019: 五十嵐嘉行 ②
こけしを集め始めたはじめの頃 ー現在のように特定の型、特定の工人作に拘らず、気の向くままあれこれと手を伸ばしていた時期であるがー ネットオークションで見かけた一本のこけしにたちまち心を奪われた。
津軽系・間宮正男工人による達磨こけしである。全体を白黒灰色で統一し、唇にだけアクセント的に赤を用いたモノトーンこけしで新型に分類されてもおかしくはないものであったが、そのつぶらな瞳と、簡素でモダンな彩色、効果的な赤の使用、木地の余白、すらっとしたフォルム、そして抽象化された胴の達磨模様には汲めども尽きぬ魅力が溢れていた。
また時を同じくして、別の出品者がやはり間宮正男工人による同趣向の面描に赤と紫を用いた達磨こけしも出品していた。こちらはおかっぱ頭で、先述のこけしが垂れ鼻なのに対しこちらは猫鼻、しかし轆轤線に挟まれた胴にはやはり例の達磨模様が描かれていた。この2本が同時期に出品されたことが、私の脳裏にこの型の存在を強烈に印象づける要因となったことは疑いようがない。
残念ながら私はそれらのこけしを落札することはできなかった。オークション初心者であった私はこれらのこけしがいくらで落札され得るかも、またその珍しさも分かっていなかったのである。以来、その型のこけしを気にかけて探してきたが現在に至るまで市場に出回ったことはないように思われる。逃した獲物は大きく、忘れ難い。
「写し」の依頼という注文方法があるのを理解したのはその後のことである。幸い、私は未練がましくもその時の出品写真を落札敗退画像として保存していた。さらに幸運であったのは、間宮正男工人の弟子にあたる工人さんがご健在で、しかも興味関心の深い酒田から近い鶴岡にお住まいだということだった。それが五十嵐嘉行工人である。
かくして2015年6月に酒田を訪れた折に、鶴岡も回り五十嵐嘉行工人にこの間宮正男型達磨こけしの写しをお願いすることにしたのである。
嘉行工人宅にお伺いした時に見せて頂いた正男工人と嘉行工人の2ショット写真に大小の赤い達磨こけしが写っていた。その時の工人談では「この達磨模様は見たことがない」ということであった。一般的な正男型の達磨絵はもっと迫力がある。この達磨の目は大きな丸い眼点のみで構成されており、それが独特の愛嬌を生み出しているように思われる。初めての写しの依頼でなんやかんやと要領を得なかったがとにかく注文することが出来た。

後日出来上がったこれらのこけしは間宮正男型達磨こけしの初作ということになろうか。ともに6寸大。2本とも胴が太く、ずっしりと重いのは嘉行工人の持ち味の表れだろう。
白黒こけしの面描は丸形に近い頭部の中央上よりにちまちまと描かれていて「原」とは別種のふくよかな可愛らしさを生んでいる。もう少し轆轤線にメリハリが欲しいところではあるが、肝心の達磨模様はほぼ「原」の雰囲気が再現されている。一方、赤のこけしは面描、全体の雰囲気ともに「原」に肉迫する出来。「原」の正確な寸法を失念してしまったのだがおそらく4寸か5寸だったかもしれない。それがそのまま6寸に拡大された雰囲気を持つ。
こうして2本を並べると魅力がさらに増すように感じられ心満たされる。憧れていたこけしが今こうして目の前にあるという喜びは格別である。素晴らしい写しを作ってくださった嘉行工人に心より感謝申し上げたい。
津軽系・間宮正男工人による達磨こけしである。全体を白黒灰色で統一し、唇にだけアクセント的に赤を用いたモノトーンこけしで新型に分類されてもおかしくはないものであったが、そのつぶらな瞳と、簡素でモダンな彩色、効果的な赤の使用、木地の余白、すらっとしたフォルム、そして抽象化された胴の達磨模様には汲めども尽きぬ魅力が溢れていた。
