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006: 本間義勝 ①

自分と同じ苗字のこけし工人に注目している。その中に山形県酒田市で活躍した柏倉勝郎の型を継承した本間久雄、本間義勝という工人さんがおり、両工人の作る酒田こけしはおぼちゃ園における蒐集の柱となりつつある。今回はその本間義勝工人について。

1. 歩み

本間義勝は昭和24年(1949年)5月18日、山形県酒田市上内匠町の木地業・本間久雄の長男として生まれた。父に師事し久雄の経営する木工所で木地を挽いていたが、昭和51年(1976年)10月29日の酒田大火で自宅及び作業場を焼失した。工人27歳の時である。以後は市内若浜町へ転居し転業、昭和50年代中頃からこけし作りは途絶えてしまった。その後、平成10年(1998年)48歳の時、久雄が継承していた柏倉勝郎型の廃絶を惜しんだ酒田市本町の旅館主矢野正男氏らの説得に応える形でこけし作りを再開することとなった。

平成10年(1998年)1月21日付けの山形新聞に「酒田こけし 復活 20年ぶり」として当時の経緯が記事となっている。

こうした中、こけし収集家でもある若葉旅館の矢野さん、伝統こけし愛好家池崎哲也さんらが「伝統的な民芸品を守り、育てたい」として義勝さんを説得。去年秋から高さ十八センチの酒田こけしを作ってもらえるようになった。この新作品は若葉旅館で扱い、酒田こけし復活を記念して製作した絵はがきと一緒に、愛好者らに販売している。
「酒田こけしは伝統に培われた貴重な民芸品であり、酒田獅子頭とともに、昔から酒田の代表的な土産品。この度、二十年ぶりに幻の酒田こけしが再来した」と池崎さんは喜ぶ。
「本間義勝さんがこけしを作っていける環境を整えるため、バックアップしていきたい。量産はできないが、オリジナルな特産品、土産品として育てたい」と矢野さんは語る。


上記、池崎哲也氏は昭和48年(1973年)に本間久雄へ柏倉勝郎型の復元を働きかけた人物であることは本間久雄の回で触れた。途絶えていた型を親子2代にわたって働きかけ復活させた酒田こけしのキーマンである。もし仮に池崎氏、矢野氏らの働きかけがなければ柏倉勝郎型自体が忘れられた過去のものになっていた、或いは今よりもずっと認知度の低いものとなっていた可能性も否定はできない。そう考えると酒田こけしに関するこの顛末は、こけしというものがただ工人のみによって作られるものではなく愛好家からの影響も決して少なくはないということを示す好事例といえるかもしれない。

とはいっても、本間義勝はこけし作り再開以降も本格的な就業にまでは至っておらず、鳴子系工人の挽いた木地に描彩だけをしているに留まっている。酒田こけしは現在でも若葉旅館(http://wakabaryokan.jp/)で入手することができる。

2. 酒田こけし紀行

山居倉庫と本間久雄

作品は矢野氏の経営する若葉旅館で販売されている」というKokeshi Wiki の記事に触発されて2015年6月13日、酒田まで足を伸ばした。旅館への事前の問い合わせにより酒田こけしが今も継続して販売されていることを確認していたが、実際にどのようなこけしがどういう状態で販売されているかは現地に行ってみなければ分からなかった。

深夜高速バスで池袋から約8時間。23時過ぎに出発し目的地に着いたのは朝7時だった。海鮮市場の2階にある食堂で朝食を済まし、チェックインまでに山居倉庫(さんきょそうこ)、土門拳記念館を回る。酒田は藩政時代から商人の町として栄えてきた港町であり、町を実際に歩いてみると温泉地を主とする他のこけし主要産地とは雰囲気を異にする印象を受けた。この町の中で柏倉勝郎をはじめとする工人たちが木地を挽き、酒田こけしが育まれてきたのかと思い巡らすと、なんでもない町並みですら注目すべき対象としてみえてくる。酒田こけしは伝統こけしの中でも珍しい港町の娘なのである。

