025: 深瀬国雄
遺作のない工人は蒐集家の追求の対象から外れてしまうことが少なくない。深瀬国雄という人物は、柏倉勝郎と彼によって創作された酒田こけしを語る上で欠かすことのできない木地師である。しかしその遺作が残されていないこともあってか現在までこの木地師について深く追求がなされたことはなかったように思われる。
1. 生涯
深瀬国雄についての主たる文献は
・こけし辞典 深瀬国雄ならびに大宮安次郎の項(昭和46年初版)
・山形のこけし (昭和56年)
・こけし手帖 46号 白鳥正明「柏倉勝郎とその周辺」(昭和37年)
あたりを頼るしかないが、『こけし辞典』、『山形のこけし』ともに有効な情報が掲載されているとは言い難い。国雄についての記述は『こけし手帖 46号』白鳥正明氏による柏倉勝郎への聞き取りを第一とする。以下、勝郎が語ったとされる国雄に関する該当箇所を引用する。
深瀬国男はおとなしくて朗らかな人あたりのよい男だった。私より一歳年長のはずで、体格は中肉中背、酒はあまり呑まなかった。蔵王高湯の岡崎栄作の弟子で近所の子供達にこけしを作ってやったことがあり、私がこけしを後年作るとき、そのこけしを思い出して参考にした。国男はもう大分前に山形在の山家で死んだはずだ。
また同記事では名前表記に関して「こけし手帖十号「山形市周辺と上ノ山のこけし」(しばたはじめ)で”山家の深瀬某”として、また三十五号「能登屋・岡崎栄作」(武田利一)では、深瀬国夫として触れている。この名前の国男は勝郎によれば、男または雄で夫ではないということだが、どれが正しいか断定は出来ない。」と補足説明がされている。なお、現在では「深瀬国雄」表記が一般的と思われるため本ブログではそれに従うことにする。
『こけし辞典』(初版)の深瀬国雄の項には生年が記載されていないが、前述の勝郎の発言が確かであれば明治27年(1894年)の生まれということになる。山形県東村山群双月村上山家(現山形市)の出身。以下『こけし辞典』の情報に基づいて歩みを辿っていくと、明治38年(1905年)、11歳の頃に蔵王高湯能登屋の岡崎栄作の弟子となる。当時、栄作19歳。栄作のもと木地挽きを修業し、9年後の大正3年(1914年)、20歳で大宮安次郎を弟子にとったという。大宮安次郎は国雄の兄弟の妻の弟、つまり義理の弟にあたるが、『辞典』の深瀬国雄項と大宮安次郎項で食い違いがあって国雄項では実弟「信好」の妻とし、安次郎項では実兄「信義」の妻となっている。「ノブヨシ」であることに間違いはないのだが。
先の引用箇所で少し触れられたが『こけし手帖 35号』に国雄に関する記述があるのでみてみると、「山形市山家の人、大正の初め頃いた弟子で丸顔の可愛らしい人であったとのこと」。柏倉勝郎の述懐と合わせると、その人柄と風貌が垣間見えてはこないだろうか。
その後の歩みを両項照らし合わせながら見ていく。国雄項では「大正七年ころ安次郎とともに及位の落合滝の木工所で職人をした。(中略)のち山家で木地業を営み、若くして死んだ。」とある。一方の安次郎項によると、「大正六年伊藤泰輔の世話で、国雄と共に山形県最上郡の落合滝木工所で働いた。同年国男が死亡し、伊藤泰輔について木地挽を続けた。」と記載されており、両項の食い違いが続くのである。
深瀬国雄の項は白鳥正明氏が担当し、『こけし手帖 46号』における勝郎への聞き取りがベースになっており目新しい内容はない。一方で、箕輪新一氏が担当した大宮安次郎の項はおそらく安次郎の息子達(大宮安光、正安、正貴)への聞き取りによるもので記述内容から判断するとこちらの方が信頼性は高いと思われる。しかし、大正6年に国雄が死亡してしまうと、大正7年(24歳の時)に落合滝に移った勝郎との接点がなくなってしまう。そこで当時一緒に落合滝木工所で働いていた工人を『こけし辞典』から参照すると、