また時を同じくして、別の出品者がやはり間宮正男工人による同趣向の面描に赤と紫を用いた達磨こけしも出品していた。こちらはおかっぱ頭で、先述のこけしが垂れ鼻なのに対しこちらは猫鼻、しかし轆轤線に挟まれた胴にはやはり例の達磨模様が描かれていた。この2本が同時期に出品されたことが、私の脳裏にこの型の存在を強烈に印象づける要因となったことは疑いようがない。
残念ながら私はそれらのこけしを落札することはできなかった。オークション初心者であった私はこれらのこけしがいくらで落札され得るかも、またその珍しさも分かっていなかったのである。以来、その型のこけしを気にかけて探してきたが現在に至るまで市場に出回ったことはないように思われる。逃した獲物は大きく、忘れ難い。
「写し」の依頼という注文方法があるのを理解したのはその後のことである。幸い、私は未練がましくもその時の出品写真を落札敗退画像として保存していた。さらに幸運であったのは、間宮正男工人の弟子にあたる工人さんがご健在で、しかも興味関心の深い酒田から近い鶴岡にお住まいだということだった。それが五十嵐嘉行工人である。
かくして2015年6月に酒田を訪れた折に、鶴岡も回り五十嵐嘉行工人にこの間宮正男型達磨こけしの写しをお願いすることにしたのである。
嘉行工人宅にお伺いした時に見せて頂いた正男工人と嘉行工人の2ショット写真に大小の赤い達磨こけしが写っていた。その時の工人談では「この達磨模様は見たことがない」ということであった。一般的な正男型の達磨絵はもっと迫力がある。この達磨の目は大きな丸い眼点のみで構成されており、それが独特の愛嬌を生み出しているように思われる。初めての写しの依頼でなんやかんやと要領を得なかったがとにかく注文することが出来た。

後日出来上がったこれらのこけしは間宮正男型達磨こけしの初作ということになろうか。ともに6寸大。2本とも胴が太く、ずっしりと重いのは嘉行工人の持ち味の表れだろう。
白黒こけしの面描は丸形に近い頭部の中央上よりにちまちまと描かれていて「原」とは別種のふくよかな可愛らしさを生んでいる。もう少し轆轤線にメリハリが欲しいところではあるが、肝心の達磨模様はほぼ「原」の雰囲気が再現されている。一方、赤のこけしは面描、全体の雰囲気ともに「原」に肉迫する出来。「原」の正確な寸法を失念してしまったのだがおそらく4寸か5寸だったかもしれない。それがそのまま6寸に拡大された雰囲気を持つ。
こうして2本を並べると魅力がさらに増すように感じられ心満たされる。憧れていたこけしが今こうして目の前にあるという喜びは格別である。素晴らしい写しを作ってくださった嘉行工人に心より感謝申し上げたい。
スポンサーサイト
017: 五十嵐嘉行 ①
2015年6月、酒田への旅に合わせ鶴岡在住、五十嵐嘉行工人の工房を訪ねた。その折に注文したこけしが先日届けられたので、少し時間が経ってしまったが今回はその報告も兼ねて五十嵐嘉行工人についてまとめてみたい。(以下、敬称略)

五十嵐嘉行工人(2015年6月14日撮影)
1. 歩み
津軽系こけし工人・五十嵐嘉行は昭和2年(1927年)6月1日、鶴岡市本町2丁目の石材業・嘉吉の長男として生まれた。昭和26年(1951年)9月、24歳で鶴岡市内の木地師・伊藤佐太郎に師事し木地修行を行い、茶道具等の木地玩具を制作する。

