009: 菅原敏
2014年11月22日、こけしの主要産地のひとつである遠刈田温泉を旅した。この旅における最大の収穫は蔵王こけし館に展示されている有名な「名和コレクション」をじっくり見ることができたことだったと思っている。戦前の古品をみることで遠刈田系こけしに対する興味関心は間違いなく広がったわけであるが、このコレクションの中で特に惹かれたのが佐藤三蔵(1879-1952)のこけしであった。まずはその表情をご覧頂きたい。

鋭くしかし大らかな眼差し、古風な面描、筆の揺れ。情味という言葉はこういうものを指すのではないかと思う。以来、三蔵こけしの表情はいつも頭の片隅に陣取って離れず、遠刈田系こけしの好き嫌いを判断する基準となったばかりでなく、三蔵型を製作した菅原敏(すがわらさとし)という工人に辿り着くきっかけともなった。前置きが長くなったが今回はその菅原敏工人と三蔵型についてまとめる。
1. 文献
まず手元にある菅原敏に関する文献を確認してみる。
・こけし手帖 42号 鹿間時夫「新人紹介」(昭和37年)
・こけし手帖 50号 土橋慶三「雪国の幻想 三蔵こけし」(昭和38年)
・こけし手帖 63号 宮崎友宏「秋保行」(昭和41年)
・こけし手帖 65号 石井荘男「菅原敏さんの苦心談」(昭和41年)
・こけし辞典 菅原庄七・菅原敏の項(昭和46年初版)
・木の花 第9号 北村勝史「戦後の佳作其の九 菅原敏」(昭和51年)
・こけし手帖 385号 阿部弘一「菅原敏・小椋正吾両工人の急逝を悼む」武田利一「寂滅為楽」(平成5年)
・こけし手帖 387号 柴田長吉郎「菅原敏の思い出」(平成5年)
・こけし手帖 438号 檜垣浩男「例会ギャラリー6月 菅原庄七と敏のこけし」(平成9年)
2. 歩み
菅原敏は昭和12年(1937年)10月3日に木地業・菅原庄七ととめよの一人息子として生まれる。昭和29年(1954年)3月秋保中学校卒業後、石工夫、農業を経て、昭和30年(1955年)頃より庄七の仕事を手伝い始めたとされる。『伝統こけしガイド』(昭和48年 P.131)によると、「昭和31年(1956年)4月、十九歳の時父庄七の許しを待ちかねて庄七型こけし(5寸)を試作した。その後正式には昭和35年6月より昭和37年11月まで庄七について木地を修行」したとある。昭和37年7月発行の『こけし手帖42号』に鹿間時夫氏が新人工人として紹介文を書いている。
若い工人が師匠なり縁深い故人の優秀なこけしを、一心に追求しそれを体得することは、職人の経歴においても、本人の心がまえの歴史においても絶対に必要であり大切なことと思う。秋保の菅原庄七の息子敏が、佐藤三蔵の古い型を勉強して三蔵型を作った。たつみの森氏の熱心な世話であったが、その出来は悪くなかった。多くのこけし群の中で一際目立つ強烈な個性のこけしであった。青いろくろ線は秋保の基調であるが、たっぷりと青線を太くひき、ろの字型の赤線を描きまくったタッチはのびのびして、楽しめる。
庄七およびその影響化にある工人達の面彩は甘美繊麗の極を走るものであった。三蔵型は繊麗性よりもどちらかといえば荒いタッチの豪快性にもどることであるから、製作時の気分によほどの大らかな快調が必要であろうと思う。だから出来たものに、多少のむらはあったが、これはやむを得ない。表情に幅のあるのはむしろ良いかもしれない。庄七の優しさに、剛直性が加わっていれば成功である。初作の頃の一本にすばらしいものがあった。彼は気付くまい。そうした無心的な製品の結果に、ため息をついてそれを手にしたいと切望しているものがいることを。わたしは敏に会っていないから、こけしと工人の生活を直結して眺められない。しかし、落ちついて出来るだけ多く作ることを望む。(『こけし手帖42号』昭和37年 P.22)
昭和40年(1965年)工人28歳の時、通商産業大臣賞を受賞。翌年の昭和41年(1966年)の『こけし手帖63号』ならびに『こけし手帖65号』には自己流の工夫を加え次第に本人型といえる独特の雰囲気を持ったこけしに変化していく過程が記録されていて興味深い。また同年より東京・三鷹の「たつみ」から庄七型や三蔵型の優れた復元作が発売され人気を博すようになったが、そのあたりから秋保川の魚釣り、松茸取り等の副業の比重が大きくなり轆轤から離れることが多くなったらしい。
昭和47年(1972年)工人35歳の時、父・庄七が亡くなる。淋しさを紛らすために酒量が増えたともいう。そして昭和50年代に入ると活動は次第に停滞していく。Kokeshi Wiki によると「昭和60年(1985年)頃より製作量が減少し、とめよが亡くなってからは得意の山菜採りが出来なくなるほど酒で体を壊していた」という。母とめよは平成2年11月14日に85歳で亡くなったが、後を追うかのように平成4年12月、菅原敏は亡くなった。享年54歳。『こけし手帖385号』、『こけし手帖387号』に阿部弘一氏、武田利一氏、柴田長吉郎氏による追悼文が掲載されている。
3. こけし鑑賞
手持ちの菅原敏作を見てみる。

(左より)
・佐藤三蔵型こげす 5寸1分
・佐藤三蔵型 8寸
・菅原庄七型こげす 5寸
・佐藤三蔵型 8寸
・青坊主 5寸
最初に入手したのは左端のこげす型で、フォルムと表情が気に入り何気無く手に取った一本。その時は特にこれが菅原敏の三蔵型であるということは意識しておらず、独特な「る」の字から秋保由来のこけしであろうことがかろうじて推測できたくらいだった。その後、調べていくと『こけし手帖602号』の三蔵をテーマにした回の談話室覚書に掲載されている写真③のこげすが原作となっていることがわかった。胴下部につけられた段や胴模様の配置などは原作の意匠が踏襲されているが、さらに工人自身の工夫が加えられているようで、「る」の字模様も面描もより力強く生き生きとしているように感じられる。原作の表情が持つぶっきら棒なキツさはなく、前を見据える静かな眼差しに惹きつけられる。
真ん中の庄七型のこげすの胴下部にも段がつけられている。これは父・庄七型の小品とされ、敏の作るこげすも全体的にずんぐりとしているもののユーモラスで鄙びた佇まいはきちんと表現されていて、丑蔵のこげすにも見られる一筆目のひょうきんな表情は見飽きない。
右端の5寸は青坊主と呼ばれる手法を用いたこけしであるが、この説明は『木の花第20号』に詳しい。
頭は手絡を描かずに青坊主という幼児の頭の剃りあとをあらわす手法を用いている。遠刈田の古い様式なのか、庄七の創作なのか不明であるが、この様式を庄七は戦前は新型と称して八寸ぐらいまでのものまで作った。梅、桃、枇の三本組と、梅、桃の二本組がある。この三本組、二本組は秋保温泉土産として好評でよく売れたため、これをまねて作ったのが(平賀)謙次郎の三本組であり、これは作並温泉で売られた。(『木の花第20号』昭和54年 P.11)
