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025: 深瀬国雄

遺作のない工人は蒐集家の追求の対象から外れてしまうことが少なくない。深瀬国雄という人物は、柏倉勝郎と彼によって創作された酒田こけしを語る上で欠かすことのできない木地師である。しかしその遺作が残されていないこともあってか現在までこの木地師について深く追求がなされたことはなかったように思われる。

1. 生涯

深瀬国雄についての主たる文献は

・こけし辞典 深瀬国雄ならびに大宮安次郎の項(昭和46年初版)
・山形のこけし (昭和56年)
・こけし手帖 46号 白鳥正明「柏倉勝郎とその周辺」(昭和37年)

あたりを頼るしかないが、『こけし辞典』、『山形のこけし』ともに有効な情報が掲載されているとは言い難い。国雄についての記述は『こけし手帖 46号』白鳥正明氏による柏倉勝郎への聞き取りを第一とする。以下、勝郎が語ったとされる国雄に関する該当箇所を引用する。

深瀬国男はおとなしくて朗らかな人あたりのよい男だった。私より一歳年長のはずで、体格は中肉中背、酒はあまり呑まなかった。蔵王高湯の岡崎栄作の弟子で近所の子供達にこけしを作ってやったことがあり、私がこけしを後年作るとき、そのこけしを思い出して参考にした。国男はもう大分前に山形在の山家で死んだはずだ。

また同記事では名前表記に関して「こけし手帖十号「山形市周辺と上ノ山のこけし」(しばたはじめ)で”山家の深瀬某”として、また三十五号「能登屋・岡崎栄作」(武田利一)では、深瀬国夫として触れている。この名前の国男は勝郎によれば、男または雄で夫ではないということだが、どれが正しいか断定は出来ない。」と補足説明がされている。なお、現在では「深瀬国雄」表記が一般的と思われるため本ブログではそれに従うことにする。

『こけし辞典』(初版)の深瀬国雄の項には生年が記載されていないが、前述の勝郎の発言が確かであれば明治27年(1894年)の生まれということになる。山形県東村山群双月村上山家(現山形市)の出身。以下『こけし辞典』の情報に基づいて歩みを辿っていくと、明治38年(1905年)、11歳の頃に蔵王高湯能登屋の岡崎栄作の弟子となる。当時、栄作19歳。栄作のもと木地挽きを修業し、9年後の大正3年(1914年)、20歳で大宮安次郎を弟子にとったという。大宮安次郎は国雄の兄弟の妻の弟、つまり義理の弟にあたるが、『辞典』の深瀬国雄項と大宮安次郎項で食い違いがあって国雄項では実弟「信好」の妻とし、安次郎項では実兄「信義」の妻となっている。「ノブヨシ」であることに間違いはないのだが。

先の引用箇所で少し触れられたが『こけし手帖 35号』に国雄に関する記述があるのでみてみると、「山形市山家の人、大正の初め頃いた弟子で丸顔の可愛らしい人であったとのこと」。柏倉勝郎の述懐と合わせると、その人柄と風貌が垣間見えてはこないだろうか。

その後の歩みを両項照らし合わせながら見ていく。国雄項では「大正七年ころ安次郎とともに及位の落合滝の木工所で職人をした。(中略)のち山家で木地業を営み、若くして死んだ。」とある。一方の安次郎項によると、「大正六年伊藤泰輔の世話で、国雄と共に山形県最上郡の落合滝木工所で働いた。同年国男が死亡し、伊藤泰輔について木地挽を続けた。」と記載されており、両項の食い違いが続くのである。

深瀬国雄の項は白鳥正明氏が担当し、『こけし手帖 46号』における勝郎への聞き取りがベースになっており目新しい内容はない。一方で、箕輪新一氏が担当した大宮安次郎の項はおそらく安次郎の息子達(大宮安光、正安、正貴)への聞き取りによるもので記述内容から判断するとこちらの方が信頼性は高いと思われる。しかし、大正6年に国雄が死亡してしまうと、大正7年(24歳の時)に落合滝に移った勝郎との接点がなくなってしまう。そこで当時一緒に落合滝木工所で働いていた工人を『こけし辞典』から参照すると、

