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003: 我妻信雄 ①

当こけしブログでは当初、筆者が入手したこけしの順を追って記事を書いていこうと計画していたが早くも頓挫。以後は備忘録のつもりで自分の気になったこけしについて気ままに書いていこうと思う。

ネットオークションで注目中の大沼昇治のこけしがまとめて出品されていた中に我妻信雄のこけしも少なからず含まれていた。前所有者の方がマメな性分だったらしく胴底に入手した年と月を記入されていて資料としてとても助かる。第2次こけしブーム最中の昭和49年(1974年)から昭和51年(1976年)頃に作られたこけし群である。

我妻信雄1

(左より)
・旭菊3寸5分 S50.11
・重ね菊3寸5分 S49.9
・こげす重ね菊?5寸5分 S49.3
・桜崩し8寸 S51.6
・ぼた菊5寸9分 S49.1
・桜崩し3寸5分 S50.5

それまでまったく気に留めていなかった工人さんであったが、調べてみる良い機会となったのでその結果を記録しておく。

我妻信雄(あがつまのぶお)は昭和7年(1932年)8月18日、木地業庄三郎の三男として遠刈田に生まれた。『伝統こけしガイド』(昭和48年 P.120)には、

昭和25年(1950年)、18歳で佐藤守正の弟子となり木地挽きを修行。昭和29年(1954年)年季明けし、昭和31年(1956年)より北岡工場で職人をした。昭和43年(1968年)より自宅で独立、現在こけしの店も経営している。作品は師匠の守正とは異なった自分の型を作っており、最近小原直治なども研究して改良を加えている。

とある。カッコ内の西暦は筆者注によるもので、以下同様。同じ昭和7年生まれの遠刈田系工人は他に、大沼昇治、佐藤哲郎がおり、当時は若手工人として期待されていたようである。

『こけし辞典』(昭和46年初版 P.11)の記述

本格的に伝統こけしに取り組んだのは、昭和32年(1957年)ごろからである。初期の作は特色のない線の弱いものであったが、漸次甘美派への傾向を示すようになった。昭和40年(1965年)ごろより筆力伸び、甘美な中にも、力強さのあるこけしを作るようになった。近年円熟の度を加え、完成度の高いこけしを作っている。本格派若手工人として将来を期待される。

拙コレクションの所有となった8寸は胴底の書き込みから昭和51年(1976年)6月入手と推測される。工人43歳の作だろうか。時期的には前述『伝統こけしガイド』の頃に近く、胴模様は掲載のものと同じであり同書に書いている小原直治を改良した本人型といえるかもしれない。

師匠の佐藤守正(1926-)は静助型の一筆目こけしの工人としての印象が強いがkokeshi wiki によると昭和43年(1968年)に「曾祖父 周治郎の弟である小原直治のこけしを復元した」とのことである。守正の弟子である我妻信雄が小原直治を研究するに至ったのはこの流れからだと思われる。

所有のこげすは一筆目で、雰囲気は守正が北岡工場時代に量産したものに通じる。胴はやや短く太いが、らっきょう型の頭部、型のこけたフォルムをみるとその影響がみとめられるように思う。

小原直治(1869-1922)に関しては『木の花』24号P.24 に簡潔な概要が記されている。

佐藤周右衛門の五人の息子、周治郎・寅治・直治・直助・直蔵は皆木地を挽きこけしを作った。兄弟真中の直治だけは木地挽の新天地青根で木地業に従事、同地木地所主小原仁平の養子となり、青根木地業の中心人物として活躍した。

つまり、遠刈田系の甘美派の代表格、佐藤直助のひとつ上の実兄にあたるわけである。以下、『こけし辞典』の鹿間時夫氏による小原直治評を抜粋(PP.126-127)

顔角張り手絡比較的簡単、タッチ鋭く細長い三日月目に割れ鼻で、表情すこぶるはりがあり甘美で格調が高い。この格調とはりはむしろ直助よりも上である。形態は直助に比べると比較的短くやや角張る。

我妻信雄2

この記述は小原直治を研究した我妻信雄にも(当てはまるとまでは言わないが)通じるところの多いこけしの見方となるだろう。前述『木の花』の記事は昭和55年(1980年)1月に開催された「こけし古作と写し展」の図説で、この展示で我妻信雄は小原直治の6寸8分を写しており、

信雄の写しは「青根様式」をやや未消化なところもあるが、筆力抜群で、現代の写しにふさわしい切れ味がある。

との評価を受けている。

あらためて所有のこけし群をみてみる。線のメリハリ、細い三日月目による凝視する眼差しは極めて鋭角的。しかし全体的な佇まいは柔らかさと甘さが漂っていて、甘美と鋭さが同居した見所の多いこけしではないか。

このようにして手にしたこけしをもとに師匠、そのまた師匠とルーツを辿っていくと、そのこけしの型に対する知識が深まると同時にそれまでまったく見向きもしなかったこけしが切実な美しさをもって迫ってくるように感じる。しかしまったく思いがけず、良い拾い物をしたものであるとひとりほくそ笑む次第である。

なお、我妻信雄工人は2013年6月9日に82歳で亡くなっている。

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