このこけしの面描は一側目、ねこ鼻、赤線2本による口と、要素としては三蔵型こげすのそれと同じものが用いられているが、両者を比べてみるとあまり冴えがない表情のように感じる。あるいは製作年代が後のものかもしれない。
左から2本目の8寸は「る」の字模様を用いた三蔵型。胴体の上下に二本の轆轤線を引いた「る」の字の胴模様となりこれは『こけし手帖50号』の土橋慶三氏によるとB型に分類される。同記事の写真に用いられている米浪庄弌旧蔵7寸8分に近い作風であるが、胴底に署名はなく菅原敏の作であるとは断言できない。木地形態や鼻、口の書体に関していえば、Kokeshi Wiki の菅原敏のページに掲載されている昭和41年6月のたつみ頒布品と似ているようにも思われるし、向って右の二側目の下瞼の鼻に近い側が上瞼とくっついていない癖なども酷似している。こちらのこけしの眼点は破調せず真っ直ぐ前を見据えた視線となっている。
右から2本目の8寸は重菊を用いたC型。鋭い目やたれ鼻といった三蔵型の要点を踏まえているが、冒頭で写真を載せた三蔵の表情と比べると、もはや菅原敏型としかいえない別種の雰囲気を醸し出している。『木の花第9号』の「戦後の佳作」(昭和51年 P.40)で北村勝史氏は「どうも原型とは似ても似つかぬ敏の世界がある。印度の裸の仏像の如きエキゾチックな妖艶さが滲み出ている」と表現している。切れ長の三日月目は眼点がかなり小さく、白目部分の割り合いが多いため緊張感の高い眼差しである。世間を睥睨しているようにも見えるし、達観した心境で微笑んでいるにも見える。こけしブームに湧く中にあって漸次こけし作りから離れていった工人の心境の発露であると考えてしまうのは果たして穿った見方であろうか。いずれにしても読み応えのあるこけしではある。

鋭くしかし大らかな眼差し、古風な面描、筆の揺れ。情味という言葉はこういうものを指すのではないかと思う。以来、三蔵こけしの表情はいつも頭の片隅に陣取って離れず、遠刈田系こけしの好き嫌いを判断する基準となったばかりでなく、三蔵型を製作した菅原敏(すがわらさとし)という工人に辿り着くきっかけともなった。前置きが長くなったが今回はその菅原敏工人と三蔵型についてまとめる。
1. 文献
まず手元にある菅原敏に関する文献を確認してみる。
・こけし手帖 42号 鹿間時夫「新人紹介」(昭和37年)
・こけし手帖 50号 土橋慶三「雪国の幻想 三蔵こけし」(昭和38年)
・こけし手帖 63号 宮崎友宏「秋保行」(昭和41年)
・こけし手帖 65号 石井荘男「菅原敏さんの苦心談」(昭和41年)
・こけし辞典 菅原庄七・菅原敏の項(昭和46年初版)
・木の花 第9号 北村勝史「戦後の佳作其の九 菅原敏」(昭和51年)
・こけし手帖 385号 阿部弘一「菅原敏・小椋正吾両工人の急逝を悼む」武田利一「寂滅為楽」(平成5年)
・こけし手帖 387号 柴田長吉郎「菅原敏の思い出」(平成5年)
・こけし手帖 438号 檜垣浩男「例会ギャラリー6月 菅原庄七と敏のこけし」(平成9年)
2. 歩み
菅原敏は昭和12年(1937年)10月3日に木地業・菅原庄七ととめよの一人息子として生まれる。昭和29年(1954年)3月秋保中学校卒業後、石工夫、農業を経て、昭和30年(1955年)頃より庄七の仕事を手伝い始めたとされる。『伝統こけしガイド』(昭和48年 P.131)によると、「昭和31年(1956年)4月、十九歳の時父庄七の許しを待ちかねて庄七型こけし(5寸)を試作した。その後正式には昭和35年6月より昭和37年11月まで庄七について木地を修行」したとある。昭和37年7月発行の『こけし手帖42号』に鹿間時夫氏が新人工人として紹介文を書いている。
若い工人が師匠なり縁深い故人の優秀なこけしを、一心に追求しそれを体得することは、職人の経歴においても、本人の心がまえの歴史においても絶対に必要であり大切なことと思う。秋保の菅原庄七の息子敏が、佐藤三蔵の古い型を勉強して三蔵型を作った。たつみの森氏の熱心な世話であったが、その出来は悪くなかった。多くのこけし群の中で一際目立つ強烈な個性のこけしであった。青いろくろ線は秋保の基調であるが、たっぷりと青線を太くひき、ろの字型の赤線を描きまくったタッチはのびのびして、楽しめる。
庄七およびその影響化にある工人達の面彩は甘美繊麗の極を走るものであった。三蔵型は繊麗性よりもどちらかといえば荒いタッチの豪快性にもどることであるから、製作時の気分によほどの大らかな快調が必要であろうと思う。だから出来たものに、多少のむらはあったが、これはやむを得ない。表情に幅のあるのはむしろ良いかもしれない。庄七の優しさに、剛直性が加わっていれば成功である。初作の頃の一本にすばらしいものがあった。彼は気付くまい。そうした無心的な製品の結果に、ため息をついてそれを手にしたいと切望しているものがいることを。わたしは敏に会っていないから、こけしと工人の生活を直結して眺められない。しかし、落ちついて出来るだけ多く作ることを望む。(『こけし手帖42号』昭和37年 P.22)
昭和40年(1965年)工人28歳の時、通商産業大臣賞を受賞。翌年の昭和41年(1966年)の『こけし手帖63号』ならびに『こけし手帖65号』には自己流の工夫を加え次第に本人型といえる独特の雰囲気を持ったこけしに変化していく過程が記録されていて興味深い。また同年より東京・三鷹の「たつみ」から庄七型や三蔵型の優れた復元作が発売され人気を博すようになったが、そのあたりから秋保川の魚釣り、松茸取り等の副業の比重が大きくなり轆轤から離れることが多くなったらしい。
昭和47年(1972年)工人35歳の時、父・庄七が亡くなる。淋しさを紛らすために酒量が増えたともいう。そして昭和50年代に入ると活動は次第に停滞していく。Kokeshi Wiki によると「昭和60年(1985年)頃より製作量が減少し、とめよが亡くなってからは得意の山菜採りが出来なくなるほど酒で体を壊していた」という。母とめよは平成2年11月14日に85歳で亡くなったが、後を追うかのように平成4年12月、菅原敏は亡くなった。享年54歳。『こけし手帖385号』、『こけし手帖387号』に阿部弘一氏、武田利一氏、柴田長吉郎氏による追悼文が掲載されている。
3. こけし鑑賞
手持ちの菅原敏作を見てみる。

(左より)
・佐藤三蔵型こげす 5寸1分
・佐藤三蔵型 8寸
・菅原庄七型こげす 5寸
・佐藤三蔵型 8寸
・青坊主 5寸
