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043: 高橋金三①

 南部系中の大名物であるにも関わらず昨今のブームではほとんど見向きもされていないのが藤井梅吉のこけしではないでしょうか。現役でこの型を手掛ける工人がなく『伝統こけしのデザイン』でも取り上げられていないこともひとつの要因となっているように思われます。

 私が梅吉型を知ったのはヤフオクの出品の中に「南部系 金三」と書かれたタイトルを見つけた時だったと思います。当時既に『こけし 美と系譜』を読み耽っていたと記憶していますが、同書掲載の藤井梅吉には気付きもしていなかったことを思うとどうもヤフオクでその存在を知ったとしか考えられないのです。あれも欲しいこれも欲しいという収集初期における衝動の為せる業だったと言えます。

『伝統こけしガイド』で高橋金三の項を調べてみると、大正12年(1923年)8月10日に木地業・高橋悟郎の長男として生まれ「木地は父悟郎より習得。昭和27年頃から悟郎木地のものに描彩(新型)。昭和33年、佐藤誠が花巻に来てから誠のすすめで旧型を練習し、昭和47年2月から、藤井梅吉型を本格的に作りはじめた。」とあります。それではと『こけし辞典』で父・悟郎の項をひくと「<ガイド>改定版で古くからこけしを作っているように紹介しているが、実際は戦後の輸出用こけしが最初で、作品の様式などから見ても、伝統こけし工人とは認めがたい」と記されており、金三の代になって伝統型に取り組みはじめたことが伺えます。『こけし辞典』における金三の記述に至ってはわずか5行にとどまり、昭和46年の初版発行時点では伝統こけし工人とは認識されていなかったようです。

 昭和47年1月25日発行の『こけし手帖』131号に「こけし界ニュース」として金三の梅吉型継承の経緯が報告されています。

★鉛こけし藤井梅吉型の後継者決る。故佐藤誠が生前中梅吉の遺族の許しを得て梅吉型を作っていたが、誠さんの死亡後岩手県内の新型こけしブローカーが、いち早くこれに目をつけ、版権獲得の暗躍をしたが、岩手県南部系(花巻系)の工人たちから猛反対を受け失敗した事実がある。
 今回花巻市の老工人高橋吾郎氏の長男金三さんが、梅吉さんの遺族から正式の許しを得て、梅吉型こけしを作ることになった。
 なお、この件に関し花巻こけし界の長老煤孫実太郎を始め先輩が指導後援する由。


 今日、金三のこけしの評価が低いのはどうも第2次こけしブームの最中に伝統型に取り組みはじめた新参者であったことに起因しているように思えます。しかしながら、金三の取り組んだ梅吉型は先に述べた通り南部系こけしの中でも外すことのできない重要なこけしであり、金三による継承は伝統的観点からすると非常に意義のあるものであったことは間違いないように思います。

 といいつつ、2014年の6月に初めて入手した金三の梅吉型はもう手元に残っていません。手絡模様の頭部とロクロ線のない重菊模様の8寸のこけしで、面描からしておそらく昭和60年代の作と推測されるものでした。当時撮影した写真を改めて見返してみてもやはり木地のバランスも表情も今ひとつ物足りないものに感じられ手放した理由もさもありなん。それでもその後も梅吉型に見切りを付けずに常に注目してきたことを考えると、自分にとってはやはり気になる存在であり続けてきたことは確かなようです。

『こけし千夜一夜物語』第902903話で金三の梅吉型が取り上げられています。それによると本家・藤井梅吉の頭部の描彩様式は4種類程に分けられるとされ、金三の梅吉型への取り組みは以下の順でなされたと解説されています。

①蛇の目に前髪と手絡
②蛇の目のみ
③蛇の目に手絡
④手絡のみ

 昭和47年の梅吉型作り始めにあたり金三はまず「蛇の目に前髪と手絡」から取りかかったとあります。『千夜一夜』に写真掲載されている初作近辺作を見る限り、表情は佐藤誠の影響化にあるように見受けられます。その後2~3年をかけて表情が遠刈田風のものに変化すると同時にその作風も安定していく様子が見て取れます。