転機となったのは、昭和59年(1984年)。実弟・嘉道と「新鶴岡こけし」を考案。おそらく上の写真がそれ。同こけしを発表すると山形テレビ等に取り上げられたが、山形こけし会から伝統こけしでなくては駄目だと勧告を受けたという。それを受け弟子入りさせてくれるこけし工人を探したが、当時は受け入れてくれる工人はなく苦労したようである。その中で来てみろと声をかけてくれたのが青森県大鰐温泉の間宮正男であった。余談ではあるが、弟子入りできるところがなかなか見つからない工人は身延山(法華経)に願をかけた。受け入れてくれた間宮正男の元へ行ってみると同人宅にも同じ仏壇があったという話である。
『伝統こけし工人手帳』(平成6年第9刷)によると、昭和60年(1985年)11月から間宮正男の指導を受けた。通いで描彩のみを修業した。昭和62年(1987年)9月7日、間宮正男より師弟許可を受け、晴れて津軽系伝統こけしの制作を行うようになった。時に工人60歳。自宅には師弟許可証が大事に飾られている。

現在は鶴岡市日出町の自宅兼工房にて師匠の間宮正男型と間宮明太郎型の他、遺族の許可のもと鶴岡で活動した竹野銀次郎型も制作している。なお本人に確認したところ、上記「新鶴岡こけし」とkokeshi wiki に記載されている「羽黒山等で売られている創作の「山伏こけし」」は現在は製作していないそうである。
2. こけし鑑賞

始めに手にした嘉行工人作は前列のえじこ2寸9分であった。山頂の天文台を思わせるえじこの胴に小振りなおかっぱ頭がちょこんとのっており、全体の均整もとれて可愛らしい。胴模様は赤、緑、紫の轆轤線のみで構成されており、太い紫の波線がアクセントとなっている。大らかな表情はどこか工人の面影を映しているような気がする。
後列の3本は工人宅で直接注文してきたもの。左より、間宮明太郎型4寸、同6寸、本人型5寸1分。工人宅へ伺うとレパートリーをまとめた小冊子を見せてもらえる。そこに載っている写真にはそれぞれ番号が振られており、例えば「A-②-1の左から2本目のこけしを4寸で1本」という具合にほしいこけしを指定して注文するシステムになっている。
左の4寸は『こけし時代』11号に写真掲載されている木村弦三コレクションでも確認できる小寸の型。胴模様は究極的に簡素。胴の上下に鉋溝が2本ずつ入れられ、各溝には赤い轆轤線が引かれる。ヘアバンドをしているような頭髪の様式、一筆目の素朴な表情など稚拙の味濃厚なこけしである。なお『こけし時代』掲載品は下2本の轆轤線が紫色(?)になっている。
真中の6寸は同じく間宮明太郎型であるが、4寸と対照的にこちらは洗練された意匠。全体が黒い轆轤線と灰色の花模様によって統一されておりモノトーンの配色がモダンな佇まいを醸す。詳しくは別項で紹介するが同時に写しを依頼した間宮正男の達磨こけしに通じる部分が多く、そちらと比較する目的も兼ねてこの型を注文した次第である。送られてきたこけしを手に取ると表情可憐でじわじわとした味わいがあり、注文する際に見た写真よりもずっと可愛らしく感じられるのは思わぬ収穫であった。
右の5寸1分は本人型。Instagram における工人の人気は、このこけしと同じ木地形態に同じおかっぱ頭、胴に三つ葉模様をあしらった本人型に端を発しているように思われる。実際自分もこの工人に興味をもったのはその型からであったと自認しているのだが、他人と同じこけしを持っていてもと思い留まり、轆轤線のみによるこのこけしを選んだ。引き締まった表情はなんとも凛々しい。緑と赤の轆轤線によるこの簡素な胴模様は間宮明太郎系列の真骨頂といったところだろうか。木目の面白さも引き立っているように思う。

さて工房にお邪魔した時、売り物となるこけしは一本もなかった。しかしせっかく来てくれたのだからと片隅に置かれていた達磨をひとつ選んで持たせてくれた。それがこの2寸8分の達磨。ずんぐりと重量感がありながらも木地形態は端正であり、胴に書かれた文字もなにやらすこぶる縁起が良い。そしてこの意思固い表情は愛嬌抜群で、達磨の収集をしていない自分も大いに気に入るところで折に触れて眺めている。工人のご好意にここで改めて感謝いたします。