・伊藤泰輔(白鳥正明氏担当)
大正六年薬師町の自宅で木地屋を開業した。専売局を退職したのはその後のことで、開業の頃は兼業だった。(中略)また、柏倉勝郎によれば、大正年間及位の落合滝の木工所で、主に事務的な仕事をしていたという。

・柏倉勝郎(白鳥正明氏担当)
二四歳のとき同じ及位村の落合滝に木工所(新及位製材所)ができ、そちらへ移って伊藤泰輔、深瀬国雄、神尾長八、武田弘、大宮安次郎、渡辺幸九郎などと共に、主として織物に使う木管を挽いた。

・神尾長八(箕輪新一氏担当)
大正七、八年頃一とき及位の落合滝木工所で職人をした(手帖・四六)

・武田弘(鹿間時夫氏担当)
大正八年ころ及位の落合滝の木工所で、伊藤泰輔、神尾長八、柏倉勝郎、深瀬国雄、大宮安次郎、渡辺幸九郎などと一緒に働いたことがある。

・渡辺幸九郎(橋本正明氏担当)
大正八年二八歳より及位落合滝の新及位製材所に伊藤泰輔の紹介で入り、深瀬国雄・神尾長八・武田弘・大宮安次郎・柏倉勝郎などとともに、ブナ材の椀類を挽いた。及位時代に旧及位出身のトリイと結婚。この工場は菅原兵衞・姫木広吉・柴田太郎が経営したが、大正九年ころに一時失敗し、幸九郎はこれを機会に、兄の独立していた下ノ原へ帰り、約六年間幸治郎のもとで働いた。


勝郎の項にある通り、新及位製材所ができたのは柏倉勝郎が24歳の時つまり大正7年であるとするならば、大正6年説は否定される。大正6年に死亡したのであれば勝郎の「国男はもう大分前に山形在の山家で死んだはずだ。」という発言自体が成り立たなくなってしまうのである。また、渡辺幸九郎の項に着目すると、大正8年の段階でも深瀬国雄と一緒に働いていたとされるのでこの頃までは存命であったことが伺える。

以上を踏まえると、国雄が安次郎と共に落合滝の木工所へ移ったのは大正7年(1918年)で少なくとも翌年までは同地で働いていたと思われる。正確な年はわからないがその後国雄は上家に戻りそこで亡くなる。死去によるものか行動を別にしたのかは定かではないが師を失った大宮安次郎は、その後伊藤泰輔につき木地挽きを続け、東京八王子を経て、大正10年頃にかつて国雄が修業していた蔵王高湯の能登屋で職人として働くことになる。安次郎のその後の足取りが東京を経由していたことも踏まえると大正9年(1920年)頃には既に亡くなっていたものと思われる。つまり、26歳前後での夭逝であり、勝郎の「若くして死んだ」という述懐とも辻褄が合う。

2. こけし

深瀬国雄のこけしは残されていない。若くして亡くなったことに加え、彼が活動していた時期は明治末から大正半ばまでというのも関係してくる。つまり、当時こけしは純然たるこどもの遊び道具であって、大人がそれを蒐集対象とし始めたのはずっと後になってからの事である。

幸い、国雄の師である岡崎栄作、弟子である大宮安次郎のこけしは残されているし、国雄のこけしに影響を受けたという柏倉勝郎のこけしも記録として残っているので、それらから国雄のこけしを類推することは可能であろう。少なくとも、岡崎栄作のこけしと大宮安次郎のこけしを結ぶ線上に深瀬国雄のこけしがあったことは間違いない。