・伊藤泰輔(白鳥正明氏担当)
大正六年薬師町の自宅で木地屋を開業した。専売局を退職したのはその後のことで、開業の頃は兼業だった。(中略)また、柏倉勝郎によれば、大正年間及位の落合滝の木工所で、主に事務的な仕事をしていたという。
・柏倉勝郎(白鳥正明氏担当)
二四歳のとき同じ及位村の落合滝に木工所(新及位製材所)ができ、そちらへ移って伊藤泰輔、深瀬国雄、神尾長八、武田弘、大宮安次郎、渡辺幸九郎などと共に、主として織物に使う木管を挽いた。
・神尾長八(箕輪新一氏担当)
大正七、八年頃一とき及位の落合滝木工所で職人をした(手帖・四六)
・武田弘(鹿間時夫氏担当)
大正八年ころ及位の落合滝の木工所で、伊藤泰輔、神尾長八、柏倉勝郎、深瀬国雄、大宮安次郎、渡辺幸九郎などと一緒に働いたことがある。
・渡辺幸九郎(橋本正明氏担当)
大正八年二八歳より及位落合滝の新及位製材所に伊藤泰輔の紹介で入り、深瀬国雄・神尾長八・武田弘・大宮安次郎・柏倉勝郎などとともに、ブナ材の椀類を挽いた。及位時代に旧及位出身のトリイと結婚。この工場は菅原兵衞・姫木広吉・柴田太郎が経営したが、大正九年ころに一時失敗し、幸九郎はこれを機会に、兄の独立していた下ノ原へ帰り、約六年間幸治郎のもとで働いた。
勝郎の項にある通り、新及位製材所ができたのは柏倉勝郎が24歳の時つまり大正7年であるとするならば、大正6年説は否定される。大正6年に死亡したのであれば勝郎の「国男はもう大分前に山形在の山家で死んだはずだ。」という発言自体が成り立たなくなってしまうのである。また、渡辺幸九郎の項に着目すると、大正8年の段階でも深瀬国雄と一緒に働いていたとされるのでこの頃までは存命であったことが伺える。
以上を踏まえると、国雄が安次郎と共に落合滝の木工所へ移ったのは大正7年(1918年)で少なくとも翌年までは同地で働いていたと思われる。正確な年はわからないがその後国雄は上家に戻りそこで亡くなる。死去によるものか行動を別にしたのかは定かではないが師を失った大宮安次郎は、その後伊藤泰輔につき木地挽きを続け、東京八王子を経て、大正10年頃にかつて国雄が修業していた蔵王高湯の能登屋で職人として働くことになる。安次郎のその後の足取りが東京を経由していたことも踏まえると大正9年(1920年)頃には既に亡くなっていたものと思われる。つまり、26歳前後での夭逝であり、勝郎の「若くして死んだ」という述懐とも辻褄が合う。
2. こけし
深瀬国雄のこけしは残されていない。若くして亡くなったことに加え、彼が活動していた時期は明治末から大正半ばまでというのも関係してくる。つまり、当時こけしは純然たるこどもの遊び道具であって、大人がそれを蒐集対象とし始めたのはずっと後になってからの事である。
幸い、国雄の師である岡崎栄作、弟子である大宮安次郎のこけしは残されているし、国雄のこけしに影響を受けたという柏倉勝郎のこけしも記録として残っているので、それらから国雄のこけしを類推することは可能であろう。少なくとも、岡崎栄作のこけしと大宮安次郎のこけしを結ぶ線上に深瀬国雄のこけしがあったことは間違いない。
国雄が栄作の元にいたのは上述の通り、明治38年(1905年)から大正7年(1917年)の13年程と推定される。この期間の栄作によるこけしは残されていない。時期的に最も近いのは『こけし古作図譜』掲載品。同じものは『こけし 美と系譜』の図版66にも載っている。左から2本目の大正後期作がそれである。一方、大宮安次郎作は『こけし 美と系譜』の図版31に昭和18年12月作が確認できる。