(つづく)

五十嵐嘉行工人(2015年6月14日撮影)
1. 歩み
津軽系こけし工人・五十嵐嘉行は昭和2年(1927年)6月1日、鶴岡市本町2丁目の石材業・嘉吉の長男として生まれた。昭和26年(1951年)9月、24歳で鶴岡市内の木地師・伊藤佐太郎に師事し木地修行を行い、茶道具等の木地玩具を制作する。

転機となったのは、昭和59年(1984年)。実弟・嘉道と「新鶴岡こけし」を考案。おそらく上の写真がそれ。同こけしを発表すると山形テレビ等に取り上げられたが、山形こけし会から伝統こけしでなくては駄目だと勧告を受けたという。それを受け弟子入りさせてくれるこけし工人を探したが、当時は受け入れてくれる工人はなく苦労したようである。その中で来てみろと声をかけてくれたのが青森県大鰐温泉の間宮正男であった。余談ではあるが、弟子入りできるところがなかなか見つからない工人は身延山(法華経)に願をかけた。受け入れてくれた間宮正男の元へ行ってみると同人宅にも同じ仏壇があったという話である。
『伝統こけし工人手帳』(平成6年第9刷)によると、昭和60年(1985年)11月から間宮正男の指導を受けた。通いで描彩のみを修業した。昭和62年(1987年)9月7日、間宮正男より師弟許可を受け、晴れて津軽系伝統こけしの制作を行うようになった。時に工人60歳。自宅には師弟許可証が大事に飾られている。

現在は鶴岡市日出町の自宅兼工房にて師匠の間宮正男型と間宮明太郎型の他、遺族の許可のもと鶴岡で活動した竹野銀次郎型も制作している。なお本人に確認したところ、上記「新鶴岡こけし」とkokeshi wiki に記載されている「羽黒山等で売られている創作の「山伏こけし」」は現在は製作していないそうである。
2. こけし鑑賞

始めに手にした嘉行工人作は前列のえじこ2寸9分であった。山頂の天文台を思わせるえじこの胴に小振りなおかっぱ頭がちょこんとのっており、全体の均整もとれて可愛らしい。胴模様は赤、緑、紫の轆轤線のみで構成されており、太い紫の波線がアクセントとなっている。大らかな表情はどこか工人の面影を映しているような気がする。
後列の3本は工人宅で直接注文してきたもの。左より、間宮明太郎型4寸、同6寸、本人型5寸1分。工人宅へ伺うとレパートリーをまとめた小冊子を見せてもらえる。そこに載っている写真にはそれぞれ番号が振られており、例えば「A-②-1の左から2本目のこけしを4寸で1本」という具合にほしいこけしを指定して注文するシステムになっている。
左の4寸は『こけし時代』11号に写真掲載されている木村弦三コレクションでも確認できる小寸の型。胴模様は究極的に簡素。胴の上下に鉋溝が2本ずつ入れられ、各溝には赤い轆轤線が引かれる。ヘアバンドをしているような頭髪の様式、一筆目の素朴な表情など稚拙の味濃厚なこけしである。なお『こけし時代』掲載品は下2本の轆轤線が紫色(?)になっている。
真中の6寸は同じく間宮明太郎型であるが、4寸と対照的にこちらは洗練された意匠。全体が黒い轆轤線と灰色の花模様によって統一されておりモノトーンの配色がモダンな佇まいを醸す。詳しくは別項で紹介するが同時に写しを依頼した間宮正男の達磨こけしに通じる部分が多く、そちらと比較する目的も兼ねてこの型を注文した次第である。送られてきたこけしを手に取ると表情可憐でじわじわとした味わいがあり、注文する際に見た写真よりもずっと可愛らしく感じられるのは思わぬ収穫であった。