若葉旅館は酒田市本町2-3-9、新井田川を隔てた山居倉庫との対岸に位置する。

若葉旅館の外観

受付の奥にあるロビーには先代(おそらく矢野正男氏)が蒐集してきた約700本のこけしが陳列されている。

若葉旅館のこけし展示

ご当地だけあって酒田こけしも数多く見受けられた。蛍光灯による照明に長年晒されてきたためか残念ながら退色が進んだ状態ではあるが、表情はどれも素晴らしかった。

酒田こけし群像

荷物を置いてひと休みした後、フロントの方にお願いして酒田こけしの実物を拝見させていただく。現在、若葉旅館で取り扱っているこけしは、

・大(1尺)5,400円
・中(8寸)4,320円
・小(6寸)3,240円

の3種類。尋ねてみると奥にまだ在庫があるとのことで、何本か見比べた後に購入したい旨を伝えると嫌な顔ひとつせずに持ってきてくれた。今回じっくりと時間をかけてこけしを選ぶことができたのはひとえにフロントの方の親切によるところが大きい。さて、肝心のこけしはというと、表情、木地形態ともに思いのほか変化が大きいように感じた。従ってこれという一本に絞るのはなかなか難儀であったが、フロントの方と雑談をしながらこけしを選ぶのは楽しいひと時でもあった。結局、大中を1本ずつと小を2本購入し、今回の旅の第一目的を達成することができた次第である。

本間家旧本邸

翌日、酒田では本間家旧本邸を観光した。山形県の本間家というと中学校の地理の授業でも習った記憶があるほど有名な大地主であるが、中学生当時はまさか自分がそのお膝元を旅することなど夢にも思っていなかった。こけしが取り持つひとつの縁である。土堀、蔵、樹木で囲まれた本間家旧本邸は例の酒田大火でも延焼を免れた。一方、本間久雄、義勝の木工所は被災してしまった、というのは再三述べてきた通りである。学校の授業で得た知識でしかなかったものが現実に起こり被害をもたらした出来事として意味を持ったような気がする。

もし、酒田の大火が起こらなければ、久雄、義勝は木地業を続けていたのだろうか。それはわからない。両工人のこけし作りが途絶えてしまったという昭和50年代中頃は第2次こけしブームが下火になりつつあった時期であることも考慮しなくてはならないだろう。生身の人間が作る以上、こけしも世の中の趨勢と無縁ではいられない。不況や社会的な動乱のあおりを受ければ簡単に倒れてしまうようなか弱い木人形である。しかしそのような状況に置かれていたとしても、今なおこうして新作のこけしが手に入るのであれば、酒田こけしは善戦しているといってもいいかもしれない。それはひとえにこのこけしを愛する人たちの尽力によるものであり、そういう人たちがいる限り酒田こけしの未来はまだまだ希望もあるように思えるのである。

なお、今回の酒田訪問に合わせて鶴岡の五十嵐嘉行工人の工房を訪問したが、それはまた別の機会に報告できればと思う。

3. こけし鑑賞

本間義勝

(左より)
・髷付き2寸9分
・5寸9分
・9分7分
・7寸7分
・5寸9分
・3寸

初めて手にした本間義勝作のこけしは高幡不動たんたんで購入した右端の3寸であった。面描、肩の曲線、重ね菊を三つ描いた胴模様など小さいながらも酒田こけしの様式がきちんと再現されており、温和な表情も気楽に見ていられる。

2本目に入手したのが左端の髷付き2寸9分。本間久雄の回で取り上げた髷付き1尺と同じ意匠の本間久雄型である。こちらはフォルムが大きくデフォルメされており、頭でっかちな木地形態などはいかにも小寸のこけしといった可愛らしさがある。表情はやや硬い。

酒田を訪れる前に入手したこけしが共に3寸大のものであったのは偶然であるが、現在若葉旅館で入手できるこけしが6寸からであることを考えると結果的に本間義勝コレクションの幅が広がったのは喜ばしいことである。この大きさのこけしがいつ頃作られていたのかについては不明である。

真ん中の4本が今回の訪問で入手したこけしになる。

この新作でまず目を惹くのは胴の鮮やかな黄色だろう。紙に包んだ上で箱に収められているのでとても良好な保存状態であるのが嬉しい。その黄胴の上に描かれる重ね菊の書式はこけしの大きさに関わらずほぼ一定で変化は見受けられない。但し1尺のこけしでは花の数がひとつ増える。

次に面描。選んでいた時の全体的な印象は、1尺の筆は細く繊細、8寸は逆に骨太、6寸は表情の幅が大きく個性派揃い、というものだった。特に8寸に良い表情が多かったように感じる。胴模様はほとんど差異が見受けられないようだったので表情に注目して選んだ。1尺の視線は向って右上に流れ思案に暮れているように見受けられる。8寸は真っ直ぐにこちらを見据えながら穏やかに微笑む。左から2本目の6寸は遠くを見る目で表情もどこかアンニュイ。右から2本目は何か達観した雰囲気を醸し出している。