まず、両者の共通点は即ち国雄のこけしの構成要素と考えて間違いない。つまり、
・おかっぱ頭
・胴上下に引かれる赤い轆轤線とその内側に添えられる緑の細い轆轤線
・緑と赤による交互の重ね菊(能登屋の特徴)
・二筆による赤い口元
次に両者の相違点に国雄の独自性を考える上でのヒントが隠されていると思われる。つまり、
・栄作の二側目と安次郎の一側目
安次郎のこけしは蔵王高湯系には珍しく大寸でも一側目となっている
・栄作のたれ鼻と安次郎のねこ鼻
・木地形態
安次郎の胴は細い
最後に柏倉勝郎作との比較から類推する。勝郎の初期作と考えられるのは武井武雄による『愛蔵こけし図譜』であり、昭和初期に作られたであろうこのこけしは描彩において深瀬国男の影響が色濃く残っていると考えられる。武井勝郎と上述した栄作と安次郎の共通点は
・緑の中剃りを伴うおかっぱ頭
・一側目
・たれ鼻
・上下の赤い轆轤線
・重ね菊と菊の中央に打たれる青点
・黄胴(『美と系譜』の安次郎作も黄胴)
にある。落合滝の木工所で近所の子供に挽いてあげたという深瀬国雄のこけしは蔵王高湯系能登屋のおかっぱ頭に一側目を描いたものであったと考えられるのである。
蛇足ながら、以下は国雄作にはなかったと思われる勝郎独自の要素
・黒の二筆に紅をさす口の様式
・菊の葉模様
以上2点は或いは及位時代の佐藤文六の影響か
・鬢飾り(リボン)
『木の花 第22号』では同じ酒田の白畑重治の影響が指摘されている
・胴のくびれ、首元の木地形態
木地挽きした本間儀三郎の鳴子要素
3. 結び
以上考察してきたように、栄作と安次郎という師匠と孫弟子にあたる2工人から遺作の残されていない国雄のこけしのありし姿を想像することはこけしの伝承を考える上で大きな示唆に富むと思われる。さらにそこから雑系と呼ばれる柏倉勝郎への影響を見て取るとき、こけしの伝播という現象が目の前に広がる思いがする。
1. 生涯
深瀬国雄についての主たる文献は
・こけし辞典 深瀬国雄ならびに大宮安次郎の項(昭和46年初版)
・山形のこけし (昭和56年)
・こけし手帖 46号 白鳥正明「柏倉勝郎とその周辺」(昭和37年)
あたりを頼るしかないが、『こけし辞典』、『山形のこけし』ともに有効な情報が掲載されているとは言い難い。国雄についての記述は『こけし手帖 46号』白鳥正明氏による柏倉勝郎への聞き取りを第一とする。以下、勝郎が語ったとされる国雄に関する該当箇所を引用する。
深瀬国男はおとなしくて朗らかな人あたりのよい男だった。私より一歳年長のはずで、体格は中肉中背、酒はあまり呑まなかった。蔵王高湯の岡崎栄作の弟子で近所の子供達にこけしを作ってやったことがあり、私がこけしを後年作るとき、そのこけしを思い出して参考にした。国男はもう大分前に山形在の山家で死んだはずだ。
また同記事では名前表記に関して「こけし手帖十号「山形市周辺と上ノ山のこけし」(しばたはじめ)で”山家の深瀬某”として、また三十五号「能登屋・岡崎栄作」(武田利一)では、深瀬国夫として触れている。この名前の国男は勝郎によれば、男または雄で夫ではないということだが、どれが正しいか断定は出来ない。」と補足説明がされている。なお、現在では「深瀬国雄」表記が一般的と思われるため本ブログではそれに従うことにする。