右の5寸1分は本人型。Instagram における工人の人気は、このこけしと同じ木地形態に同じおかっぱ頭、胴に三つ葉模様をあしらった本人型に端を発しているように思われる。実際自分もこの工人に興味をもったのはその型からであったと自認しているのだが、他人と同じこけしを持っていてもと思い留まり、轆轤線のみによるこのこけしを選んだ。引き締まった表情はなんとも凛々しい。緑と赤の轆轤線によるこの簡素な胴模様は間宮明太郎系列の真骨頂といったところだろうか。木目の面白さも引き立っているように思う。

さて工房にお邪魔した時、売り物となるこけしは一本もなかった。しかしせっかく来てくれたのだからと片隅に置かれていた達磨をひとつ選んで持たせてくれた。それがこの2寸8分の達磨。ずんぐりと重量感がありながらも木地形態は端正であり、胴に書かれた文字もなにやらすこぶる縁起が良い。そしてこの意思固い表情は愛嬌抜群で、達磨の収集をしていない自分も大いに気に入るところで折に触れて眺めている。工人のご好意にここで改めて感謝いたします。
(つづく)
007: 本間直子
ささやかな収集の柱として同じ苗字のこけし工人さんに注目している。今回は津軽系の本間直子工人について。2015年6月20日ねぎしで行われた下谷こけし祭りの際にご本人とお話できる機会があったのでその時の見聞も踏まえつつまとめてみようと思う。(以後、一部敬称略)
1. 歩み
同じ苗字ということもあって本間姓についていくつか話をさせてもらった。それによると直子工人の生まれた家系も3〜4代前を辿ると山形の本間姓にルーツを見いだせるらしい。父親は戦前東京の麻布十番辺りに住んでいたが、戦時中に当時の満州へ渡り、青森に移ってきたのは戦後になってからであるという。
昭和36年(1961年)9月23日、農業を営む本間博の三女として直子工人は生まれた。もともと何かを作り出す職人の仕事に対してあこがれがあったそうで、高校在学中に進路指導の先生と相談しながら各方面の職人に弟子入り可能か打診、その中で「来てみなさい」と言ってくれたのがこけし工人・佐藤善二だった。高校卒業後の昭和55年(1980年)4月1日、佐藤善二に弟子入りし木地修行を始める。兄弟子には阿保六知秀、小島俊幸、一戸一光、善二の長男・佳樹、笹森淳一がいて、直子工人は佐藤善二の最後の弟子ということになる。
こけしを作り始めたのは昭和58年(1983年)になってから。昭和60年7月1日、工人23歳の時に独立した。その直前の6月20日に佐藤善二が61歳で亡くなっている。この時期の前後関係を含めてご本人に確認したところ、もともと7月1日に独立することは決まっておりその頃は師匠もまだ元気であったのだが、念のためと受けたバイパス手術が原因となり急逝されたとのことである。従って、師匠が亡くなってしまったからやむを得ず独立に至ったというわけではない。
昭和62年(1987年)に発行された『こけし手帖』321号の記事によると同年10月のおみやげこけしが直子工人によるものでありこけし写真とともに短い紹介文が掲載されているので引用させていただく。
大勢の弟子養成で定評のあった温湯の佐藤善二の一番末の弟子であり、大多数の女性工人が父または主人を師匠に持っている木地屋の出身であるのに対し、素人の出でありながら活躍を期待される異色の工人である。温湯崖山の工房で修行中は「金太郎」の愛称でファンに親しまれていた。
独立と相前後して師匠が急逝したために、現在は佐藤佳樹を中心に五人が協力し合って活躍している。生家が青森県の東部のために、古牧温泉で常設の実演をしていたが、本年八月、結婚して水尻姓を名乗っている。同じ木材関係の主人の理解もあり、これからも仕事を継続する由、今後益々の活躍を期待したい。(後略)
