027: 我妻信雄 ②
大沼昇治のこけしとともに我妻信雄のこけしがまとまって出品されたことは「003: 我妻信雄 ①」の項で既に述べた。受動的な入手経緯とはいえ落手したこけし群を眺めていると、その鋭い筆致の面描は耽美な魅力に溢れているように思われ我妻信雄のこけしはネットオークションの出品の中でも特に留意すべき対象となっていった。そのような状況で出品された信雄作8寸は注目すべき特徴を多分に備えたものであった。お椀型の黒髪に独特な鬢飾り、垂れ鼻、胴の上下に引かれた紫の轆轤線に特徴的な重ね菊。佐藤茂吉に通じる古い遠刈田の様式にように思われたが、詳しい事は判然としなかった。

『こけし千夜一夜物語』の第14夜、第898夜等に我妻信雄のことが書かれていたことを思い出し、2015年6月20日、西荻窪イトチで行われたトークイベントの折に筆者の国府田恵一氏にこのこけしのことを尋ねてみた。それによると、①小原直治の作といわれたこげすにこのような鼻と鬢の様式のものがあり、一時期信雄もつくっていた。このこけしはそのえじこの様式をこけしに応用したものと思われる。②後に高橋五郎氏によってそのこげすは小原直治作ではなく佐藤治平のものと究明されたこともあり作られなくなった、ということであった。国府田氏は3回にわたり『こけし手帖』に信雄の変遷についての記事を執筆されている。(521~523号)
一般的な遠刈田の様式とは趣を異にするこのこけしには、古い青根を思わせる面白みがあるし、こけしそれ自体の意匠が完成された美を有しているようにも思われる。面描は以前入手した一連のこけし群にも増して研ぎすまされ、鋭い。信雄というこけし工人に対する評価が更に高まるとともに、小原直治、佐藤治平という遠刈田系の名工に対しても興味が湧くきっかけをもたらした一本となった。
その黒髪8寸と同じ出品者が似たような垂れ鼻のこげすを出品されたのはそれからしばらく経ってからのことである。これが国府田氏のおっしゃっていた直治もとい治平の写しである事は一目見て想像がついた。大きさは7寸。鬢飾りはまったく同じ様式。頭頂は手絡が描かれ、胴には上部のみに紫の轆轤線が引かれその上に衿と枝梅模様があしらわれている。前述した『こけし手帖 522号』に昭和53年6月作として同手のこげすが写真掲載されており(⑰)、「『こけし這子の話』に掲載されていた『直治こけし』(註:とされていたもの)の忠実な写しである」と説明されている。なお『こけし千夜一夜物語』第89夜にも同こげすの記事が載っているのでご参照のこと。
後日、高橋五郎氏の『佐藤治平と新地の木地屋たち』という本を入手した。ここで『こけし辞典』と併せて佐藤治平という木地師についてまとめると、治平は明治16年11月11日遠刈田新地に木地業・佐藤菊治の三男として生まれた。尋常小学校卒業後、青根丹野工場で職人をしていた兄重松につき木地修行。翌年兄とともに新地へ引き上げたわけであるがその後明治35年に再び青根に赴き小原直治の工場で働いている。つまり治平と直治は接点がなかったわけではないということになる。明治36年〜39年まで徴兵。除隊後は吉田畯治の木工所、北岡商店専属の職人となるが悪名高い「仕送り制度」に縛られ生活は困窮したという(以上「新地時代」)。大正2年〜8年まで秋保村立職業学校で木地教師を務める(「秋保の木地教師時代」)。その後遠刈田に戻ると大正10年新しく出来た北岡木工所の職人となる(「新地・北岡時代」)。昭和5年、不況の影響で木地業をやめ昭和19年まで営林署に務めた。この間、第一次こけしブームが起こり昭和14年頃から蒐集家の求めに応じて佐藤円吉の挽いた木地に描彩をしている(「営林署時代」)。退職後は五男喜平、七男正男を弟子としつつ自宅の足踏み轆轤で木地挽きをした(「木地挽き復帰時代」)。昭和27年8月1日没。享年70歳。
『佐藤治平と新地の木地屋たち』の表紙写真に使われているのが今回入手したこげすの「原」となったものである。口絵のカラー写真と比べると「原」は梅花の芯が墨で描かれていることから写しは白黒写真で行われたと推測される。同書の説明によると「原」となったこげすは「天江氏が大正十年に遠刈田の北岡商店で、明治初年につくられた新地古形こけしとして、前にも書いたように、豊治のこけしといっしょに求めたもので、『こけし這子の話』の図版に掲載されたものである」ということである。「新地・北岡時代」に作られた明治古型の写しというところだろうか。さらに側面の写真とともに「胴下部や背部にまで、一杯の笹竹と松葉のようなものが描かれている」と説明されているが、手元のこげすにそれは描かれていない。このことからも写真による写しの依頼に応じたものであったことが窺える。
前掲した『こけし手帖 522号』では「これまで信雄さんは小原直治のこけしをベースにはしているものの、全くの写しは作っていなかった。それはあくまで自分のこけしを作るという信念があったからであろう。そんな信雄さんでも復元ブームという風潮による周囲からの働きかけに抗するのは難しかったのであろう。恐らく写しの製作も自身のこけしを作り上げるための一里塚と割り切って考えたのであろう」と続く。当時の経緯はどうだったにしろ、治平型を作る工人の途絶えた現在からすれば第2次こけしブームの新鋭工人がその最も脂の乗り切った時期にこの「新地古形こけし」を手がけてくれたことは何よりも幸運なことであったとただただ想い至る次第である。