6寸の2本を見比べてみれば分かる通り、木地形態にも変化がみられる。左から2本目は肩が低く肩の終わりから黄胴にかけてのすぼみが大きいのに対し、右から2本目の肩は高くすぼみもゆるやかである。こうした木地形態の違いが面描の幅と相まって豊かな変化を生み出しているように思われる。

胴底には「酒田 本間義勝」の署名とともに、円状の爪跡が残っているが、これは前述した3寸大の2本にも共通する。一方、手元にある父・本間久雄のこけしの胴底はすべて中心に穴があけられている。本間久雄が師事した本間儀三郎の挽いたこけしの木地は「底の中心に錐で穴をあけてある」(こけし辞典)とされているので、この挽き方は儀三郎からの伝承の可能性がある。この胴底の形状の違いによって本間工人による木地か鳴子系工人によるものかの判別が可能であると思われる。また、鳴子工人による木地は頭部が蕪型であり、あたかも首もとがあるように見える。この点も判断材料として挙げられるだろう。

時に途絶えながらも、多くの愛好家に支えられ大切に育まれてきた酒田こけし。その酒田こけしが今なお手に入れることができることに感謝するとともに、今後いつまでも作られ続け、見るものを癒してくれることを願ってやまない。
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005: 本間久雄 ①

自分と同じ苗字のこけし工人さんに注目している。今回は柏倉勝郎型を継承した山形県酒田市の本間久雄工人について調べてみようと思う。

1. 文献

・こけし辞典 柏倉勝郎・酒田・本間儀三郎・本間久雄の項(昭和46年初版)
・こけし手帖 155号 西田峯吉「酒田の本間久雄」(昭和49年)
・山形のこけし (昭和56年)
本間久雄 | Kokeshi Wiki

2. 歩み

本間久雄は明治43年(1910年)4月14日、山形県飽海郡八幡町青沢で生まれた。『こけし辞典』(昭和46年初版 P.498)では「本間儀三郎の長男として酒田市上内匠町に生まれる」とあるが実際は血縁関係はなく、昭和2年(1927年)17歳の時に酒田で木地業を営んでいた本間儀三郎に弟子入りし木地挽きを修業、昭和15年(1940年)30歳の時に儀三郎の養子となり本間姓になったというのが真相のようだ。養子になる前の苗字は不明。師匠であり養父でもある本間儀三郎は昭和23年(1948年)2月29日に64歳で亡くなったが久雄はその跡を継いで木地業を営んだ。

当時、久雄が作った木地製品は家具や茶びつが主であったが、『こけし辞典』では「昭和の初めころ、柏倉勝郎のこけしの木地を挽いた」ことがあるという。『山形のこけし』(昭和56年)でも「久雄の修業時代、儀三郎方に出入りしていた柏倉勝郎が儀三郎の木地にこけしの描彩をしており、久雄もこの時期にこけしを少数作った」と記述されている。一方、『こけし手帖155号』(昭和49年)西田峯吉氏の記事によれば「柏倉勝郎は昭和十六年から二十一年までの五年間(※おそらく昭和19年から21年までの2年間の間違い。昭和17年夏は佐藤文六のところで働いている。)本間工場の職人であったが、その間に賃描きしたこけしの木地はすべて本間久雄が挽いたものであって、当時の酒田こけしは柏倉勝郎と本間久雄との合作であった」とある。西田氏のこの記事は信憑性に若干疑問が残るが(ご自身も「柏倉勝郎という工人の正確な木地経歴を私は知らないが」と前置きしている)、いずれにしても本間久雄と柏倉勝郎とはこけしの木地を通じて接点があったのは確かなようである。

昭和39年(1964年)8月、『山形のこけし』によると柏倉勝郎のこけしを思い出して約30本のこけしを試作したという。『こけし辞典』では「ブラジルへ行く知人のみやげとして勝郎のこけしを模したものを約三〇本作った。このうち七本ほどが、収集家の手に渡っている。」とあり、その昭和39年8月の初作といえるこけしの写真が掲載されている。なお、この年の12月2日、柏倉勝郎は亡くなっている。

その後、Kokeshi Wiki によれば、昭和43年(1968年)に蒐集家宮田昭男氏の依頼で数十本こけしを製作したという。その後の柏倉勝郎型の復元に至る顛末は前掲『こけし手帖155号』(昭和49年)に詳しい。