高橋金三 1
左よりキナキナ5寸8分、梅吉型8寸、6寸。集まる時は一気に集まる不思議。

 2016年2月、金三こけしが3本集まりました。キナキナ5寸8分、そして「蛇の目に前髪と手絡」の梅吉型8寸と同6寸です。キナキナは今は店舗なき西荻窪のベビヰドヲルの棚の中から持ち帰ったもので、胴にボリューム感があり曲線の美しさを感じています。ヤフオクより入手した8寸は最下部の四つ花のない「蒐楽会頒布品」と同手のもので『千夜一夜』では「一皮むけたような秀作」と評価されているこけしです。友の会の中古品の6寸はやや頭でっかちで目の湾曲著しいためか表情がキツくグロテスクですらあります。個人的にはどちらの梅吉型もフォルムが鈍重で野暮ったく感じるのですが梅吉型収集の仕切り直しとして手元に置いています。

 本当の意味で金三の作る梅吉型に魅了されたのは楽語舎で入手した6寸からです。(続く)


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034: 常川新太郎

常川新太郎のこけしを知ったのはInstagram でフォローしている方の投稿からだったと思う。くびれた胴体に四角く大きな頭部。赤と緑だけのロクロ模様は極めて簡素なものであるが、ぽかんとした口で空を見上げているような表情はなかなか見所があるように思えた。それからほどなくして、こけしを求め辿り着いた2014年の東京蚤の市の会場で新太郎の実物を見つけたことでこのこけしに対する認識が確かなものになった。その時のこけしは状態が良くなく結局入手に至らなかったが、「東京蚤の市の一角で初めて常川新太郎のキナキナの実物と出会った時の心のざわめき様。なんたる愛くるしさか。連れて帰らなかったことをここまで後悔したこけしは他にありません」と当時の心境を記しているあたり、なかなかのインパクトがあったように思われる。

常川新太郎 1-1

後日、ヤフオクにおいて即決価格で出品されていたところを首尾よく落札することができた。入手したこの8寸は、最初にInstagram で見た投稿写真の掲載品に似て大きめの四角い頭で、頭部と胴のはめ込みはかなりゆるく状態によっては首を傾げたようにもなる。鼻より下の高さの両頬に丸い頬紅が入れられ、さらさらとした筆致でぼんやりと考え事をしているような表情が描かれている。小さな時分は誰しもがこのようなあどけない面持ちで流れる雲を眺めていたのではないか。と、見るものを童心に帰らせる力が秘められているように思う。幼児だけの特権というべき愛らしさ、無垢さを余すところなく体現したこけしではないだろうか。

常川新太郎 1-2

それからさらに数日後、別の出品者から同じく新太郎のこけしが出された。こけしの出品は不思議とそういうところがあるように思われるが、余勢を駆る格好で落手したのがこちらの8寸。一本目と比べると頭部小振りで相対的にスレンダーな木地形態となっている。こちらには頬紅入れられず面描もはっきりとした筆致によるものになっている。稚気溢れる一本目と比べると成人の女性っぽさを漂わしているようにも思える。胴のロクロ線はその色合いからしてどうもポスターカラーのような印象を受けるが、定かではない。

常川新太郎は明治40年4月29日に盛岡市の雑貨商正雄・タミの長男として生まれた。仙台工芸指導所で木地技術を習得後、しばらく鈴木清の元で職人を務めていたが、昭和11年8月に遠野町長・菊地明八氏に招かれて移住。木地指導を行いその後同地で開業した。こけしの作りはじめは昭和12年。菊地町長が見本として提示した藤原政五郎のこけしを参考にして製作を開始した。戦後はしばらく休業していたが、昭和30年頃から再びこけしを作り始めたという。『こけし辞典』から引用すると「常川一家のこけしはすべて新太郎名義で出ているが、木地は新太郎、潤次郎、雄三郎、秀雄、左吉雄のものがあり描彩はもっぱら雄三郎である。木地の鑑別は不可能。(中略)潤次郎・秀雄は戦死しており、戦後の木地は新太郎・雄三郎が多い。左吉雄はほとんど挽かない。」とのことで、手持ちの2本の木地形態・面描の違いはそのような事情に起因しているのかもしれない。しかしいずれにしても、心安らぐ佇まいのこけしであると思う。

蔵王こけし館蔵 常川正義
常川正義工人のこけし(蔵王こけし館蔵)

なお、その年の秋に訪れた蔵王こけし館には常川正義名義のこけしが展示されていた。『伝統こけし最新工人録』によると昭和22年(1947年)9月12日生まれで2016年5月現在68歳。「作品未掲載の工人リスト」に載っている。

参考リンク
kokeshi wiki「常川新太郎」
こけし千夜一夜物語「第545夜:底書きの信憑性(常川新太郎)」


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