最初に入手したのは左端のこげす型で、フォルムと表情が気に入り何気無く手に取った一本。その時は特にこれが菅原敏の三蔵型であるということは意識しておらず、独特な「る」の字から秋保由来のこけしであろうことがかろうじて推測できたくらいだった。その後、調べていくと『こけし手帖602号』の三蔵をテーマにした回の談話室覚書に掲載されている写真③のこげすが原作となっていることがわかった。胴下部につけられた段や胴模様の配置などは原作の意匠が踏襲されているが、さらに工人自身の工夫が加えられているようで、「る」の字模様も面描もより力強く生き生きとしているように感じられる。原作の表情が持つぶっきら棒なキツさはなく、前を見据える静かな眼差しに惹きつけられる。
真ん中の庄七型のこげすの胴下部にも段がつけられている。これは父・庄七型の小品とされ、敏の作るこげすも全体的にずんぐりとしているもののユーモラスで鄙びた佇まいはきちんと表現されていて、丑蔵のこげすにも見られる一筆目のひょうきんな表情は見飽きない。
右端の5寸は青坊主と呼ばれる手法を用いたこけしであるが、この説明は『木の花第20号』に詳しい。
頭は手絡を描かずに青坊主という幼児の頭の剃りあとをあらわす手法を用いている。遠刈田の古い様式なのか、庄七の創作なのか不明であるが、この様式を庄七は戦前は新型と称して八寸ぐらいまでのものまで作った。梅、桃、枇の三本組と、梅、桃の二本組がある。この三本組、二本組は秋保温泉土産として好評でよく売れたため、これをまねて作ったのが(平賀)謙次郎の三本組であり、これは作並温泉で売られた。(『木の花第20号』昭和54年 P.11)
このこけしの面描は一側目、ねこ鼻、赤線2本による口と、要素としては三蔵型こげすのそれと同じものが用いられているが、両者を比べてみるとあまり冴えがない表情のように感じる。あるいは製作年代が後のものかもしれない。
左から2本目の8寸は「る」の字模様を用いた三蔵型。胴体の上下に二本の轆轤線を引いた「る」の字の胴模様となりこれは『こけし手帖50号』の土橋慶三氏によるとB型に分類される。同記事の写真に用いられている米浪庄弌旧蔵7寸8分に近い作風であるが、胴底に署名はなく菅原敏の作であるとは断言できない。木地形態や鼻、口の書体に関していえば、Kokeshi Wiki の菅原敏のページに掲載されている昭和41年6月のたつみ頒布品と似ているようにも思われるし、向って右の二側目の下瞼の鼻に近い側が上瞼とくっついていない癖なども酷似している。こちらのこけしの眼点は破調せず真っ直ぐ前を見据えた視線となっている。
右から2本目の8寸は重菊を用いたC型。鋭い目やたれ鼻といった三蔵型の要点を踏まえているが、冒頭で写真を載せた三蔵の表情と比べると、もはや菅原敏型としかいえない別種の雰囲気を醸し出している。『木の花第9号』の「戦後の佳作」(昭和51年 P.40)で北村勝史氏は「どうも原型とは似ても似つかぬ敏の世界がある。印度の裸の仏像の如きエキゾチックな妖艶さが滲み出ている」と表現している。切れ長の三日月目は眼点がかなり小さく、白目部分の割り合いが多いため緊張感の高い眼差しである。世間を睥睨しているようにも見えるし、達観した心境で微笑んでいるにも見える。こけしブームに湧く中にあって漸次こけし作りから離れていった工人の心境の発露であると考えてしまうのは果たして穿った見方であろうか。いずれにしても読み応えのあるこけしではある。
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008: 佐藤康広
こけしに興味を持ち始めたほぼ同じ頃にBEAMS <fennica> が「インディゴこけし」の販売を開始した。こけしに対して何の知識も先入観も持たない初心者の目にはその藍色がただただ魅力的に映ったし、日本的な美しさを象徴するものにも思われた。このインディゴこけしを作るのは佐藤康広工人という名の、自分とそれほど年が変わらない若手工人であることを知って親近感を抱いた。その後実演などの折にお話しをさせて頂く機会にも恵まれ、知らず知らずのうちに康広工人作のこけしが増えている。今回はその佐藤康広工人とインディゴこけし等についてまとめてみる。(以後、一部敬称略)
1. 歩み
佐藤康広は昭和51年(1976年)4月26日、宮城郡宮城町芋沢大竹新田下で木地業を営む佐藤正廣の二男として生まれる。師匠・正廣は遠刈田系松之進系列の我妻吉助の弟子。また日光の大藤仲四郎にも師事しており、木地挽きの技術、カンナの切れともに一流の木地師と誉れ高い。その正廣を父にもつ康広は長らく測量関係の仕事に従事していたが、平成22年(2010年)1月1日より父につき木地修業を開始する。この時工人33歳。
翌、平成23年(2011年)5月の東京こけし友の会例会で初作となる7寸の頒布が行われた。『こけし手帖』606号には頒布品の写真とともに簡単な紹介文が掲載されているのでそちらを引用させていただく。
測量関係の仕事を退職、平成22年1月から父正廣に師事。当初父の木地玩具の日光茶道具を製作、昨年のみちのくこけしまつりで入賞する。こけしは平成22年10月より描き始める。父の松之進型を継承、今回は初作頒布。重菊、桜崩し、旭菊、井桁の胴模様の各種。今後の活躍を期待。(『こけし手帖606号』平成23年 P.9)
平成24年(2012年)3月の例会では小寸(2寸)三本組みセットの頒布が行われた。また、平成26年(2014年)1月よりBEAMS <fennica> よりインディゴこけしの販売が開始され、その製作を担当している。
現在、木地業就業6年目。父とともに仙台木地製作所でこけしおよび木地製品を製作している。
2. こけし鑑賞
手持ちの佐藤康広工人作を見てみる。

(左より)
・藍 轆轤線 4寸
・青 轆轤模様 8寸
・藍 旭菊轆轤線 4寸
・藍 菖蒲轆轤線 6寸
・藍 階調轆轤線 4寸
・藍 梅花轆轤線 8寸
・藍 轆轤線 4寸
一番最初に入手したこけしは2014年4月11日に入手した左の2本。第2回の販売品であるが、後のものと比べると木地の極端な白さは未だなく自然な印象を受ける。特に4寸の表情は二側目の下瞼が若干下方にふくらみ柔らかく優しい。店内でご一緒した愛好家の方と話題になったのが、本藍による染料が経年とともにどう変化あるいは褪色していくかについてであった。本藍によるこけしというのはこれまで前例がなくこれを書いている現時点でも藍色にどれほどの耐性があるのかは未知数であり、そういう意味でインディゴこけしは実験的な試みであるといえるだろう。褪色の予防としてなるべく濃い色のものを選ぶのが賢明であると思われるが、今後の経過には引き続き注視していかなくてないけない。そのような懸念があったので色が濃く褪色の心配が少ないと思われる青の轆轤模様8寸も入手した次第であるが、その後の本藍を中心とした収集を考えるとこの濃い青のこけしがちょっとしたアクセントになっているように思われる。この胴模様は工人の属する系列の頂点に立つ佐藤松之進のこけしにみられるもので、松之進が著した『木地人形記』の第十四号にその祖形が認められる。なお、『木地人形記』は松之進から橘文策に贈られた手書きの資料で『こけし手帖』37号に「松之進の「木地人形記」に寄せて」という記事で掲載され、後に『こけしざんまい』にも収録されている。