本間久雄に酒田こけしを復活させた陰の人は酒田在住のこけし愛好家の池崎哲也氏である。同氏によると「昭和四十三年ごろ名古屋の宮田某氏(※宮田昭男氏)のため数十本製作したことがあり、四十六年六月には池崎氏と山岸竜太郎氏とが訪問して復活を勧奨し、爾来、それを続けてきたが、久雄自身も全国的に波及している民芸品ブームに刺激されたようだ」という。また「復活第一作は、全体的にちまちまとしていたが、製作のたびに筆は上向きになっており、収集家からの受注に対処できる大勢になった」とのことである。(『こけし手帖155号』昭和49年 P.6)

昭和48年(1973年)、工人63歳の時に柏倉勝郎型の復元に至り、以後少数ながらこけしの製作を続けた。『山形のこけし』にはその当時のこけし(昭和48年作7寸と昭和49年作)が掲載されている。

昭和51年(1976年)10月29日の酒田大火で自宅及び作業場を焼失。以後のこけし製作状況は定かではないが、久雄作こけしの胴底に昭和56年とメモ書きされいるこけしも(ヤフオクで)見かけるので、この大火で木地業自体を廃業に追い込まれたのかどうかは今のところ分からない。ただし息子の義勝はこの大火を契機に転業してしまったといわれている。この酒田大火後の復興祭で酒田市のシンボルとして選定されたのが酒田獅子頭であるが、久雄はこけし工人であると同時にこの酒田獅子頭の作者でもあったといわれている。本間久雄は昭和59年(1984年)9月5日に75歳で亡くなった。

3. こけし

前項の歩みを見て分かる通り、本間久雄のこけし工人としての活動期間は比較的短い。昭和39年8月の30本、昭和43年の数十本という初作群を除けば、昭和48年〜昭和50年代初期の期間、或いは上記56年頃まで製作を続けていたとしても10年に満たない期間であった。

前述した通り、昭和39年8月の初作は『こけし辞典』に掲載されていて、同書では「稚拙な面白みはあるが、資料の域を出ない」と喝破されているとおり、筆跡は探り探りといった感じで心もとない。

『山形のこけし』掲載の復元初期(昭和48年作)7寸はなかなか特徴的なこけしで、①前髪とくっついている長い横びん、②2本引かれた肩・胴裾と黄色の間のロクロ線、③柏倉勝郎晩年作に通じる輪郭に近い葉模様、④菊の上下点を結ぶ線が省略されている点、など他に類を見ないこけしのように思われる。面描の筆は太い。もう一本の掲載品、髷付きおかっぱ頭の8寸になると作風は一応の安定をみる。葉は4筆、各重ね菊の下部に小さな赤点が二つ入れられる画法は以降の基本となるようである。面描の筆は細く鋭くなる。なお、このような髷のあるこけしは柏倉勝郎の作例に見たことがないことから、本間久雄の創作による本人型ではないかと推測している。

『こけし手帖155号』掲載の6寸は初作とされているものの実際はどの時期にあたるのかは定かではないが、横びんの位置、2本のロクロ線、葉の形状等の特徴的に判断すると『山形のこけし』掲載の2本の間を埋める時期のものではないかとも考えられる。

以上が文献に見られる本間久雄のこけしであり、これを踏まえて手持ちの久雄作を見て見ようと思う。

本間久雄

(左より)
・髷付き5寸8分
・7寸7分
・髷付き1尺
・7寸8分
・5寸9分

最初に入手した本間久雄作が右から2番目の7寸8分だった。胴底に「S49」との鉛筆書きがあり、胴の裏側に「酒田 柏倉勝郎型 本間久雄」と署名がされている。寝ぼけ眼か、あるいは少しムスッとしたような不機嫌顔で思春期の娘を思わせる表情である。筆は太く、『山形のこけし』昭和48年作に通じるように感じる。重ね菊の下部に小さな赤点はなく、花弁も葉も丸みを帯びていてぼってりとしている。肩はゆるやかな曲線で勝郎型の絶妙な曲線はみられない。肩・胴裾と黄色の間のロクロ線は細く、黄胴自体も他のこけしと比べると消え入りそうな薄さである。『山形のこけし』昭和48年作と同様、作風が安定しない時期の復元初期作であると思われるが、何故か惹かれる表情ではある。おおむね昭和48年から49年にかけてはこのような作風であったのではないかと考えられる。