『こけし辞典』(初版)の深瀬国雄の項には生年が記載されていないが、前述の勝郎の発言が確かであれば明治27年(1894年)の生まれということになる。山形県東村山群双月村上山家(現山形市)の出身。以下『こけし辞典』の情報に基づいて歩みを辿っていくと、明治38年(1905年)、11歳の頃に蔵王高湯能登屋の岡崎栄作の弟子となる。当時、栄作19歳。栄作のもと木地挽きを修業し、9年後の大正3年(1914年)、20歳で大宮安次郎を弟子にとったという。大宮安次郎は国雄の兄弟の妻の弟、つまり義理の弟にあたるが、『辞典』の深瀬国雄項と大宮安次郎項で食い違いがあって国雄項では実弟「信好」の妻とし、安次郎項では実兄「信義」の妻となっている。「ノブヨシ」であることに間違いはないのだが。
先の引用箇所で少し触れられたが『こけし手帖 35号』に国雄に関する記述があるのでみてみると、「山形市山家の人、大正の初め頃いた弟子で丸顔の可愛らしい人であったとのこと」。柏倉勝郎の述懐と合わせると、その人柄と風貌が垣間見えてはこないだろうか。
その後の歩みを両項照らし合わせながら見ていく。国雄項では「大正七年ころ安次郎とともに及位の落合滝の木工所で職人をした。(中略)のち山家で木地業を営み、若くして死んだ。」とある。一方の安次郎項によると、「大正六年伊藤泰輔の世話で、国雄と共に山形県最上郡の落合滝木工所で働いた。同年国男が死亡し、伊藤泰輔について木地挽を続けた。」と記載されており、両項の食い違いが続くのである。
深瀬国雄の項は白鳥正明氏が担当し、『こけし手帖 46号』における勝郎への聞き取りがベースになっており目新しい内容はない。一方で、箕輪新一氏が担当した大宮安次郎の項はおそらく安次郎の息子達(大宮安光、正安、正貴)への聞き取りによるもので記述内容から判断するとこちらの方が信頼性は高いと思われる。しかし、大正6年に国雄が死亡してしまうと、大正7年(24歳の時)に落合滝に移った勝郎との接点がなくなってしまう。そこで当時一緒に落合滝木工所で働いていた工人を『こけし辞典』から参照すると、
・伊藤泰輔(白鳥正明氏担当)
大正六年薬師町の自宅で木地屋を開業した。専売局を退職したのはその後のことで、開業の頃は兼業だった。(中略)また、柏倉勝郎によれば、大正年間及位の落合滝の木工所で、主に事務的な仕事をしていたという。
・柏倉勝郎(白鳥正明氏担当)
二四歳のとき同じ及位村の落合滝に木工所(新及位製材所)ができ、そちらへ移って伊藤泰輔、深瀬国雄、神尾長八、武田弘、大宮安次郎、渡辺幸九郎などと共に、主として織物に使う木管を挽いた。
・神尾長八(箕輪新一氏担当)
大正七、八年頃一とき及位の落合滝木工所で職人をした(手帖・四六)
・武田弘(鹿間時夫氏担当)
大正八年ころ及位の落合滝の木工所で、伊藤泰輔、神尾長八、柏倉勝郎、深瀬国雄、大宮安次郎、渡辺幸九郎などと一緒に働いたことがある。
・渡辺幸九郎(橋本正明氏担当)
大正八年二八歳より及位落合滝の新及位製材所に伊藤泰輔の紹介で入り、深瀬国雄・神尾長八・武田弘・大宮安次郎・柏倉勝郎などとともに、ブナ材の椀類を挽いた。及位時代に旧及位出身のトリイと結婚。この工場は菅原兵衞・姫木広吉・柴田太郎が経営したが、大正九年ころに一時失敗し、幸九郎はこれを機会に、兄の独立していた下ノ原へ帰り、約六年間幸治郎のもとで働いた。
勝郎の項にある通り、新及位製材所ができたのは柏倉勝郎が24歳の時つまり大正7年であるとするならば、大正6年説は否定される。大正6年に死亡したのであれば勝郎の「国男はもう大分前に山形在の山家で死んだはずだ。」という発言自体が成り立たなくなってしまうのである。また、渡辺幸九郎の項に着目すると、大正8年の段階でも深瀬国雄と一緒に働いていたとされるのでこの頃までは存命であったことが伺える。