国雄が栄作の元にいたのは上述の通り、明治38年(1905年)から大正7年(1917年)の13年程と推定される。この期間の栄作によるこけしは残されていない。時期的に最も近いのは『こけし古作図譜』掲載品。同じものは『こけし 美と系譜』の図版66にも載っている。左から2本目の大正後期作がそれである。一方、大宮安次郎作は『こけし 美と系譜』の図版31に昭和18年12月作が確認できる。

まず、両者の共通点は即ち国雄のこけしの構成要素と考えて間違いない。つまり、
・おかっぱ頭
・胴上下に引かれる赤い轆轤線とその内側に添えられる緑の細い轆轤線
・緑と赤による交互の重ね菊(能登屋の特徴)
・二筆による赤い口元

次に両者の相違点に国雄の独自性を考える上でのヒントが隠されていると思われる。つまり、
・栄作の二側目と安次郎の一側目
 安次郎のこけしは蔵王高湯系には珍しく大寸でも一側目となっている
・栄作のたれ鼻と安次郎のねこ鼻
・木地形態
 安次郎の胴は細い

最後に柏倉勝郎作との比較から類推する。勝郎の初期作と考えられるのは武井武雄による『愛蔵こけし図譜』であり、昭和初期に作られたであろうこのこけしは描彩において深瀬国男の影響が色濃く残っていると考えられる。武井勝郎と上述した栄作と安次郎の共通点は
・緑の中剃りを伴うおかっぱ頭
・一側目
・たれ鼻
・上下の赤い轆轤線
・重ね菊と菊の中央に打たれる青点
・黄胴(『美と系譜』の安次郎作も黄胴)
にある。落合滝の木工所で近所の子供に挽いてあげたという深瀬国雄のこけしは蔵王高湯系能登屋のおかっぱ頭に一側目を描いたものであったと考えられるのである。

蛇足ながら、以下は国雄作にはなかったと思われる勝郎独自の要素
・黒の二筆に紅をさす口の様式
・菊の葉模様
 以上2点は或いは及位時代の佐藤文六の影響か
・鬢飾り(リボン)
 『木の花 第22号』では同じ酒田の白畑重治の影響が指摘されている
・胴のくびれ、首元の木地形態
 木地挽きした本間儀三郎の鳴子要素

3. 結び

以上考察してきたように、栄作と安次郎という師匠と孫弟子にあたる2工人から遺作の残されていない国雄のこけしのありし姿を想像することはこけしの伝承を考える上で大きな示唆に富むと思われる。さらにそこから雑系と呼ばれる柏倉勝郎への影響を見て取るとき、こけしの伝播という現象が目の前に広がる思いがする。

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024: 本間義勝 ②

現在、酒田市内の若葉旅館で販売されている本間義勝の酒田こけしは平成10年(1999年)に地元愛好家の要請により描彩のみ再開した言うならば復活作である。一方、休業前に義勝が製作したこけしはなかなか見かけない。

本間義勝2-1
本間義勝前期作

006: 本間義勝 ①」の項と一部重複するが、本間義勝は昭和24年(1949年)5月18日生まれ。『こけし全工人の栞』には「高校卒業后父本間久雄に師事して木地を修業して昭和59年頃からこけしを作りはじめて柏倉勝郎の系統を継いだ」と記されている。高校を卒業し木地修行を始めたが昭和43年(1968年)。昭和51年(1976年)、27歳の時に酒田大火に遭う。

『こけし全工人の栞』の記述は酒田大火後も昭和59年まで継続して木地挽きをしていたととれる。昭和56年(1981年)11月に発行された『山形のこけし』の本間久雄の項においても「長男義勝も木地を挽くが、現在のところこけしは作らない」とされており、酒田大火の影響については触れられていない。一方、kokeshi wiki には「昭和51年10月の酒田大火で自宅及び作業場を焼失、以後は以後は市内若浜町へ転居しサラリーマンとなった」とあり、他と少し食い違いが認められる。転業した時期に関しては尚検討の必要があるだろう。