左から2本は同じオークション出品者から落札したもので、大きさこそ違うが『山形のこけし』昭和49年作と同時期のものとみて間違いないだろう。面描の線が細く頭部の形態が心持ち縦長になっているのがこの時期の特徴であると思われる。また、肩・胴裾と黄色の間の赤いロクロ線が太くなり、胴裏に書かれていた署名も胴底に「酒田 本間久雄」と書かれるようになるが、この傾向はこの後も継続する。

真ん中の髷1尺と右端5寸9分は同時期のこけしではないかと推測している。面描の線に勢いがつき表情にハリが出ているように感じる。間延びしていた頭部は均整の取れたフォルムに変化する。また、祖形である柏倉勝郎のものと比較すると随分と太くなったように感じるが、胴の木地形態のバランスもとても良いと思う。これと同様の作風のこけしで胴底に昭和56年4月ないし5月とメモ書きされているのを何回かみたことがあるが、この2本も同時期のものなのであろうか。今のところそれを確かめる手立てはないが、良いこけしであると思う。

以上みてきたように、その短い製作期間の中での作風の変化は大きい。そのこけしの変化を追うことは、柏倉勝郎の創作した型を継承していく上で本間久雄なりにそれを消化し自分のものとしていった過程を辿ることを意味し、興味深くもあるしその努力を思うと感動すら覚える。本間久雄が確立した画法は息子本間義勝によってかなり忠実に引き継がれている。本間久雄の格闘と創意工夫がなければ現在の酒田こけしは柏倉勝郎一代限りのもので終わっていた可能性が高く、それを思えば柏倉勝郎に端を発する酒田こけしにとって本間久雄というこけし工人が残した功績は看過できないどころか非常に大きいだろう。

004: 柏倉勝郎 ①

※以下は書きかけの記事です。

自分と同じ苗字の工人さんのこけしを集めている。山形県酒田市の本間久雄、本間義勝という工人さんが柏倉勝郎型を継承していたことによって、私のこけしの蒐集はずっと面白いものになったように思う。今回はそのルーツたる柏倉勝郎の話題。

1. 文献

まず手元にある柏倉勝郎に関する文献を確認してみる。

・こけしの微笑 深沢要 口絵(昭和13年 ※『羨こけし』に収録されているもの)
・こけし手帖 27号 大浦泰英「五十川に柏倉勝郎を訪ねる」(昭和34年)
・こけし手帖 46号 白鳥正明「柏倉勝郎とその周辺」(昭和37年)
・こけし辞典 柏倉勝郎・酒田・本間儀三郎・本間久雄の項(昭和46年初版)
・こけし手帖 155号 西田峯吉「酒田の本間久雄」(昭和49年)
・木の花 第22号 宮藤就二「雑系こけしの魅力(2)柏倉勝郎」(昭和54年)
・山形のこけし (昭和56年)
・こけし手帖 339号 川上克剛「異才・柏倉勝郎こけしの魅力」(平成元年)
・こけし手帖 435号 阿部弘一「私の柏倉勝郎こけし」(平成9年)

2. 歩み

詳しい生い立ちはこけし手帖46年に詳しいので概略だけ記するとして、柏倉勝郎(かしわくら かつろう)は明治28年(1895年)2月12日、教員 慶重の長男として生まれた。明治41年(1908年)、14歳の時に父を亡くし、翌年継母の実家である鶴岡の木地業・鈴木末吉方へ転居、弟子入りし木地を修行する。

大正2年(1913年)19歳で本庄・河村辰治のところへ身を寄せるも、一週間で飛び出し湯沢・曲木木工所へ。大正5年(1916年)22歳でよしのと結婚、及位(のぞき)・佐藤文六のもとで佐藤三治、佐藤誠治、鈴木国蔵、門蔵らと働く。当時佐藤文六のもとには佐藤丑蔵も出入りしていたとのことである。大正7年(1918年)24歳の頃、及位村落合滝に木工所ができ、深瀬国男、神尾長八、武田弘、大宮安次郎、渡辺幸九郎らと織物に使う木管の製造に従事した。大正10年(1921年)27歳には金山町の柿崎木工所に移り、その後大正15年(1926年)32歳の時、柿崎木工所閉鎖にともない酒田の片町で開業した。(※白鳥正明氏説。川上克剛氏の記述では大正13年には開業したとしている。)