なおこの時のおみやげこけしは直胴轆轤模様、髷付きのふっくらした丸顔に鯨目が描かれたものであった。
以来、佐藤善二型と多彩な本人型を中心にこけしを製作する。同時に、斎藤幸兵衛型、山谷多兵衛型の復元も行い、その気品のある作風は高い評価を得ている。
2. こけし鑑賞
手持ちの本間直子工人作を見てみる。

(左より)
・本人型 6寸
・佐藤善二型 8寸
・斎藤幸兵衛型牡丹模様 6寸
・斎藤幸兵衛型達磨模様 6寸
一番最初に入手した本間直子工人のこけしは左端の本人型6寸であった。胴の上部が膨らみ段から下は直胴というこの一風変わった木地形態は、盛秀太郎の所謂「古型ロクロ」に近いように思われるが、蜻蛉をあしらったビン飾り、目尻だけ少し上がった柔らかい一筆目、そして大振りな牡丹が一輪描かれた胴模様、短い胴下部など、他に例を見ない意匠となっている。写真では判りづらいが頬には薄く頬紅がさされ、また牡丹の花弁に黄色いロクロ線が引かれている。この型についてちゃんと話を伺えば良かったと今になって思う。またお会いできる機会があれば是非お訊きしたいと思っている。
次に入手したのが佐藤善二型8寸。このこけしの写真を本人にお見せしたところ、①牡丹模様が現在の様式と異なる点、②アイヌ模様が正面に描かれている点などから初期の頃のものだろうと断定された。現在のアイヌ模様は胸の中央から左右に描かれる。この善二型は師匠と相談しながら固めた様式で、これより古い最初期のものはもっとキツい目をしているとのことであった。なお、このこけしでも本人型6寸と同様に頬紅がさされ、同じように黄色いロクロ線も引かれている。あるいは同時期の作品なのかもしれない。
右2本は高幡不動の茶房たんたんが平成24年(2012年)に頒布した斎藤幸兵衛型の牡丹絵6寸と達磨絵6寸である。各種10本ずつ製作を依頼したそうで、店に残っていた最後の一対を入手することができた。左2本との雰囲気の違いにまず驚かされる。ともに粗挽き鉋のみで仕上げ鉋もロー引きもされていない。彩色も濃い染料を用いており力強さを感じる。斎藤幸兵衛型は佐藤善二を筆頭にその弟子たちが手がける型であるが、たんたんの店主さんによると直子工人のこけしには幸兵衛特有の「気品」がとてもよく出ているということであった。まことに本格的な復元作である。
なお、斎藤幸兵衛に関しては『木の花』第10号に詳しい。それによると、斎藤幸兵衛のこけし製作期間は昭和7〜9年(1932〜34年)の3年間に過ぎず、今回の復元作の元となったくびれ胴の髷付き牡丹模様と達磨模様は昭和9年4月に木村弦三氏によって頒布されたものであるという。その頒布では他にロクロ模様による髷なしくびれ胴も作られた。戦前の津軽系こけしに対する評価は軒並み手厳しいものがあった中にあって、斎藤幸兵衛のこけしは例外的に高く評価をされていた。
3. こけしの製作
本間直子工人は寡作の人ということも相まって人気の津軽系工人である。先日の下谷こけし祭りでも持参したこけしは開店すると同時に売れていったと聞く。『こけし時代』の創刊号、11号には現行の本人型が多数掲載されているが、どれも第3次こけしブームの担い手である女性の乙女心を絶妙にくすぐるであろう可愛らしさに溢れたこけしであり、その人気振りもうなずける。
その一方で先述の通り本格的な復元にも取り組んでおり、通をうならせる骨太なこけしも作られているところが男性こけし愛好家としても実に頼もしく思われ好感を持っている。Kokeshi Wiki によると山谷権三郎(多兵衛)型の復元も行っているとあり帽子付き5寸の写真が掲載されている。また、『こけし時代』創刊号には小さくではあるが、これとは別の多兵衞型に加え兄弟子が行っている佐藤伊太郎型の小寸こけしと思われる写真も掲載されいる。ただし、現在それらの復元も行っているかどうかは定かではない。