それはさておき、3者ともに酒田大火以前、義勝が木地挽きをしていたという記述こそあれど、こけしを作っていたという記述はしていない。しかし個人的には、その時期に父久雄名義のこけしの下挽きをしていた可能性は否定できないように思う。後述するように久雄後期作と義勝作の作風があまりにも接近しているためである。手持ちの久雄作に「56.2.22」とメモ書きされたこけしがある。仮に下挽きをしていたとすると酒田大火以降も何らかの形で義勝は木地挽きを続けていたとも考えられる。さらにこけしを作りはじめたという昭和59年(1984年)は久雄が亡くなった年であり、或いは父亡き後、こけしの名義を本人のものにしたという見方もできるだろう。いずれにせよ、推測の域を脱しない。

休業以前の義勝作(仮に義勝前期作とする)は面描、色調、佇まいともに久雄の後期作と通じる。見分けをつけるのはなかなか難しい。頭髪の長さの違い、つまりおでこの広さあたりに差異があるのかもしれないが、それとて個体差の問題によるものである可能性も否定できない。

本間義勝2-3
久雄後期作と義勝作

重ね菊の花弁の枚数が、復活後(上写真の右端)は左6枚右4枚と非対称であったのに対し、前期(同右から2本目)は左右とも6枚ずつになっている。久雄の後期作(同左2本)をみると左6枚右4枚になっていることから花弁の枚数が左右対称となっているのはこの時期の義勝作の特徴なのかもしれない。但し、そのような視点で改めて「006: 本間義勝 ①」に掲載した3寸大の2本を見ると左右とも6枚となっており、このことは今後の検討課題としなくてはならない。

6寸の木地は久雄作と比べると首周辺の胴上部が細く、胴裾にかけてAラインを形成する。所謂、三角胴に近い。面描は鋭く、どこかツンとすました表情は復活後の後期作と並べてもそこに年代的変化は認められない。髷付き6寸は久雄作の後期型を6寸サイズに落とし込んだ様式で、胴中央の轆轤線を境とし上下に重ね菊を2輪ずつ配している。形態はややボッテリとしている印象を受ける。胴底に「63.6」のメモ書きがされている。義勝前期作の胴底は中期以降の久雄作と同様、通し鉋となっており、同じ製作手法によるものであることが伺える。

本間義勝2-2
義勝作の胴底(右端は他人木地による後期作)

昭和59年から休業までの義勝作は久雄後期作の延長線上にあり、木地形態には本人の工夫がみられるものの、師である久雄がその生涯をかけて確立した本間家による酒田こけしの型を忠実に継承していると考えられる。

しかし時は第2次こけしブーム終焉後。他の系統でさえ苦戦を強いられていたこけし界にとって冬の時代に雑系である酒田こけしが人気を得られたとはとても考えられず、残念ながら義勝のこけし作りは中断を余儀なくされるのである。その貴重な義勝作を求めた蒐集家は当時それほど多くはなかったことは想像に難くない。こけし製作期間が第二次こけしブームとちょうど重なる久雄作が割と中古市場に出回るのとはやはり対照的ではある。


023: 遠藤幸三

こけし収集の割と早い段階で遠藤幸三というこけし工人を知り、以来心の片隅で気に留めてきた。『木の花 第29号』に掲載された箕輪新一氏による「万屋 ー時代と周辺ー(中)」という記事がそもそものきっかけであったと思う。おかっぱ頭と甘い眼差しが印象的なこけしは蔵王高湯系の中でも自分好みのように思えたがその後特に入手に至る機会には恵まれてはこなかった。

2015年10月30日、高円寺で開催されたマイファーストこけしの会場で遠方よりいらしていたSさん他一行と収穫物を披露し談笑する機会があった。Sさんの入手されたこけしの中にこの遠藤幸三7寸があった。枯れた筆致による表情は頗る甘美で状態も良好。なかなか良いこけしを入手されたなと感心したが、聞けば東京こけし友の会が実施した一回300円のくじの景品であると言う。そして帰りの手荷物が増えて困るので私にもらってくれないかとおっしゃるではないか。或いは物欲しそうな目で見ていたのかもしれぬ。収集家の卑しき業かな。といいつつ厚かましくもお言葉に甘え頂いてしまった次第である。