こけしを作り始めたのは酒田で開業してからで、同地で木地工場を経営していた本間儀三郎の木地に頼まれて賃描きしたのがきっかけであるという。柏倉勝郎のこけしが文献に登場するのは昭和5年(1930年)刊行の『日本郷土玩具・東の部』。白畑重治名義であるが「ビリから一等という落第生」と酷評されている。西田峯吉氏の言葉(こけし手帖155号)を借りれば「昭和五年出版の『日本郷土玩具』で酷評された彼のこけしは、おそらく、見取学問で作った初期のこけしだろうと、私は想像する。

頼まれてこけしを賃描きし始めてからわずか4〜5年の作が写真紹介とともに酷評されるというのはなんとも不運な出だしではあるが、昭和10年(1935年)頃、深沢要氏の来訪があり、『こけしの微笑』の口絵に有名な紹介文とともに掲載される。

もう四年になる。酒田の旅舎で、柏倉勝郎のこけしをはじめて手にした時のよろこびを私は忘れない。その後、会う人毎にこのこけしの事を報告して来たのであるが、今では酒田市の物産陳列館にもなくてはならないお土産物の一つとなっていると聞く。その愛らしい丸顔、首から肩へかけてのなだらかな線、質朴な菊模様は、全体の形態との調和もとれていて心憎いほどのおぼこ振りである。勝郎は「酒田に住んで十四年になりますが、以前及位の佐藤文六さんに就き二年程修行したことがあります。その頃、師匠、弟子、職人の挽くこけしを見ていましたが、この私のこけしは独特のものです」といっていた。勝郎は酒田市上内匠町の本間儀三郎の工場に出入りしていて、こけし絵の賃描きもしているので、儀三郎を作者と誤解している人のあることを附記しておく。(こけしの微笑)

昭和13年(1938年)8月の『こけしの微笑』刊行以後、柏倉勝郎のもとに直接こけしの注文が来るようになったのでやむを得ずこけしの木地も自ら挽くようになった。昭和17年(1942年)7〜9月の間及位の佐藤文六の元で働いた後、48歳で酒田本町7丁目の酒田産業株式会社木工部主任に。50歳まで務めるがしかしこの頃よりこけしの注文が途絶えたため製作するのをやめた。戦時中という時勢もあったのかもしれない。

以後、昭和19〜21年(1944〜1946年)初まで本間儀三郎のもとで働き、同年3月息子の務める五十川(いらがわ)炭鉱に移る。昭和25年(1950年)前後は酒田の横道町で少し木地業をやっていたが、昭和26年(1951年)東京巣鴨、昭和27年(1952年)58歳の時再び五十川へ戻る。

こけし手帖339号、川上克剛氏によると昭和26年頃からこけし製作を復活したとのことである。さらに「翌年あたりから酒田の渡辺玩具店からのみ少量が販売されたらしい。酒田の物産館などで売るようなったのは、昭和三十年以後のことである。」とある。(※こけし手帖27号には「昭和三十一年九月に酒田の渡辺賢秀さんから製作依頼を受け、戦後またこけしを挽き出しました。現在足踏みの向い挽きろくろを使用しております。」と記述。)

昭和34年(1959年)3月20日、大浦泰英氏が来訪、この時の見聞がこけし手帖27号「五十川に柏倉勝郎を訪ねる」として掲載される。その年の11月下旬頃より、神経痛により製作が不能になる。工人65歳。翌年の3月に鶴岡の湯野浜に移り療養。12月24日には白鳥正明氏が来訪し、同じくこけし手帖46号で「柏倉勝郎とその周辺」として掲載される。(「ほとんど半身不随に近いという話を聞いていたがこの時にはもうすっかり元気になっていた。」)それによれば、湯野浜へ移る時に、ロクロは置いて来てしまったということだった。

昭和36年(1961年)、再びロクロを組んで30本ほどこけしを製造し、そのうちの10本を川上克剛氏に送る。昭和39年(1964年)の3月にその川上克剛が来訪するが、「妻を亡くして気落ちが激しく、昔話は三十分ぐらいで切り上げ、元気づける言葉をかけて早々に引き上げた」という状況だったようである。そして昭和39年(1964年)12月2日、柏倉勝郎は首つり自殺をして亡くなってしまった。享年70歳。

3. こけしの変遷
(続く)

4. 参考URL
こけしのなかのわたし「2013.03.01 一金会「柏倉勝郎と庄内のこけし」