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036: 柴崎丑次郎

『こけし辞典』によると柴崎丑次郎は明治21年(1888年)12月13日、山形県北村上郡高橋に生まれた。姉「くの」の息子が松田初見。明治25年に鳴子へ移住し、明治35年15歳で高橋勘治に弟子入りした。明治38年に独立後は兵役をはさんで各地を転々と働き歩いた。

こけしに関する記述を追ってみると、まず勘治の元での修業時代にこけしの木地下を挽き、つづいて大正6年30歳の頃、岩手県台で菓子入れとともにこけしも挽いたとある。また鈴木(鼓堂?)コレクションに昭和初年作が確認されているという。昭和42年工人80歳の頃、鹿間時夫氏の依頼で菅原和平の木地に描彩をした。その後、松田三夫や中鉢君雄(ともに親戚筋にあたる)の木地に描彩をしていたが、昭和44年2月(82歳)から小寸を自挽きし始め、翌年春には大寸も自挽きした。昭和46年(1971年)12月29日に84歳で亡くなったので、復活後の製作期間は5年に満たない。

『こけし辞典』では「勘治の弟子ではあるが、こけしに関するかぎり見取り学問の傾向が強い」としながらも「自挽の作は胴細く肩やや丸みをおび、稚拙素朴な菊、かえで、けしの花(?)等を描き、一筆目はすこぶる童女相で愛すべきこけしである。現代のきれいに完成された鳴子こけしの中では異質の存在で、定助と同じ位置にあるといえるであろう」と評価されている。

柴崎丑次郎1-1

初めて手にした柴崎丑次郎作は6寸9分、ひやねのヤフオク出品だった。ふくふくとした一筆目の表情で、胴には2輪の菊が伸び伸びと描かれている。胴底には「鳴子 柴崎丑次郎 八十二才」の署名とともに鉛筆で「S44.2.23 例会」とメモ書きがされている。古鳴子の風情を感じさせ、自分が今後鳴子系、ひいてはこけしに求めていくべきは、端正華麗なものではなくこのような枯れた情味、素朴にあるのではないかと思い至らせるきっかけとなった。

柴崎丑次郎1-2

次に入手したのは日本こけし館の中古こけしオークションで落札した7寸3分だった。保存状態はすこぶる良好。「鳴子 八十一才 柴崎丑次郎作」と署名されている胴底には前所蔵者「杢翁居」の印とともに赤いペンで「44.6.11 本人-◯◯ No.974」と記されている。一本目と同じく2輪の菊模様であるが、木地形態は胴がより細く直胴で、頭部は若干縦長気味になっている。眼点の入れられた一側目で視線は横に流れ、への字の口元と相まって少し退屈そうな表情であるが、そこが子供らしいといえば子供らしいように思う。

柴崎丑次郎1-3

三本目の4寸8分は楽語舎の即売会で入手した。署名は「鳴子 柴崎 八十二」とあるが、ペン書きで「S43」と記入されている。Kokeshi Wiki には同じく昭和43年12月の同手が掲載されており、それによると「この模様を牡丹と称していた」という。たどたどしく拙い描彩はもちろんのこと、首元には鉋跡が残っておりガタガタな仕上がりだが、なんとも抗し難い魅力がある。

柴崎丑次郎1-4

同じく牡丹模様の一側目7寸を入手したのも楽語舎だった。胴底には「鳴子 柴崎 八十二」という署名とともに梅花の印が押されている。米浪庄弐氏の旧蔵品ということであろうか。一本目と背丈はほぼ同じであるが、頭部の量感、一側目の面描等若干の違いがあり、こちらの方には品があるように思われる。ただし丑次郎の身上である素朴さでいえば一筆目であるが。

伸び伸びとした筆致と素朴さ、型にはまらない自由さは、全国こけし祭りの会場で展示される地元小学生のこけし絵付けをどこか連想させるものがある。人生の晩年にいた老工の筆が、童子のそれと通じるというのはなかなか意味深い。人は老いて童心に還るというのを地でいくこけしであるように思う。


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030: 桜井昭寛

古作の写しを嗜好するこけし愛好家にとって桜井昭寛という工人が現役で活躍されているということはどれだけ大きな意味を持ち、また心強いものであろうか。大沼岩蔵、庄司永吉、大沼甚四郎といった古鳴子の重要工人の写しを店頭に並べ、さらに近年では創成期の鳴子こけしの写しにも精力的に取り組まれている。古作の写しを依頼するのに甚だ難儀する昨今にあって、愛好家の欲しがる古型を作り続け、しかも古いこけしの情味を余すことなく再現できる工人は数少ない。それはもちろん桜井家が古鳴子の中でも人気の型を有しているということにも依るものかもしれないが、そうだとしても、その型を守り且つ絶え間なく研鑽を重ねてきたからこそ、現在の名声があるのだと思う。素晴らしい古型を継承するにも関わらずそれを活かし切れていない例は決して少なくない。だからこそ私は桜井昭寛工人に最大限の敬意を表したいのである。