遠藤幸三1-1

1. 文献

遠藤幸三についてまとめられた文献を整理してみる。

・こけし辞典 遠藤幸三の項(昭和46年初版)
・山形のこけし (昭和56年)
・木の花 第28号 矢田正生「戦後の幸三こけし」(昭和56年)
・木の花 第29号 箕輪新一「万屋 ー時代と周辺ー(中)」(昭和56年)
・こけし手帖 326号 四園楸「蔵王萬屋・最後の工人遠藤幸三」(昭和63年)

2. 歩み

蔵王高湯系は大きく、①能登屋、②三春屋(緑屋含む)、③万屋、④木地屋代助に分類される。能登屋であれば岡崎栄治郎、三春屋は斉藤松治、緑屋は斉藤源吉、万屋は我妻勝之助、木地屋代助は岡崎長次郎がそれぞれ中心的な重要工人として挙げられるだろう。他の店と違い万屋は当主が木地を挽かなかった。その為多くの職人が出入りすることになったがそのうちの一人が遠藤幸三であった。

遠藤幸三は明治44年(1911年)1月5日、山形市滝山村上桜田に生まれた。子供のいなかった万屋の後継ぎになる約束で大正10年、11歳の時に蔵王へ移った。昭和2年、17歳でその頃万屋の職人であった吉田仁一郎(よしだにいちろう:1899~1940)について木地挽きを習う。その後当主の藤助に子供が生まれたため後継ぎの話はなくなった。蔵王を後にした幸三は銀山を経て応召、復員後再び万屋の職人に。しかし昭和23年(1948年)に万屋が旅館に転業したのを機に山形市上山家に移り独立するも一年で木地挽きを休業して酒造店へ就職してしまった。

幸三が再びこけし作りを再開するのは昭和34年(1959年)、48歳の時。しばたはじめ氏と露木昶氏の働きかけによるもので、他人の挽いた木地に描彩だけを行った。描彩は昭和50年代まで続けられたが、『こけし手帖 326号』によると「昭和六十年以降は、残念ながらほとんどこけしを作っていない」状況であったという。遠藤幸三は平成3年(1991年)3月30日に老衰のため亡くなった。行年80歳。

3. こけし

『木の花 第28号』矢田正生による「戦後の幸三こけし」に年代変遷が写真入りで掲載されている。この記事を参考に今回入手した幸三作を探ってみたい。

先ず旭菊による胴模様であるが、一枚の花弁を二筆で描く様式は②の昭和35年10月作に近い。葉の形状も似ているように思われる。③以降は花弁が一筆で描かれているように見受けられる。木地形態を見てみると、面長の頭部も②に違いが、「頭の中剃りはない。旭菊の花弁は一番下を除いて左右三弁ずつである」という記述にこのこけしとの相違点が見受けられる。このこけしには緑の中剃りがある。鼻のそりがU字になる点は③の昭和37年7月作に近く、説明にある「この時期前後に中剃りのあるものも見られる」という記述と合致する。胴底の署名は「山形 遠藤 幸三」であり、⑦の昭和49年9月までという記述と一致する。以上のことから②(昭和35年10月)から③(昭和37年7月)の間に作られたものと推定できる。

『木の花 第28号』によると「<ガイド>には小林誠太郎木地との記載があるが、これはごく最初で、以後は大宮正安の木地が多い」とある。大宮正安は同じ蔵王高湯系、能登屋のこけし工人であり、この工人にも興味があるのでまた別の機会に取り上げようと考えている。