伺った話によると、現時点でこけしを注文してもそれまでの注文が溜まっているため2〜3年程時間がかかってしまうそうで、新作を手に入れるにはイベント会場に赴くのが確実であるとのことであった。それを聞くと気軽に注文をするのがどうにも憚られ、今後どういう感じで関わっていけるかは今のところわからないが、いずれにしても自分にとって本間直子工人はいつまでも応援し注目していきたい現役工人さんのひとりなのである。
1. 歩み
同じ苗字ということもあって本間姓についていくつか話をさせてもらった。それによると直子工人の生まれた家系も3〜4代前を辿ると山形の本間姓にルーツを見いだせるらしい。父親は戦前東京の麻布十番辺りに住んでいたが、戦時中に当時の満州へ渡り、青森に移ってきたのは戦後になってからであるという。
昭和36年(1961年)9月23日、農業を営む本間博の三女として直子工人は生まれた。もともと何かを作り出す職人の仕事に対してあこがれがあったそうで、高校在学中に進路指導の先生と相談しながら各方面の職人に弟子入り可能か打診、その中で「来てみなさい」と言ってくれたのがこけし工人・佐藤善二だった。高校卒業後の昭和55年(1980年)4月1日、佐藤善二に弟子入りし木地修行を始める。兄弟子には阿保六知秀、小島俊幸、一戸一光、善二の長男・佳樹、笹森淳一がいて、直子工人は佐藤善二の最後の弟子ということになる。
こけしを作り始めたのは昭和58年(1983年)になってから。昭和60年7月1日、工人23歳の時に独立した。その直前の6月20日に佐藤善二が61歳で亡くなっている。この時期の前後関係を含めてご本人に確認したところ、もともと7月1日に独立することは決まっておりその頃は師匠もまだ元気であったのだが、念のためと受けたバイパス手術が原因となり急逝されたとのことである。従って、師匠が亡くなってしまったからやむを得ず独立に至ったというわけではない。
昭和62年(1987年)に発行された『こけし手帖』321号の記事によると同年10月のおみやげこけしが直子工人によるものでありこけし写真とともに短い紹介文が掲載されているので引用させていただく。
大勢の弟子養成で定評のあった温湯の佐藤善二の一番末の弟子であり、大多数の女性工人が父または主人を師匠に持っている木地屋の出身であるのに対し、素人の出でありながら活躍を期待される異色の工人である。温湯崖山の工房で修行中は「金太郎」の愛称でファンに親しまれていた。
独立と相前後して師匠が急逝したために、現在は佐藤佳樹を中心に五人が協力し合って活躍している。生家が青森県の東部のために、古牧温泉で常設の実演をしていたが、本年八月、結婚して水尻姓を名乗っている。同じ木材関係の主人の理解もあり、これからも仕事を継続する由、今後益々の活躍を期待したい。(後略)
なおこの時のおみやげこけしは直胴轆轤模様、髷付きのふっくらした丸顔に鯨目が描かれたものであった。
以来、佐藤善二型と多彩な本人型を中心にこけしを製作する。同時に、斎藤幸兵衛型、山谷多兵衛型の復元も行い、その気品のある作風は高い評価を得ている。
2. こけし鑑賞
手持ちの本間直子工人作を見てみる。

(左より)
・本人型 6寸
・佐藤善二型 8寸
・斎藤幸兵衛型牡丹模様 6寸
・斎藤幸兵衛型達磨模様 6寸