以上を踏まえると、国雄が安次郎と共に落合滝の木工所へ移ったのは大正7年(1918年)で少なくとも翌年までは同地で働いていたと思われる。正確な年はわからないがその後国雄は上家に戻りそこで亡くなる。死去によるものか行動を別にしたのかは定かではないが師を失った大宮安次郎は、その後伊藤泰輔につき木地挽きを続け、東京八王子を経て、大正10年頃にかつて国雄が修業していた蔵王高湯の能登屋で職人として働くことになる。安次郎のその後の足取りが東京を経由していたことも踏まえると大正9年(1920年)頃には既に亡くなっていたものと思われる。つまり、26歳前後での夭逝であり、勝郎の「若くして死んだ」という述懐とも辻褄が合う。
2. こけし
深瀬国雄のこけしは残されていない。若くして亡くなったことに加え、彼が活動していた時期は明治末から大正半ばまでというのも関係してくる。つまり、当時こけしは純然たるこどもの遊び道具であって、大人がそれを蒐集対象とし始めたのはずっと後になってからの事である。
幸い、国雄の師である岡崎栄作、弟子である大宮安次郎のこけしは残されているし、国雄のこけしに影響を受けたという柏倉勝郎のこけしも記録として残っているので、それらから国雄のこけしを類推することは可能であろう。少なくとも、岡崎栄作のこけしと大宮安次郎のこけしを結ぶ線上に深瀬国雄のこけしがあったことは間違いない。
国雄が栄作の元にいたのは上述の通り、明治38年(1905年)から大正7年(1917年)の13年程と推定される。この期間の栄作によるこけしは残されていない。時期的に最も近いのは『こけし古作図譜』掲載品。同じものは『こけし 美と系譜』の図版66にも載っている。左から2本目の大正後期作がそれである。一方、大宮安次郎作は『こけし 美と系譜』の図版31に昭和18年12月作が確認できる。
まず、両者の共通点は即ち国雄のこけしの構成要素と考えて間違いない。つまり、
・おかっぱ頭
・胴上下に引かれる赤い轆轤線とその内側に添えられる緑の細い轆轤線
・緑と赤による交互の重ね菊(能登屋の特徴)
・二筆による赤い口元
次に両者の相違点に国雄の独自性を考える上でのヒントが隠されていると思われる。つまり、
・栄作の二側目と安次郎の一側目
安次郎のこけしは蔵王高湯系には珍しく大寸でも一側目となっている
・栄作のたれ鼻と安次郎のねこ鼻
・木地形態
安次郎の胴は細い
最後に柏倉勝郎作との比較から類推する。勝郎の初期作と考えられるのは武井武雄による『愛蔵こけし図譜』であり、昭和初期に作られたであろうこのこけしは描彩において深瀬国男の影響が色濃く残っていると考えられる。武井勝郎と上述した栄作と安次郎の共通点は
・緑の中剃りを伴うおかっぱ頭
・一側目
・たれ鼻
・上下の赤い轆轤線
・重ね菊と菊の中央に打たれる青点
・黄胴(『美と系譜』の安次郎作も黄胴)
にある。落合滝の木工所で近所の子供に挽いてあげたという深瀬国雄のこけしは蔵王高湯系能登屋のおかっぱ頭に一側目を描いたものであったと考えられるのである。
蛇足ながら、以下は国雄作にはなかったと思われる勝郎独自の要素
・黒の二筆に紅をさす口の様式
・菊の葉模様
以上2点は或いは及位時代の佐藤文六の影響か
・鬢飾り(リボン)
『木の花 第22号』では同じ酒田の白畑重治の影響が指摘されている
・胴のくびれ、首元の木地形態
木地挽きした本間儀三郎の鳴子要素
3. 結び
以上考察してきたように、栄作と安次郎という師匠と孫弟子にあたる2工人から遺作の残されていない国雄のこけしのありし姿を想像することはこけしの伝承を考える上で大きな示唆に富むと思われる。さらにそこから雑系と呼ばれる柏倉勝郎への影響を見て取るとき、こけしの伝播という現象が目の前に広がる思いがする。