遠藤幸三1-2

さて、製作年の近い②の説明には「描彩も、復活時のような繊細な描き方ではなくて、訥々として筆太く、淳朴な描き方が好ましい。いわゆる上手なこけしではなく、むしろ粗筆と言えよう。普段上手のこけしを見慣れている目には、この幸三の描彩はなんともたよりないが、小さい猫鼻が目に寄って、小さく結んだ口の朴訥な雰囲気はなんともいえず好ましい。」とある。

『こけし古作図譜』や或いは実際に各地のこけし館で古品を見て思うのは面描における筆の揺れが得も言えぬ味わいを醸しているという点である。もちろん古品の中にも揺れひとつない面描のこけしは山とあるが、少なくとも自分の興味を惹くのはどうもそういった筆の揺れのあるこけしなのである。現代のこけしの面描は得てして均整が取れ過ぎてこの揺れが感じられるものが少ないようにも思われる。執筆者矢田氏のいうところの「上手のこけし」ということであろう。ヤフオクで夜な夜な高値で取引される古品こけしにあって現代のこけしにないもの、それを考えるとこの一世紀の間に失われてきたものが何であるかは自ずと見えてくるような気もするのであるが。

たどたどしい面描に深い味わいを漂わす良作をお譲りいただいたSさんに改めて感謝申し上げます。

022: 柏倉勝郎 ③

2015年の4月1日にヤフオクのひやね出品から落札したおぼちゃ園にとって初めての柏倉勝郎作である。

柏倉勝郎2-1


黒光りするこけしは年代推定が至難とされる。この状態のこけしは普段なら手を出す対象とならないが、偏愛する柏倉勝郎のこけしということに加えて、胴底に「二八.一二.一二 名和氏ヨリ」という覚書がされていることに惹かれて落手に至った。

写真を見れば分かる通り、飴色になった木地は赤の判別もままならない。一体どう保管したらこうなるのか。蒐集家の保管の仕方によって何百万という値段もつけば見向きもされないような木片ともなり得る。こけしの運命は全て蒐集家の手に委ねられている。せめて拙蔵となったこけし達はこのような運命を辿らないようにしていきたいものである。

話が逸れた。

柏倉勝郎2-2

大きさは7寸。頭部はゆるい嵌め込み。4段の重ね菊の花弁には筆致の強弱がある。肩はそれほど高くなく、頭部と接する辺りで急激にすぼむ。表情静寂、上瞼に沿って眼点が打たれる。

ここで胴底の覚書にある「名和氏」に触れておく必要があるかもしれない。名和姓の蒐集家というと京都の名和昌夫氏、そして東京の名和好子・明行夫妻が挙げられる。

まず名和昌夫氏。『こけし手帖 4号』の「こけし蒐集アンケート(5)」によると蒐集を始めたのは昭和26年。「當時仙台駐在となつたのを機会に東北独特のものを何か一つ研究しようと思いこけしを取り上げた」とあり、昭和30年時点で600本ほどを所有していたと回答している。『こけし手帖 13号』には「山形追想」という題で小林清蔵、小林吉三郎、石沢角四郎の家を訪ねた際の思い出を綴っている。文末に昭和27年から28年にかけての話と記されており、氏が仙台を拠点として蒐集された時期は覚書の年に重なる。

もう一方の名和好子・明行夫妻。両氏の所蔵品は名和コレクションとしても有名で戦後の著名な蒐集家として知られている。『こけし辞典』にも「名和コレクション」の項があり、

昭和二五年ころより亡夫明行氏と共に収集、当時信濃町にあって、西田、土橋、鹿間、武田、溝口、山田、牧野、稲垣、佐藤諸氏集まり、カスミ会談合の場所となったころより物量的白熱的に集め、二八年赤坂田町に移転、名和総合美容研究所となるに及び、その一階にこけしの部屋が出来、二階で東京こけし友の会が発会された。両氏は同会生みの親であり友の会初期の庶務会計に参加した。