さて2014年8月23日、第3回の販売で手に入れたのは右から2本目の8寸。この回は東京だけでなく、仙台、神戸、広島でも販売されたと記憶している。この頃の収集は徹底的に8寸という大きさにこだわっていた時期であったため8寸以外には目もくれていなかったように思う。他の方が所有されているインディゴこけしを拝見しているうちに白い木地の余白を活かした模様に強く惹かれることに気付き、なるべく余白が感じられるような胴模様を基準に選んだ。胴の上下を幅の広い轆轤線と土湯系の返しロクロを髣髴とさせる斜め線で縁取り、胴の中央に遠刈田系の伝統的な枝梅模様に使われる梅花をあしらった胴模様である。顔の線も伸び伸びとしていて明朗で健康的な表情に見える。
2015年3月8日の第4回販売では真ん中の3本を入手。この回は原宿、仙台の2店舗で販売された。こけしを収集し始めて1年経つと、同じ大きさのこけしで揃えて並べる見せ方はどうにも収まりが悪いように感じ始めた。というわけで各種の大きさを偏りなく並べられるように収集の仕方を方向転換した時期だったため、4寸、6寸という小さめのサイズに絞った上で胴模様の多様性に焦点を絞って選んだ。左から3本目は轆轤線に伝統的な旭菊を描いた胴模様で、頭部の手絡も前髪後ろの一点から放射状に描かれ胴の旭菊と響き合う。藍色とよく調和するモダンな胴模様であるように思う。真ん中の6寸は遠刈田系の裏模様によく使われる菖蒲模様をあしらったもの。土湯系の佐久間粂松型のような趣きが感じられる。やや下膨れ気味の頭部のフォルムと目の離れた面描で個人的には表情に少し不満が残る。しかし大勢が列をなし短時間のうちに買うべきこけしを決めなくてはいけない状況ではじっくり選ぶ余裕は望めず致し方ないところではある。やはりこけしは時間をかけてじっくり選ぶべきものではあるが、同時に収集家としては一層目利きの目を磨かなくてはいけない。右から3番目の4寸は階調轆轤線による胴模様。濃淡によって生み出される本藍の微妙な変化が堪能できる一本で、勝ち気な表情とともにとても気に入っている一本。
右端の4寸は2015年5月27日の第5回販売で手に入れた。この回は平日水曜日からの販売開始のため即完売ということにはならなかった。とはいっても遅く到着した頃には狙っていた胴模様は既になかったが。それでもこの日は他に誰もお客さんがおらずじっくり見比べることができたので、前回の反省を活かし面描と表情に着目して選ぶことにした。改めてこのこけしの表情を見てみると、この時の選考基準は三日月目の均整に主眼を置いていたことが伺える。下瞼の線がきちんと上瞼にくっつき両目も水平を保っている。瞼の稜線は優雅で慈愛の眼差しが感じられる。美しい表情だと思うが、康広工人らしい面描か、というと話は別であるところが面白い。表情領域の広い工人だと思う。
次にインディゴこけし以外のえじこ等をみてみる。

(左より)
・赤 轆轤線 1寸2分
・えじこ エゴノキ材
・豆えじこ
右の豆えじこは2014年9月8日、上野松坂屋実演にて購入。この時に初めて康広工人とお会いして話をすることができた。インディゴこけしでも所有している梅花が散りばめられた胴に、すやすや安らかな寝顔が相まって可愛らしい。真ん中の大きめなえじこは2015年4月14日の横浜そごう実演にて。エゴノキという木材の樹皮を活かした意匠で、余白には轆轤線とやはり梅花があしらわれている。クリクリ目の表情はいかにも玩具といった風情で楽しい。左の豆こけしは2015年6月27日に西荻窪のイトチによって開催された『奥会津の木地師』上映会と康広工人・樋口達也氏のトークイベントの際に配られたお土産こけし。小さいながらもバランスがとても良く豆こけしならではの可愛らしさがある。インディゴこけしを求める愛好家はこういった豆こけしや4寸大の小寸こけしを好む傾向にあると思われ、その結果として工人としても作り慣れた大きさになっているのかもしれない。良いこけしが多い。
3. インディゴこけしについて
インディゴこけしに関していくつかの断想を記する。まず、その伝統性にも絡むことではあるが「藍色が東北の色か」という問題を孕んでいるように思われる。昭和63年(1988年)に発行された『こけし手帖』323号において和田薫子氏が「こけしの色彩」という記事を書かれているがその中で、
この秋、久しぶりに友の会の旅行会に参加した。晩秋のみちのくの山々は、紅葉、黄葉、新緑と濃い褐色の色彩で覆われていて、文字どおり華やかな錦の色彩そのものであった。それはまた、こけしの色彩そのものでもあり、もっとも日本的な感覚の色の世界とも言えよう。(『こけし手帖323号』昭和63年 P.4)
という一文があり、その指摘には唸らされた。よくこけしは東北の風土が生み出したものといわれるが、ここまで具体的にそれを納得させる文には出会ったことがなかったからである。更に、同記事では「青がこけしに彩色されないのは何故であろうか」という記述があり、「こけしの木肌の色は、ベージュ色というのか、薄茶色である。青は補色関係になって、まったく調和しない。こけしに青色が用いられない理由が納得させられる」と結論付けている。
このインディゴという色彩は東北に根付くものなのだろうかと改めて考えみても、藍というと自分の中ではどうも四国が思い浮かんできてしまう。少なくとも東北特有のものとはいえないことは確かであるが、しかし手元にあるインディゴこけしを見ると和田氏が指摘していたように青(藍色)が木地に調和していないとは感じられないのもまた事実であるし、藍色で色彩されたこけしを美しいと感じる人は自分だけではない。
これは時代の変遷に伴う美的感覚の変化によるところにあるのではないかと考えられる。サッカー日本代表のユニフォームの色に代表されるように藍色は(東北固有の色ではないかもしれないが)日本らしい色として認知されている。日本的な文化が見直され関心が寄せられている時代背景というものがあり、実際BEAMS の取り組みもそういった文脈から発想されたものと考えられる。そういった意味でインディゴこけしは極めて現代的な発想、現代的な美意識、現代的な色彩感覚によって生み出されたこけしであるといえる。
その一方でインディゴこけしの胴模様、面描、木地形態は伝統こけしそのもので硬派ともいえるほどの伝統性を有している。その点で所謂「かわいいこけし」とは一線を画するものがあり、自分が惹かれているのは色彩の革新性とその他の要素の保守的なまでの伝統性のバランスにあるように思う。