私が鳴子こけしの面白さを知ったのは西田峯吉氏の名著『鳴子・こけし・工人』であった。口絵写真に掲載された古鳴子のこけしは現在よく見かける鳴子一般型とはまるで趣を異にする深い味わいに溢れているように思われた。若い愛好家から「鳴子系のこけしは全て同じように見える」という意見をよく耳にする。恥ずかしながらそれまでの私自身も同じように感じていたのであるが、それはいわゆる一般型と呼ばれる鳴子こけししか知らないためであると考えられる。『鳴子・こけし・工人』に収められたこけし達のなんと個性的なことか。口絵写真とともに西田氏の書く各系列の説明、工人達の物語を読むことで一気に古鳴子への興味が湧いた。同書の口絵の中でも特に心惹かれたのが、高野幸八、庄司永吉、大沼甚四郎、高野まつよ、遊佐雄四郎といった一筆目のこけし群で、この一筆で描かれる目こそが古鳴子の大きな特徴といえるのかもしれない。

2015年の鳴子全国こけし祭りに行くことが決まり色々と下準備をしてみると前述した工人のうち、庄司永吉型は桜井昭寛工人、大沼甚四郎型は佐藤実工人、遊佐雄四郎型は高橋正吾工人が手がけていることがわかった。当日、車でいらしていた知人のご好意により全ての工人の工房にお邪魔できたことは「013: 鳴子の旅」の項で既述した通りである。正吾工人、実工人と廻り最後に辿り着いたのが桜井こけし店であった。桜井こけし店はこけし通りの中程にある。BGM にモダンジャズが流れ、白と茶を基調とした店内の雰囲気は格調高く、温泉街の土産物店という感じはしない洗練がある。

桜井昭寛1-1

壁際の飾り棚に大沼岩蔵型、桜井万之丞型、桜井コウ型とともに庄司永吉型のこけしが並んでいた。一口に永吉型といっても、胴模様、フォルム、サイズにさまざまな変化があって大いに悩むところであった。こういった収集欲を刺激するバリエーション違いを揃える探究心が、昭寛工人の真骨頂であり人気の秘訣であるのかもしれない。悩みに悩んだ挙げ句に手にした永吉型は6寸2分の菊模様。胴模様の様式は深澤コレクション7寸1分あたりが近いような感じがするが確証はない。ふくよかな丸頭がなだらかで低めの肩をもつ直胴に乗る。濃厚な緑による写実的な葉が茂る中、燃えさかる炎のような菊花咲き誇りなんとも生命力に溢れた胴模様ではないだろうか。

桜井昭寛1-2

同店でもうひとつ入手したいと思っていたのがこの創成期の鳴子こけし。これは高橋五郎氏が『こけし手帖 618号』で発表した創成期のものと推定される3本の古こけしのうちの一本を写したものである。これは前年の第60回全国こけし祭りにおいて各工人に現物を見せ、そこから想像を膨らませてこけしを作ってもらおうという特別企画に端を発する。詳しくはKokeshi Wiki の記事(「創成期鳴子こけし」)を参照のこと。事前に調査した結果、昭寛工人の写しが最もその「原」のもつ古風な味わい、神秘性、そして得体の知れない凄みを再現しているように見えた。永吉型、岩蔵型という鳴子古型を手掛けてきた昭寛工人とは特に相性が良いように思われた。店頭の棚に唯一残っていたのが7寸2分のこけし。古鳴子らしい一筆目に、長い垂れ鼻、鬢は太い筆致で大きく描かれる。末広がりの胴の上下には鉋溝が刻まれ、特に最上部の深い溝はこのこけしの大きな特徴となっている。

桜井昭寛1-3

最近入手したこちらの6寸8分は創成期の3本と同じ出自の岩蔵こけしの写しで、前述『こけし手帖 618号』に現物の写真が掲載されている。昭和13年の復活以前のこけしと目され、創成期岩蔵型と名付けられている。蕪型の頭部が乗っかる細身の胴は裾にかけて更に細くなる。胴模様は4つの菊花を中心としたもので、配置と様式に細かい差異があるものの前述した永吉型と同傾向にあり、古い岩太郎系列の在りし姿を想像させる。現在手掛けている型に留まらず常に新しいものへ挑戦し続ける昭寛工人の底なしの情熱をこの創成期岩蔵型からも垣間みる思いがする。昭寛工人がかく活躍し多くの古型を作り続けてくれる現代は非常に恵まれている状況であることは間違いない。

桜井昭寛1-4
菊花咲き乱れる。左より、創成期鳴子こけし7寸2分、創成期岩蔵型6寸8分、永吉型6寸2分


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