とある。『こけし手帖 2号』の「こけし蒐集アンケート(3)」の名和和子氏の回答によると昭和30年時点での所有本数は「わからない 家族のある者は三千本と言いあるものは二千本と言い 又千五百本と言い頭痛のたね」であったとのこと。わずか5年ほどで数千本を蒐集するというのは相当の白熱振りをもってしないと達成できることではない。美容家であった名和好子氏は全国を飛び回る中、出張する際に日程を一日延ばしてこけし行脚をしていったという。或いは酒田への出張ついでにこのこけしを入手し、その後増え過ぎた所蔵品整理のため他人へ譲渡したという可能性も充分に考えられるが本当のところは分からない。胴底の覚書の時期はやはり両夫妻の蒐集白熱時代とも合致する。

名和昌夫氏、名和好子・明行夫妻。いずれにしても戦後の有名な蒐集家の旧蔵品であることは間違いないことである。

『こけし手帖 339号』川上克剛氏による「異才・柏倉勝郎こけしの魅力」によると勝郎は戦中から途絶えていたこけし作りを昭和26年頃から再開したとされる。つまり昭和26〜28年頃に製作された新作を名和氏が入手し、知り合いにわけたと考えても不自然なところはない。ただし可能性としては、昭和26年以前の戦前作を入手していたということも考えられるが『こけし手帖 339号』に掲載された10本と照らし合わせると、重ね菊の花弁や全体の佇まい等から戦後の復活作の作風に近いように思われるのである。

名和夫妻による名和コレクションは後に『美しきこけしー名和好子こけしコレクション図譜』という写真集になり、現在は遠刈田系なら蔵王こけし館、鳴子系なら日本こけし館という具合にそれぞれの生まれた土地のこけし館に分割して寄贈されている。2014年の11月に遠刈田の蔵王こけし館で寄贈されている名和コレクションの名品に心打たれた経緯は菅原敏の項で既に触れた。その名蒐集家の旧蔵品(正確にはその可能性もあるこけし)ということもあり、入手に執念を燃やしたという次第。

柏倉勝郎2-3

保存状態も良くはない上、必ずしも名品というわけでもないが、今にしてみるとこのこけしの入手は今後のこけし蒐集に対するある種の決意表明であったように思う。このような古作は天下の回りものである。かつて名和氏の手の中に収められたであろうこのこけしが、知人の手に渡り、巡り巡ってひやねのネットオークションに出品され、こうしておぼちゃ園の所蔵となった。このこけしにはそれだけの歴史があり、今度は私がその歴史を語る役目を仰せつかっているだけに過ぎないのかもしれない。

その状態如何に関わらずおぼちゃ園蒐集品の中でも特別な一本である。

過去の本間久雄関連記事
016: 柏倉勝郎 ②
004: 柏倉勝郎 ①

021: 大沼昇治 ①

遠刈田系のこけし工人、佐藤茂吉が気になり出したのはいつの頃からだっただろうか。高橋五郎氏の『癒しの微笑み』に掲載されているおかっぱ頭がきっかけだったかもしれないし、或いは遠刈田系梅こけしを製作していた大沼昇治の系列工人として調べていく過程からだったかもしれない。いずれにしても、その特異な表情と胴模様に得も言えぬ魔力を感じたのは確かだ。

佐藤茂吉は万延元年(1860年)11月23日生まれ。蒐集家に頼まれて養子の円吉が挽いた木地に絵付けをした昭和14年(1939年)頃には既に80歳になろうという齢であったというからその時点で古い遠刈田を語り伝えることのできる貴重な老工人であったことが伺える。茂吉老の残したこけしの描彩は遠刈田系の様式が確立された黎明期の紋様を現在に伝えているとされ貴重な資料となっている。茂吉の系列は養子・円吉、円吉の婿・治郎、治郎の弟子・大沼昇治と続いたが、残念ながら昇治の亡き後その後継者は途絶えてしまった。

