生日が一緒なのもあり親近感を感じているところは少なからずある。さて、治郎は昭和15年(1940年)に遠刈田新地の佐藤円吉の三女やいと結婚し婿養子となった。昭和18年(1943年)より義父について足踏みロクロを学ぶ。この時28歳ということで木地を始めたのはだいぶ遅かったということになる。その後、北岡工場での職人経験を経て昭和29年(1954年)に動力ロクロを取り付け独立。昭和31年(1956年)には大沼昇治を弟子に取り、この頃より伝統こけしを専門に作るようになったという。

佐藤治郎1-2

この梅こけしは工人55歳の時の作。頭部、胴下部のくびれともやや角張った形態である。古色、シミ深く、当初は頭部のロウが浮き白っぽくなっていた。この傾向は治郎のみならず、後継者である大沼昇治のこけしでも散見されるもののように思うが単なる偶然だろうか。ロウの浮きは①ドライヤーの熱を当てる②乾いた布などでゴシゴシこすり落とす、のいずれかの方法で解決できるようだが今のところどちらが良いのかは判断がつきかねる。胴の上部に一輪、下部に三輪、梅花がぼてっとした調子で描かれ、蕾は輪郭によって表現される。同時期に手に入れた佐藤誠孝の小倉嘉三郎型梅こけしと並べるとまるで恋人のようによく似合い、楽しむことができた。まわりが一尺のこけしばかりであったから、一層このこけしが可憐にみえたのかもしれない。面描は割れ鼻大きく、下瞼が上瞼にくっつかず甘い表情の大きな瞳は典型的な遠刈田系の二側目とは趣を異にし、特徴的である。

このこけし以降、少なからず治郎作の梅こけしを見てきたがもう一本入手というところまではいかなかった。木地形態であったり、表情であったり、状態であったり、それぞれになにかしらの不満点があってなかなか満足できるものに巡り会うことができなかったのであるが、「026: 山尾昭」「021: 大沼昇治 ①」の項で紹介したこけしと同時に落札したこの8寸はそれまで見てきた治郎作とは一線を画するものがあった。胴底に48歳作と記されたこのこけしの面描、胴模様は極めて丁寧な仕上がりで上述の55歳作とはまた違う魅力を有している。

佐藤治郎1-1

『こけし手帖 547号』に柴田長吉郎氏による「佐藤治郎さんの思い出」という追悼文が載っている。それによると治郎が円吉型の梅こけしを復元したのは昭和38年(1963年)であるようだ。単純計算すると「1963-1915=48」つまり工人48歳の時であり、この8寸はまさに円吉型の初期作であることが推測される。55歳作にみられるような、向って左側の眉と目尻が下がる傾向はなく目眉とも左右対称に描かれ、梅花も緑の葉も律儀ともいえるほどの慎重な筆運びである。木地形態は丸みを帯びて柔らかい。

治郎の梅こけしはこの48歳作から出発し、数をこなしていく中で徐々に速筆化、抽象化され治郎独自のものへと変化していったということが伺える。前述の記事では柴田氏はそうした変化を次のように記している。

梅こけしは円吉が始めた型で、この形は大野栄治の影響であるが、治郎さんは真面目に義父円吉の型を踏襲したのである。しかし矢張り治郎さん独特のところがあり、円吉でも、弟子の大沼昇治でもなく治郎のこけしであり、一目で治郎作と判った。それは上手・下手と言うよりも寧ろ彼の個性であり、一生それを貫いたと言うことができる。

同記事にはまた昭和46年(1971年)1月の東京こけし友の会例会頒布品6寸が写真掲載されている。工人56歳の作であり、一本目に紹介したこけしとやはり作風は似ている。


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