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023: 遠藤幸三
こけし収集の割と早い段階で遠藤幸三というこけし工人を知り、以来心の片隅で気に留めてきた。『木の花 第29号』に掲載された箕輪新一氏による「万屋 ー時代と周辺ー(中)」という記事がそもそものきっかけであったと思う。おかっぱ頭と甘い眼差しが印象的なこけしは蔵王高湯系の中でも自分好みのように思えたがその後特に入手に至る機会には恵まれてはこなかった。
2015年10月30日、高円寺で開催されたマイファーストこけしの会場で遠方よりいらしていたSさん他一行と収穫物を披露し談笑する機会があった。Sさんの入手されたこけしの中にこの遠藤幸三7寸があった。枯れた筆致による表情は頗る甘美で状態も良好。なかなか良いこけしを入手されたなと感心したが、聞けば東京こけし友の会が実施した一回300円のくじの景品であると言う。そして帰りの手荷物が増えて困るので私にもらってくれないかとおっしゃるではないか。或いは物欲しそうな目で見ていたのかもしれぬ。収集家の卑しき業かな。といいつつ厚かましくもお言葉に甘え頂いてしまった次第である。

1. 文献
遠藤幸三についてまとめられた文献を整理してみる。
・こけし辞典 遠藤幸三の項(昭和46年初版)
・山形のこけし (昭和56年)
・木の花 第28号 矢田正生「戦後の幸三こけし」(昭和56年)
・木の花 第29号 箕輪新一「万屋 ー時代と周辺ー(中)」(昭和56年)
・こけし手帖 326号 四園楸「蔵王萬屋・最後の工人遠藤幸三」(昭和63年)
2. 歩み
蔵王高湯系は大きく、①能登屋、②三春屋(緑屋含む)、③万屋、④木地屋代助に分類される。能登屋であれば岡崎栄治郎、三春屋は斉藤松治、緑屋は斉藤源吉、万屋は我妻勝之助、木地屋代助は岡崎長次郎がそれぞれ中心的な重要工人として挙げられるだろう。他の店と違い万屋は当主が木地を挽かなかった。その為多くの職人が出入りすることになったがそのうちの一人が遠藤幸三であった。
遠藤幸三は明治44年(1911年)1月5日、山形市滝山村上桜田に生まれた。子供のいなかった万屋の後継ぎになる約束で大正10年、11歳の時に蔵王へ移った。昭和2年、17歳でその頃万屋の職人であった吉田仁一郎(よしだにいちろう:1899~1940)について木地挽きを習う。その後当主の藤助に子供が生まれたため後継ぎの話はなくなった。蔵王を後にした幸三は銀山を経て応召、復員後再び万屋の職人に。しかし昭和23年(1948年)に万屋が旅館に転業したのを機に山形市上山家に移り独立するも一年で木地挽きを休業して酒造店へ就職してしまった。
幸三が再びこけし作りを再開するのは昭和34年(1959年)、48歳の時。しばたはじめ氏と露木昶氏の働きかけによるもので、他人の挽いた木地に描彩だけを行った。描彩は昭和50年代まで続けられたが、『こけし手帖 326号』によると「昭和六十年以降は、残念ながらほとんどこけしを作っていない」状況であったという。遠藤幸三は平成3年(1991年)3月30日に老衰のため亡くなった。行年80歳。
3. こけし
『木の花 第28号』矢田正生による「戦後の幸三こけし」に年代変遷が写真入りで掲載されている。この記事を参考に今回入手した幸三作を探ってみたい。