現在「茂吉型」というと弥治郎系の型という印象が強い。佐藤春二、井上四郎、ゆき子、はる美、新山慶美、純一ら佐藤幸太の系列工人が手がけ広く流布しているが、これは青根時代に弥治郎系の佐藤幸太が茂吉に弟子入りしたことに由来する。一方、本家である遠刈田系の茂吉型はというと、大沼昇治が昭和の終わり頃に取り組んだということが『こけし手帖 341号』の阿部弘一氏による記事にて写真入りで紹介されているものの、円吉ならびに治郎が茂吉型を残したという記録は見当たらない。

2015年11月、注目すれどもなかなか中古市場に出回ることなかった大沼昇治による茂吉型が出品された。大変な競り合いになるかと固唾を飲みつつ応札したが、他に入札者なくあっさり落札できてしまった。固唾の飲み損である。遠刈田の古層ともいうべき茂吉型が注目されていないことは私としてはまったく意外なことであった。

落札した8寸2種はともに昭和58年(1983年)2月の作。前述『こけし手帖 341号』掲載品は平成元年(1989年)の作であるからそれよりも6年程前の作ということになる。

大沼昇治1-1

左のこけしは『こけしの美』にカラー掲載されている西田峯吉旧蔵8寸3分を「原」とするもの。注目すべきは独特な頭髪にあるだろう。緑と赤の点で装飾された前髪が頭髪から独立した様式は他に類を見ない。胴底には署名がなく、鉛筆で「大沼昇治 S58.2.18」とメモ書きされている。

右のこけしは伊勢こけし会の定期頒布品。『こけし事典』に掲載されている8寸2分5厘が「原」と思われるがこれもやはり西田峯吉旧蔵品である。同じこけしが平凡社カラー新書の『こけしの旅』にカラーで掲載されている。カラー版と見比べると胴上下の轆轤線の色が逆であることが分かる。つまり「原」では2本の太線が緑色でその太線の間に引かれる3本の細線が赤なのであるが、このこけしではそれが反対になっている。白黒の写真から写したものなのかもしれない。左のこけし同様、前髪が頭髪から独立している点の他、縦並びに2列配置された胴模様も珍しく、見所は多い。

茂吉の描く面描の表情変化は非常に大きい。茂吉の描く二側目の特徴は概して湾曲の小ささと上下瞼の間隔の狭さ、そして左右の目の非対称性にあると言えるだろう。面描の筆致はたどたどしくそれが枯渇の味につながっている。目の位置は顔の中央よりもやや上よりで顔の下部にできた余白がふっくらと優美な印象をもたらす。

一方、昇治の茂吉型は茂吉こけしのもつ細かな変化を整理し、本人なりに消化した昇治茂吉型というべきものに仕上がっている。「原」が醸す揺れる筆によるあの枯れた味わいというものは皆無であるが、大胆につり上げられた眉と目尻がなんともいえぬ迫力を生み出している。弥治郎系に残る茂吉型とは一線を期す辛口なこけしで、同じく弥治郎系の佐藤伝内に通じていくようなある種のグロテスクさを内包しているようにも感じる。

師である佐藤治郎風のこけしから出発して円吉型、孝之助型とレパートリーを広げてきた大沼昇治にとり、茂吉型は活動後期における新しい取り組みであった。しかし昇治は平成10年(1998年)に亡くなってしまったため、茂吉型自体の製作年数は十数年に満たない。従って円吉型や梅こけしと比べると流通量ははるかに少ないと思われる。大元である佐藤茂吉の遺作自体も数少なく、その型を継いだ工人も早くに亡くなってしまったのが原因なのであろうか、茂吉のこけしに対する注目度は低くどちらかというと渋いこけしと片付けられているように思われる。もし昇治が存命で茂吉型を作り続けていてくれたらと考えると残念なことであるが、こうして記事としてまとめることにより佐藤茂吉と昇治茂吉型に対し少しでも関心が集まればと思う。