西田峯吉著『鳴子・こけし・人』によれば、かつて明治35年(1902年)頃、肘折へ出稼ぎにいった鈴木庸吉が同地で胴を黄色に塗る技法を習得し鳴子に持ち帰ったことが契機となり黄鳴子時代が到来したという。現在こけしに使われている色はこけし発生当初からあったのではなく、ある時点で誰かの工夫・創意により用い始められたものが伝播してひとつひとつ定着してきたことは想像に難くない。このインディゴ(藍色)という色のこけしへの応用も、そのような染料に関する歴史的変遷の中のひとつの出来事としてみることはできないだろうか。そういう視点でみれば現在はひとつの節目にあり、我々はリアルタイムにその変遷に立ち会っているとも考えられなくはない。
インディゴこけしを「青色のこけしはパッとしない」或いは「伝統的なものではない」と一蹴する蒐集家もいらっしゃるだろう。しかしこけしにまったく興味がない人にも訴えかけられる魅力を持ったコンテンツとして、他にどんなこけしがあるだろうか。(もちろんBEAMS というブランド力によるところもあるのかもしれないが。)いずれにしても、個人的にはこれから長い時間をかけて青い色がこけしの伝統的なものとして定着していったら面白いなと思うし、願わくば、この藍色こけしがきっかけとなってこけしに深く魅了される人が増えていってくれればと考えている。
4. 佐藤康広工人について
インディゴこけしの製作者である佐藤康広工人は前述の通り表情領域の広い工人であり、胴模様の多様性と相まって非常に収集が楽しめるこけしを作っていると思う。また話していると言葉の節々にこけし工人というよりは木地師としての意識と誇り、職人としての謙虚な姿勢が感じられ、頼もしい。可能であれば佐藤松之進型の写しにじっくり取り組んでもらいそれがどのように作用するかみてみたいという思いがあるが、ご多忙につきなかなか頼めないでいる。まあ焦ることなく、細く長くお付き合いしていければと考えている。6年目の新進工人としても、同世代の工人さんとしてもこれからがとても楽しみな存在であり引き続き注目していきたい。
1. 歩み
佐藤康広は昭和51年(1976年)4月26日、宮城郡宮城町芋沢大竹新田下で木地業を営む佐藤正廣の二男として生まれる。師匠・正廣は遠刈田系松之進系列の我妻吉助の弟子。また日光の大藤仲四郎にも師事しており、木地挽きの技術、カンナの切れともに一流の木地師と誉れ高い。その正廣を父にもつ康広は長らく測量関係の仕事に従事していたが、平成22年(2010年)1月1日より父につき木地修業を開始する。この時工人33歳。
翌、平成23年(2011年)5月の東京こけし友の会例会で初作となる7寸の頒布が行われた。『こけし手帖』606号には頒布品の写真とともに簡単な紹介文が掲載されているのでそちらを引用させていただく。
測量関係の仕事を退職、平成22年1月から父正廣に師事。当初父の木地玩具の日光茶道具を製作、昨年のみちのくこけしまつりで入賞する。こけしは平成22年10月より描き始める。父の松之進型を継承、今回は初作頒布。重菊、桜崩し、旭菊、井桁の胴模様の各種。今後の活躍を期待。(『こけし手帖606号』平成23年 P.9)
平成24年(2012年)3月の例会では小寸(2寸)三本組みセットの頒布が行われた。また、平成26年(2014年)1月よりBEAMS <fennica> よりインディゴこけしの販売が開始され、その製作を担当している。
現在、木地業就業6年目。父とともに仙台木地製作所でこけしおよび木地製品を製作している。
2. こけし鑑賞
手持ちの佐藤康広工人作を見てみる。

(左より)
・藍 轆轤線 4寸
・青 轆轤模様 8寸
・藍 旭菊轆轤線 4寸
・藍 菖蒲轆轤線 6寸
・藍 階調轆轤線 4寸
・藍 梅花轆轤線 8寸
・藍 轆轤線 4寸
一番最初に入手したこけしは2014年4月11日に入手した左の2本。第2回の販売品であるが、後のものと比べると木地の極端な白さは未だなく自然な印象を受ける。特に4寸の表情は二側目の下瞼が若干下方にふくらみ柔らかく優しい。店内でご一緒した愛好家の方と話題になったのが、本藍による染料が経年とともにどう変化あるいは褪色していくかについてであった。本藍によるこけしというのはこれまで前例がなくこれを書いている現時点でも藍色にどれほどの耐性があるのかは未知数であり、そういう意味でインディゴこけしは実験的な試みであるといえるだろう。褪色の予防としてなるべく濃い色のものを選ぶのが賢明であると思われるが、今後の経過には引き続き注視していかなくてないけない。そのような懸念があったので色が濃く褪色の心配が少ないと思われる青の轆轤模様8寸も入手した次第であるが、その後の本藍を中心とした収集を考えるとこの濃い青のこけしがちょっとしたアクセントになっているように思われる。この胴模様は工人の属する系列の頂点に立つ佐藤松之進のこけしにみられるもので、松之進が著した『木地人形記』の第十四号にその祖形が認められる。なお、『木地人形記』は松之進から橘文策に贈られた手書きの資料で『こけし手帖』37号に「松之進の「木地人形記」に寄せて」という記事で掲載され、後に『こけしざんまい』にも収録されている。
さて2014年8月23日、第3回の販売で手に入れたのは右から2本目の8寸。この回は東京だけでなく、仙台、神戸、広島でも販売されたと記憶している。この頃の収集は徹底的に8寸という大きさにこだわっていた時期であったため8寸以外には目もくれていなかったように思う。他の方が所有されているインディゴこけしを拝見しているうちに白い木地の余白を活かした模様に強く惹かれることに気付き、なるべく余白が感じられるような胴模様を基準に選んだ。胴の上下を幅の広い轆轤線と土湯系の返しロクロを髣髴とさせる斜め線で縁取り、胴の中央に遠刈田系の伝統的な枝梅模様に使われる梅花をあしらった胴模様である。顔の線も伸び伸びとしていて明朗で健康的な表情に見える。
2015年3月8日の第4回販売では真ん中の3本を入手。この回は原宿、仙台の2店舗で販売された。こけしを収集し始めて1年経つと、同じ大きさのこけしで揃えて並べる見せ方はどうにも収まりが悪いように感じ始めた。というわけで各種の大きさを偏りなく並べられるように収集の仕方を方向転換した時期だったため、4寸、6寸という小さめのサイズに絞った上で胴模様の多様性に焦点を絞って選んだ。左から3本目は轆轤線に伝統的な旭菊を描いた胴模様で、頭部の手絡も前髪後ろの一点から放射状に描かれ胴の旭菊と響き合う。藍色とよく調和するモダンな胴模様であるように思う。真ん中の6寸は遠刈田系の裏模様によく使われる菖蒲模様をあしらったもの。土湯系の佐久間粂松型のような趣きが感じられる。やや下膨れ気味の頭部のフォルムと目の離れた面描で個人的には表情に少し不満が残る。しかし大勢が列をなし短時間のうちに買うべきこけしを決めなくてはいけない状況ではじっくり選ぶ余裕は望めず致し方ないところではある。やはりこけしは時間をかけてじっくり選ぶべきものではあるが、同時に収集家としては一層目利きの目を磨かなくてはいけない。右から3番目の4寸は階調轆轤線による胴模様。濃淡によって生み出される本藍の微妙な変化が堪能できる一本で、勝ち気な表情とともにとても気に入っている一本。