先ず旭菊による胴模様であるが、一枚の花弁を二筆で描く様式は②の昭和35年10月作に近い。葉の形状も似ているように思われる。③以降は花弁が一筆で描かれているように見受けられる。木地形態を見てみると、面長の頭部も②に違いが、「頭の中剃りはない。旭菊の花弁は一番下を除いて左右三弁ずつである」という記述にこのこけしとの相違点が見受けられる。このこけしには緑の中剃りがある。鼻のそりがU字になる点は③の昭和37年7月作に近く、説明にある「この時期前後に中剃りのあるものも見られる」という記述と合致する。胴底の署名は「山形 遠藤 幸三」であり、⑦の昭和49年9月までという記述と一致する。以上のことから②(昭和35年10月)から③(昭和37年7月)の間に作られたものと推定できる。
『木の花 第28号』によると「<ガイド>には小林誠太郎木地との記載があるが、これはごく最初で、以後は大宮正安の木地が多い」とある。大宮正安は同じ蔵王高湯系、能登屋のこけし工人であり、この工人にも興味があるのでまた別の機会に取り上げようと考えている。

さて、製作年の近い②の説明には「描彩も、復活時のような繊細な描き方ではなくて、訥々として筆太く、淳朴な描き方が好ましい。いわゆる上手なこけしではなく、むしろ粗筆と言えよう。普段上手のこけしを見慣れている目には、この幸三の描彩はなんともたよりないが、小さい猫鼻が目に寄って、小さく結んだ口の朴訥な雰囲気はなんともいえず好ましい。」とある。
『こけし古作図譜』や或いは実際に各地のこけし館で古品を見て思うのは面描における筆の揺れが得も言えぬ味わいを醸しているという点である。もちろん古品の中にも揺れひとつない面描のこけしは山とあるが、少なくとも自分の興味を惹くのはどうもそういった筆の揺れのあるこけしなのである。現代のこけしの面描は得てして均整が取れ過ぎてこの揺れが感じられるものが少ないようにも思われる。執筆者矢田氏のいうところの「上手のこけし」ということであろう。ヤフオクで夜な夜な高値で取引される古品こけしにあって現代のこけしにないもの、それを考えるとこの一世紀の間に失われてきたものが何であるかは自ずと見えてくるような気もするのであるが。
たどたどしい面描に深い味わいを漂わす良作をお譲りいただいたSさんに改めて感謝申し上げます。
2015年10月30日、高円寺で開催されたマイファーストこけしの会場で遠方よりいらしていたSさん他一行と収穫物を披露し談笑する機会があった。Sさんの入手されたこけしの中にこの遠藤幸三7寸があった。枯れた筆致による表情は頗る甘美で状態も良好。なかなか良いこけしを入手されたなと感心したが、聞けば東京こけし友の会が実施した一回300円のくじの景品であると言う。そして帰りの手荷物が増えて困るので私にもらってくれないかとおっしゃるではないか。或いは物欲しそうな目で見ていたのかもしれぬ。収集家の卑しき業かな。といいつつ厚かましくもお言葉に甘え頂いてしまった次第である。

1. 文献
遠藤幸三についてまとめられた文献を整理してみる。
・こけし辞典 遠藤幸三の項(昭和46年初版)
・山形のこけし (昭和56年)
・木の花 第28号 矢田正生「戦後の幸三こけし」(昭和56年)
・木の花 第29号 箕輪新一「万屋 ー時代と周辺ー(中)」(昭和56年)
・こけし手帖 326号 四園楸「蔵王萬屋・最後の工人遠藤幸三」(昭和63年)
2. 歩み
蔵王高湯系は大きく、①能登屋、②三春屋(緑屋含む)、③万屋、④木地屋代助に分類される。能登屋であれば岡崎栄治郎、三春屋は斉藤松治、緑屋は斉藤源吉、万屋は我妻勝之助、木地屋代助は岡崎長次郎がそれぞれ中心的な重要工人として挙げられるだろう。他の店と違い万屋は当主が木地を挽かなかった。その為多くの職人が出入りすることになったがそのうちの一人が遠藤幸三であった。