一番最初に入手した本間直子工人のこけしは左端の本人型6寸であった。胴の上部が膨らみ段から下は直胴というこの一風変わった木地形態は、盛秀太郎の所謂「古型ロクロ」に近いように思われるが、蜻蛉をあしらったビン飾り、目尻だけ少し上がった柔らかい一筆目、そして大振りな牡丹が一輪描かれた胴模様、短い胴下部など、他に例を見ない意匠となっている。写真では判りづらいが頬には薄く頬紅がさされ、また牡丹の花弁に黄色いロクロ線が引かれている。この型についてちゃんと話を伺えば良かったと今になって思う。またお会いできる機会があれば是非お訊きしたいと思っている。
次に入手したのが佐藤善二型8寸。このこけしの写真を本人にお見せしたところ、①牡丹模様が現在の様式と異なる点、②アイヌ模様が正面に描かれている点などから初期の頃のものだろうと断定された。現在のアイヌ模様は胸の中央から左右に描かれる。この善二型は師匠と相談しながら固めた様式で、これより古い最初期のものはもっとキツい目をしているとのことであった。なお、このこけしでも本人型6寸と同様に頬紅がさされ、同じように黄色いロクロ線も引かれている。あるいは同時期の作品なのかもしれない。
右2本は高幡不動の茶房たんたんが平成24年(2012年)に頒布した斎藤幸兵衛型の牡丹絵6寸と達磨絵6寸である。各種10本ずつ製作を依頼したそうで、店に残っていた最後の一対を入手することができた。左2本との雰囲気の違いにまず驚かされる。ともに粗挽き鉋のみで仕上げ鉋もロー引きもされていない。彩色も濃い染料を用いており力強さを感じる。斎藤幸兵衛型は佐藤善二を筆頭にその弟子たちが手がける型であるが、たんたんの店主さんによると直子工人のこけしには幸兵衛特有の「気品」がとてもよく出ているということであった。まことに本格的な復元作である。
なお、斎藤幸兵衛に関しては『木の花』第10号に詳しい。それによると、斎藤幸兵衛のこけし製作期間は昭和7〜9年(1932〜34年)の3年間に過ぎず、今回の復元作の元となったくびれ胴の髷付き牡丹模様と達磨模様は昭和9年4月に木村弦三氏によって頒布されたものであるという。その頒布では他にロクロ模様による髷なしくびれ胴も作られた。戦前の津軽系こけしに対する評価は軒並み手厳しいものがあった中にあって、斎藤幸兵衛のこけしは例外的に高く評価をされていた。
3. こけしの製作
本間直子工人は寡作の人ということも相まって人気の津軽系工人である。先日の下谷こけし祭りでも持参したこけしは開店すると同時に売れていったと聞く。『こけし時代』の創刊号、11号には現行の本人型が多数掲載されているが、どれも第3次こけしブームの担い手である女性の乙女心を絶妙にくすぐるであろう可愛らしさに溢れたこけしであり、その人気振りもうなずける。
その一方で先述の通り本格的な復元にも取り組んでおり、通をうならせる骨太なこけしも作られているところが男性こけし愛好家としても実に頼もしく思われ好感を持っている。Kokeshi Wiki によると山谷権三郎(多兵衛)型の復元も行っているとあり帽子付き5寸の写真が掲載されている。また、『こけし時代』創刊号には小さくではあるが、これとは別の多兵衞型に加え兄弟子が行っている佐藤伊太郎型の小寸こけしと思われる写真も掲載されいる。ただし、現在それらの復元も行っているかどうかは定かではない。
伺った話によると、現時点でこけしを注文してもそれまでの注文が溜まっているため2〜3年程時間がかかってしまうそうで、新作を手に入れるにはイベント会場に赴くのが確実であるとのことであった。それを聞くと気軽に注文をするのがどうにも憚られ、今後どういう感じで関わっていけるかは今のところわからないが、いずれにしても自分にとって本間直子工人はいつまでも応援し注目していきたい現役工人さんのひとりなのである。
| ホーム |