右端の4寸は2015年5月27日の第5回販売で手に入れた。この回は平日水曜日からの販売開始のため即完売ということにはならなかった。とはいっても遅く到着した頃には狙っていた胴模様は既になかったが。それでもこの日は他に誰もお客さんがおらずじっくり見比べることができたので、前回の反省を活かし面描と表情に着目して選ぶことにした。改めてこのこけしの表情を見てみると、この時の選考基準は三日月目の均整に主眼を置いていたことが伺える。下瞼の線がきちんと上瞼にくっつき両目も水平を保っている。瞼の稜線は優雅で慈愛の眼差しが感じられる。美しい表情だと思うが、康広工人らしい面描か、というと話は別であるところが面白い。表情領域の広い工人だと思う。
次にインディゴこけし以外のえじこ等をみてみる。

(左より)
・赤 轆轤線 1寸2分
・えじこ エゴノキ材
・豆えじこ
右の豆えじこは2014年9月8日、上野松坂屋実演にて購入。この時に初めて康広工人とお会いして話をすることができた。インディゴこけしでも所有している梅花が散りばめられた胴に、すやすや安らかな寝顔が相まって可愛らしい。真ん中の大きめなえじこは2015年4月14日の横浜そごう実演にて。エゴノキという木材の樹皮を活かした意匠で、余白には轆轤線とやはり梅花があしらわれている。クリクリ目の表情はいかにも玩具といった風情で楽しい。左の豆こけしは2015年6月27日に西荻窪のイトチによって開催された『奥会津の木地師』上映会と康広工人・樋口達也氏のトークイベントの際に配られたお土産こけし。小さいながらもバランスがとても良く豆こけしならではの可愛らしさがある。インディゴこけしを求める愛好家はこういった豆こけしや4寸大の小寸こけしを好む傾向にあると思われ、その結果として工人としても作り慣れた大きさになっているのかもしれない。良いこけしが多い。
3. インディゴこけしについて
インディゴこけしに関していくつかの断想を記する。まず、その伝統性にも絡むことではあるが「藍色が東北の色か」という問題を孕んでいるように思われる。昭和63年(1988年)に発行された『こけし手帖』323号において和田薫子氏が「こけしの色彩」という記事を書かれているがその中で、
この秋、久しぶりに友の会の旅行会に参加した。晩秋のみちのくの山々は、紅葉、黄葉、新緑と濃い褐色の色彩で覆われていて、文字どおり華やかな錦の色彩そのものであった。それはまた、こけしの色彩そのものでもあり、もっとも日本的な感覚の色の世界とも言えよう。(『こけし手帖323号』昭和63年 P.4)
という一文があり、その指摘には唸らされた。よくこけしは東北の風土が生み出したものといわれるが、ここまで具体的にそれを納得させる文には出会ったことがなかったからである。更に、同記事では「青がこけしに彩色されないのは何故であろうか」という記述があり、「こけしの木肌の色は、ベージュ色というのか、薄茶色である。青は補色関係になって、まったく調和しない。こけしに青色が用いられない理由が納得させられる」と結論付けている。
このインディゴという色彩は東北に根付くものなのだろうかと改めて考えみても、藍というと自分の中ではどうも四国が思い浮かんできてしまう。少なくとも東北特有のものとはいえないことは確かであるが、しかし手元にあるインディゴこけしを見ると和田氏が指摘していたように青(藍色)が木地に調和していないとは感じられないのもまた事実であるし、藍色で色彩されたこけしを美しいと感じる人は自分だけではない。
これは時代の変遷に伴う美的感覚の変化によるところにあるのではないかと考えられる。サッカー日本代表のユニフォームの色に代表されるように藍色は(東北固有の色ではないかもしれないが)日本らしい色として認知されている。日本的な文化が見直され関心が寄せられている時代背景というものがあり、実際BEAMS の取り組みもそういった文脈から発想されたものと考えられる。そういった意味でインディゴこけしは極めて現代的な発想、現代的な美意識、現代的な色彩感覚によって生み出されたこけしであるといえる。
その一方でインディゴこけしの胴模様、面描、木地形態は伝統こけしそのもので硬派ともいえるほどの伝統性を有している。その点で所謂「かわいいこけし」とは一線を画するものがあり、自分が惹かれているのは色彩の革新性とその他の要素の保守的なまでの伝統性のバランスにあるように思う。
西田峯吉著『鳴子・こけし・人』によれば、かつて明治35年(1902年)頃、肘折へ出稼ぎにいった鈴木庸吉が同地で胴を黄色に塗る技法を習得し鳴子に持ち帰ったことが契機となり黄鳴子時代が到来したという。現在こけしに使われている色はこけし発生当初からあったのではなく、ある時点で誰かの工夫・創意により用い始められたものが伝播してひとつひとつ定着してきたことは想像に難くない。このインディゴ(藍色)という色のこけしへの応用も、そのような染料に関する歴史的変遷の中のひとつの出来事としてみることはできないだろうか。そういう視点でみれば現在はひとつの節目にあり、我々はリアルタイムにその変遷に立ち会っているとも考えられなくはない。
インディゴこけしを「青色のこけしはパッとしない」或いは「伝統的なものではない」と一蹴する蒐集家もいらっしゃるだろう。しかしこけしにまったく興味がない人にも訴えかけられる魅力を持ったコンテンツとして、他にどんなこけしがあるだろうか。(もちろんBEAMS というブランド力によるところもあるのかもしれないが。)いずれにしても、個人的にはこれから長い時間をかけて青い色がこけしの伝統的なものとして定着していったら面白いなと思うし、願わくば、この藍色こけしがきっかけとなってこけしに深く魅了される人が増えていってくれればと考えている。
4. 佐藤康広工人について
インディゴこけしの製作者である佐藤康広工人は前述の通り表情領域の広い工人であり、胴模様の多様性と相まって非常に収集が楽しめるこけしを作っていると思う。また話していると言葉の節々にこけし工人というよりは木地師としての意識と誇り、職人としての謙虚な姿勢が感じられ、頼もしい。可能であれば佐藤松之進型の写しにじっくり取り組んでもらいそれがどのように作用するかみてみたいという思いがあるが、ご多忙につきなかなか頼めないでいる。まあ焦ることなく、細く長くお付き合いしていければと考えている。6年目の新進工人としても、同世代の工人さんとしてもこれからがとても楽しみな存在であり引き続き注目していきたい。
007: 本間直子