遠藤幸三は明治44年(1911年)1月5日、山形市滝山村上桜田に生まれた。子供のいなかった万屋の後継ぎになる約束で大正10年、11歳の時に蔵王へ移った。昭和2年、17歳でその頃万屋の職人であった吉田仁一郎(よしだにいちろう:1899~1940)について木地挽きを習う。その後当主の藤助に子供が生まれたため後継ぎの話はなくなった。蔵王を後にした幸三は銀山を経て応召、復員後再び万屋の職人に。しかし昭和23年(1948年)に万屋が旅館に転業したのを機に山形市上山家に移り独立するも一年で木地挽きを休業して酒造店へ就職してしまった。
幸三が再びこけし作りを再開するのは昭和34年(1959年)、48歳の時。しばたはじめ氏と露木昶氏の働きかけによるもので、他人の挽いた木地に描彩だけを行った。描彩は昭和50年代まで続けられたが、『こけし手帖 326号』によると「昭和六十年以降は、残念ながらほとんどこけしを作っていない」状況であったという。遠藤幸三は平成3年(1991年)3月30日に老衰のため亡くなった。行年80歳。
3. こけし
『木の花 第28号』矢田正生による「戦後の幸三こけし」に年代変遷が写真入りで掲載されている。この記事を参考に今回入手した幸三作を探ってみたい。
先ず旭菊による胴模様であるが、一枚の花弁を二筆で描く様式は②の昭和35年10月作に近い。葉の形状も似ているように思われる。③以降は花弁が一筆で描かれているように見受けられる。木地形態を見てみると、面長の頭部も②に違いが、「頭の中剃りはない。旭菊の花弁は一番下を除いて左右三弁ずつである」という記述にこのこけしとの相違点が見受けられる。このこけしには緑の中剃りがある。鼻のそりがU字になる点は③の昭和37年7月作に近く、説明にある「この時期前後に中剃りのあるものも見られる」という記述と合致する。胴底の署名は「山形 遠藤 幸三」であり、⑦の昭和49年9月までという記述と一致する。以上のことから②(昭和35年10月)から③(昭和37年7月)の間に作られたものと推定できる。
『木の花 第28号』によると「<ガイド>には小林誠太郎木地との記載があるが、これはごく最初で、以後は大宮正安の木地が多い」とある。大宮正安は同じ蔵王高湯系、能登屋のこけし工人であり、この工人にも興味があるのでまた別の機会に取り上げようと考えている。

さて、製作年の近い②の説明には「描彩も、復活時のような繊細な描き方ではなくて、訥々として筆太く、淳朴な描き方が好ましい。いわゆる上手なこけしではなく、むしろ粗筆と言えよう。普段上手のこけしを見慣れている目には、この幸三の描彩はなんともたよりないが、小さい猫鼻が目に寄って、小さく結んだ口の朴訥な雰囲気はなんともいえず好ましい。」とある。
『こけし古作図譜』や或いは実際に各地のこけし館で古品を見て思うのは面描における筆の揺れが得も言えぬ味わいを醸しているという点である。もちろん古品の中にも揺れひとつない面描のこけしは山とあるが、少なくとも自分の興味を惹くのはどうもそういった筆の揺れのあるこけしなのである。現代のこけしの面描は得てして均整が取れ過ぎてこの揺れが感じられるものが少ないようにも思われる。執筆者矢田氏のいうところの「上手のこけし」ということであろう。ヤフオクで夜な夜な高値で取引される古品こけしにあって現代のこけしにないもの、それを考えるとこの一世紀の間に失われてきたものが何であるかは自ずと見えてくるような気もするのであるが。
たどたどしい面描に深い味わいを漂わす良作をお譲りいただいたSさんに改めて感謝申し上げます。
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