ささやかな収集の柱として同じ苗字のこけし工人さんに注目している。今回は津軽系の本間直子工人について。2015年6月20日ねぎしで行われた下谷こけし祭りの際にご本人とお話できる機会があったのでその時の見聞も踏まえつつまとめてみようと思う。(以後、一部敬称略)
1. 歩み
同じ苗字ということもあって本間姓についていくつか話をさせてもらった。それによると直子工人の生まれた家系も3〜4代前を辿ると山形の本間姓にルーツを見いだせるらしい。父親は戦前東京の麻布十番辺りに住んでいたが、戦時中に当時の満州へ渡り、青森に移ってきたのは戦後になってからであるという。
昭和36年(1961年)9月23日、農業を営む本間博の三女として直子工人は生まれた。もともと何かを作り出す職人の仕事に対してあこがれがあったそうで、高校在学中に進路指導の先生と相談しながら各方面の職人に弟子入り可能か打診、その中で「来てみなさい」と言ってくれたのがこけし工人・佐藤善二だった。高校卒業後の昭和55年(1980年)4月1日、佐藤善二に弟子入りし木地修行を始める。兄弟子には阿保六知秀、小島俊幸、一戸一光、善二の長男・佳樹、笹森淳一がいて、直子工人は佐藤善二の最後の弟子ということになる。
こけしを作り始めたのは昭和58年(1983年)になってから。昭和60年7月1日、工人23歳の時に独立した。その直前の6月20日に佐藤善二が61歳で亡くなっている。この時期の前後関係を含めてご本人に確認したところ、もともと7月1日に独立することは決まっておりその頃は師匠もまだ元気であったのだが、念のためと受けたバイパス手術が原因となり急逝されたとのことである。従って、師匠が亡くなってしまったからやむを得ず独立に至ったというわけではない。
昭和62年(1987年)に発行された『こけし手帖』321号の記事によると同年10月のおみやげこけしが直子工人によるものでありこけし写真とともに短い紹介文が掲載されているので引用させていただく。
大勢の弟子養成で定評のあった温湯の佐藤善二の一番末の弟子であり、大多数の女性工人が父または主人を師匠に持っている木地屋の出身であるのに対し、素人の出でありながら活躍を期待される異色の工人である。温湯崖山の工房で修行中は「金太郎」の愛称でファンに親しまれていた。
独立と相前後して師匠が急逝したために、現在は佐藤佳樹を中心に五人が協力し合って活躍している。生家が青森県の東部のために、古牧温泉で常設の実演をしていたが、本年八月、結婚して水尻姓を名乗っている。同じ木材関係の主人の理解もあり、これからも仕事を継続する由、今後益々の活躍を期待したい。(後略)
なおこの時のおみやげこけしは直胴轆轤模様、髷付きのふっくらした丸顔に鯨目が描かれたものであった。
以来、佐藤善二型と多彩な本人型を中心にこけしを製作する。同時に、斎藤幸兵衛型、山谷多兵衛型の復元も行い、その気品のある作風は高い評価を得ている。
2. こけし鑑賞
手持ちの本間直子工人作を見てみる。

(左より)
・本人型 6寸
・佐藤善二型 8寸
・斎藤幸兵衛型牡丹模様 6寸
・斎藤幸兵衛型達磨模様 6寸
一番最初に入手した本間直子工人のこけしは左端の本人型6寸であった。胴の上部が膨らみ段から下は直胴というこの一風変わった木地形態は、盛秀太郎の所謂「古型ロクロ」に近いように思われるが、蜻蛉をあしらったビン飾り、目尻だけ少し上がった柔らかい一筆目、そして大振りな牡丹が一輪描かれた胴模様、短い胴下部など、他に例を見ない意匠となっている。写真では判りづらいが頬には薄く頬紅がさされ、また牡丹の花弁に黄色いロクロ線が引かれている。この型についてちゃんと話を伺えば良かったと今になって思う。またお会いできる機会があれば是非お訊きしたいと思っている。
次に入手したのが佐藤善二型8寸。このこけしの写真を本人にお見せしたところ、①牡丹模様が現在の様式と異なる点、②アイヌ模様が正面に描かれている点などから初期の頃のものだろうと断定された。現在のアイヌ模様は胸の中央から左右に描かれる。この善二型は師匠と相談しながら固めた様式で、これより古い最初期のものはもっとキツい目をしているとのことであった。なお、このこけしでも本人型6寸と同様に頬紅がさされ、同じように黄色いロクロ線も引かれている。あるいは同時期の作品なのかもしれない。
右2本は高幡不動の茶房たんたんが平成24年(2012年)に頒布した斎藤幸兵衛型の牡丹絵6寸と達磨絵6寸である。各種10本ずつ製作を依頼したそうで、店に残っていた最後の一対を入手することができた。左2本との雰囲気の違いにまず驚かされる。ともに粗挽き鉋のみで仕上げ鉋もロー引きもされていない。彩色も濃い染料を用いており力強さを感じる。斎藤幸兵衛型は佐藤善二を筆頭にその弟子たちが手がける型であるが、たんたんの店主さんによると直子工人のこけしには幸兵衛特有の「気品」がとてもよく出ているということであった。まことに本格的な復元作である。
なお、斎藤幸兵衛に関しては『木の花』第10号に詳しい。それによると、斎藤幸兵衛のこけし製作期間は昭和7〜9年(1932〜34年)の3年間に過ぎず、今回の復元作の元となったくびれ胴の髷付き牡丹模様と達磨模様は昭和9年4月に木村弦三氏によって頒布されたものであるという。その頒布では他にロクロ模様による髷なしくびれ胴も作られた。戦前の津軽系こけしに対する評価は軒並み手厳しいものがあった中にあって、斎藤幸兵衛のこけしは例外的に高く評価をされていた。
3. こけしの製作
本間直子工人は寡作の人ということも相まって人気の津軽系工人である。先日の下谷こけし祭りでも持参したこけしは開店すると同時に売れていったと聞く。『こけし時代』の創刊号、11号には現行の本人型が多数掲載されているが、どれも第3次こけしブームの担い手である女性の乙女心を絶妙にくすぐるであろう可愛らしさに溢れたこけしであり、その人気振りもうなずける。
その一方で先述の通り本格的な復元にも取り組んでおり、通をうならせる骨太なこけしも作られているところが男性こけし愛好家としても実に頼もしく思われ好感を持っている。Kokeshi Wiki によると山谷権三郎(多兵衛)型の復元も行っているとあり帽子付き5寸の写真が掲載されている。また、『こけし時代』創刊号には小さくではあるが、これとは別の多兵衞型に加え兄弟子が行っている佐藤伊太郎型の小寸こけしと思われる写真も掲載されいる。ただし、現在それらの復元も行っているかどうかは定かではない。
伺った話によると、現時点でこけしを注文してもそれまでの注文が溜まっているため2〜3年程時間がかかってしまうそうで、新作を手に入れるにはイベント会場に赴くのが確実であるとのことであった。それを聞くと気軽に注文をするのがどうにも憚られ、今後どういう感じで関わっていけるかは今のところわからないが、いずれにしても自分にとって本間直子工人はいつまでも応援し注目していきたい現役工人さんのひとりなのである。
1. 歩み
同じ苗字ということもあって本間姓についていくつか話をさせてもらった。それによると直子工人の生まれた家系も3〜4代前を辿ると山形の本間姓にルーツを見いだせるらしい。父親は戦前東京の麻布十番辺りに住んでいたが、戦時中に当時の満州へ渡り、青森に移ってきたのは戦後になってからであるという。
昭和36年(1961年)9月23日、農業を営む本間博の三女として直子工人は生まれた。もともと何かを作り出す職人の仕事に対してあこがれがあったそうで、高校在学中に進路指導の先生と相談しながら各方面の職人に弟子入り可能か打診、その中で「来てみなさい」と言ってくれたのがこけし工人・佐藤善二だった。高校卒業後の昭和55年(1980年)4月1日、佐藤善二に弟子入りし木地修行を始める。兄弟子には阿保六知秀、小島俊幸、一戸一光、善二の長男・佳樹、笹森淳一がいて、直子工人は佐藤善二の最後の弟子ということになる。
こけしを作り始めたのは昭和58年(1983年)になってから。昭和60年7月1日、工人23歳の時に独立した。その直前の6月20日に佐藤善二が61歳で亡くなっている。この時期の前後関係を含めてご本人に確認したところ、もともと7月1日に独立することは決まっておりその頃は師匠もまだ元気であったのだが、念のためと受けたバイパス手術が原因となり急逝されたとのことである。従って、師匠が亡くなってしまったからやむを得ず独立に至ったというわけではない。
昭和62年(1987年)に発行された『こけし手帖』321号の記事によると同年10月のおみやげこけしが直子工人によるものでありこけし写真とともに短い紹介文が掲載されているので引用させていただく。
大勢の弟子養成で定評のあった温湯の佐藤善二の一番末の弟子であり、大多数の女性工人が父または主人を師匠に持っている木地屋の出身であるのに対し、素人の出でありながら活躍を期待される異色の工人である。温湯崖山の工房で修行中は「金太郎」の愛称でファンに親しまれていた。
独立と相前後して師匠が急逝したために、現在は佐藤佳樹を中心に五人が協力し合って活躍している。生家が青森県の東部のために、古牧温泉で常設の実演をしていたが、本年八月、結婚して水尻姓を名乗っている。同じ木材関係の主人の理解もあり、これからも仕事を継続する由、今後益々の活躍を期待したい。(後略)
なおこの時のおみやげこけしは直胴轆轤模様、髷付きのふっくらした丸顔に鯨目が描かれたものであった。
以来、佐藤善二型と多彩な本人型を中心にこけしを製作する。同時に、斎藤幸兵衛型、山谷多兵衛型の復元も行い、その気品のある作風は高い評価を得ている。
2. こけし鑑賞
手持ちの本間直子工人作を見てみる。

(左より)
・本人型 6寸
・佐藤善二型 8寸
・斎藤幸兵衛型牡丹模様 6寸
・斎藤幸兵衛型達磨模様 6寸
一番最初に入手した本間直子工人のこけしは左端の本人型6寸であった。胴の上部が膨らみ段から下は直胴というこの一風変わった木地形態は、盛秀太郎の所謂「古型ロクロ」に近いように思われるが、蜻蛉をあしらったビン飾り、目尻だけ少し上がった柔らかい一筆目、そして大振りな牡丹が一輪描かれた胴模様、短い胴下部など、他に例を見ない意匠となっている。写真では判りづらいが頬には薄く頬紅がさされ、また牡丹の花弁に黄色いロクロ線が引かれている。この型についてちゃんと話を伺えば良かったと今になって思う。またお会いできる機会があれば是非お訊きしたいと思っている。
次に入手したのが佐藤善二型8寸。このこけしの写真を本人にお見せしたところ、①牡丹模様が現在の様式と異なる点、②アイヌ模様が正面に描かれている点などから初期の頃のものだろうと断定された。現在のアイヌ模様は胸の中央から左右に描かれる。この善二型は師匠と相談しながら固めた様式で、これより古い最初期のものはもっとキツい目をしているとのことであった。なお、このこけしでも本人型6寸と同様に頬紅がさされ、同じように黄色いロクロ線も引かれている。あるいは同時期の作品なのかもしれない。
右2本は高幡不動の茶房たんたんが平成24年(2012年)に頒布した斎藤幸兵衛型の牡丹絵6寸と達磨絵6寸である。各種10本ずつ製作を依頼したそうで、店に残っていた最後の一対を入手することができた。左2本との雰囲気の違いにまず驚かされる。ともに粗挽き鉋のみで仕上げ鉋もロー引きもされていない。彩色も濃い染料を用いており力強さを感じる。斎藤幸兵衛型は佐藤善二を筆頭にその弟子たちが手がける型であるが、たんたんの店主さんによると直子工人のこけしには幸兵衛特有の「気品」がとてもよく出ているということであった。まことに本格的な復元作である。
なお、斎藤幸兵衛に関しては『木の花』第10号に詳しい。それによると、斎藤幸兵衛のこけし製作期間は昭和7〜9年(1932〜34年)の3年間に過ぎず、今回の復元作の元となったくびれ胴の髷付き牡丹模様と達磨模様は昭和9年4月に木村弦三氏によって頒布されたものであるという。その頒布では他にロクロ模様による髷なしくびれ胴も作られた。戦前の津軽系こけしに対する評価は軒並み手厳しいものがあった中にあって、斎藤幸兵衛のこけしは例外的に高く評価をされていた。
3. こけしの製作
本間直子工人は寡作の人ということも相まって人気の津軽系工人である。先日の下谷こけし祭りでも持参したこけしは開店すると同時に売れていったと聞く。『こけし時代』の創刊号、11号には現行の本人型が多数掲載されているが、どれも第3次こけしブームの担い手である女性の乙女心を絶妙にくすぐるであろう可愛らしさに溢れたこけしであり、その人気振りもうなずける。
その一方で先述の通り本格的な復元にも取り組んでおり、通をうならせる骨太なこけしも作られているところが男性こけし愛好家としても実に頼もしく思われ好感を持っている。Kokeshi Wiki によると山谷権三郎(多兵衛)型の復元も行っているとあり帽子付き5寸の写真が掲載されている。また、『こけし時代』創刊号には小さくではあるが、これとは別の多兵衞型に加え兄弟子が行っている佐藤伊太郎型の小寸こけしと思われる写真も掲載されいる。ただし、現在それらの復元も行っているかどうかは定かではない。
伺った話によると、現時点でこけしを注文してもそれまでの注文が溜まっているため2〜3年程時間がかかってしまうそうで、新作を手に入れるにはイベント会場に赴くのが確実であるとのことであった。それを聞くと気軽に注文をするのがどうにも憚られ、今後どういう感じで関わっていけるかは今のところわからないが、いずれにしても自分にとって本間直子工人はいつまでも応援し注目していきたい現役工人さんのひとりなのである。
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