『こけし千夜一夜物語』の第14夜、第898夜等に我妻信雄のことが書かれていたことを思い出し、2015年6月20日、西荻窪イトチで行われたトークイベントの折に筆者の国府田恵一氏にこのこけしのことを尋ねてみた。それによると、①小原直治の作といわれたこげすにこのような鼻と鬢の様式のものがあり、一時期信雄もつくっていた。このこけしはそのえじこの様式をこけしに応用したものと思われる。②後に高橋五郎氏によってそのこげすは小原直治作ではなく佐藤治平のものと究明されたこともあり作られなくなった、ということであった。国府田氏は3回にわたり『こけし手帖』に信雄の変遷についての記事を執筆されている。(521~523号)
一般的な遠刈田の様式とは趣を異にするこのこけしには、古い青根を思わせる面白みがあるし、こけしそれ自体の意匠が完成された美を有しているようにも思われる。面描は以前入手した一連のこけし群にも増して研ぎすまされ、鋭い。信雄というこけし工人に対する評価が更に高まるとともに、小原直治、佐藤治平という遠刈田系の名工に対しても興味が湧くきっかけをもたらした一本となった。
その黒髪8寸と同じ出品者が似たような垂れ鼻のこげすを出品されたのはそれからしばらく経ってからのことである。これが国府田氏のおっしゃっていた直治もとい治平の写しである事は一目見て想像がついた。大きさは7寸。鬢飾りはまったく同じ様式。頭頂は手絡が描かれ、胴には上部のみに紫の轆轤線が引かれその上に衿と枝梅模様があしらわれている。前述した『こけし手帖 522号』に昭和53年6月作として同手のこげすが写真掲載されており(⑰)、「『こけし這子の話』に掲載されていた『直治こけし』(註:とされていたもの)の忠実な写しである」と説明されている。なお『こけし千夜一夜物語』第89夜にも同こげすの記事が載っているのでご参照のこと。
後日、高橋五郎氏の『佐藤治平と新地の木地屋たち』という本を入手した。ここで『こけし辞典』と併せて佐藤治平という木地師についてまとめると、治平は明治16年11月11日遠刈田新地に木地業・佐藤菊治の三男として生まれた。尋常小学校卒業後、青根丹野工場で職人をしていた兄重松につき木地修行。翌年兄とともに新地へ引き上げたわけであるがその後明治35年に再び青根に赴き小原直治の工場で働いている。つまり治平と直治は接点がなかったわけではないということになる。明治36年〜39年まで徴兵。除隊後は吉田畯治の木工所、北岡商店専属の職人となるが悪名高い「仕送り制度」に縛られ生活は困窮したという(以上「新地時代」)。大正2年〜8年まで秋保村立職業学校で木地教師を務める(「秋保の木地教師時代」)。その後遠刈田に戻ると大正10年新しく出来た北岡木工所の職人となる(「新地・北岡時代」)。昭和5年、不況の影響で木地業をやめ昭和19年まで営林署に務めた。この間、第一次こけしブームが起こり昭和14年頃から蒐集家の求めに応じて佐藤円吉の挽いた木地に描彩をしている(「営林署時代」)。退職後は五男喜平、七男正男を弟子としつつ自宅の足踏み轆轤で木地挽きをした(「木地挽き復帰時代」)。昭和27年8月1日没。享年70歳。
『佐藤治平と新地の木地屋たち』の表紙写真に使われているのが今回入手したこげすの「原」となったものである。口絵のカラー写真と比べると「原」は梅花の芯が墨で描かれていることから写しは白黒写真で行われたと推測される。同書の説明によると「原」となったこげすは「天江氏が大正十年に遠刈田の北岡商店で、明治初年につくられた新地古形こけしとして、前にも書いたように、豊治のこけしといっしょに求めたもので、『こけし這子の話』の図版に掲載されたものである」ということである。「新地・北岡時代」に作られた明治古型の写しというところだろうか。さらに側面の写真とともに「胴下部や背部にまで、一杯の笹竹と松葉のようなものが描かれている」と説明されているが、手元のこげすにそれは描かれていない。このことからも写真による写しの依頼に応じたものであったことが窺える。
前掲した『こけし手帖 522号』では「これまで信雄さんは小原直治のこけしをベースにはしているものの、全くの写しは作っていなかった。それはあくまで自分のこけしを作るという信念があったからであろう。そんな信雄さんでも復元ブームという風潮による周囲からの働きかけに抗するのは難しかったのであろう。恐らく写しの製作も自身のこけしを作り上げるための一里塚と割り切って考えたのであろう」と続く。当時の経緯はどうだったにしろ、治平型を作る工人の途絶えた現在からすれば第2次こけしブームの新鋭工人がその最も脂の乗り切った時期にこの「新地古形こけし」を手がけてくれたことは何よりも幸運なことであったとただただ想い至る次第である。
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026: 山尾昭
先日ヤフオクで遠刈田系の8寸良作が大量に出品された。いくつか収集対象としている型がありその中でも特に心惹かれた一本を落札することが出来た。山尾昭工人による古い秋保こけしの写しである。大きさは8寸ちょうど。極端に大きい頭部、濃い染料による重厚な色彩、はりのある表情、古風で雅な佇まいの堂々たる逸品であることは出品画像からでもはっきりと伝わってきた。手元に届いたこけしを手に取り、眺める時のこの満足感は表現しがたい。ずっしりと重い量感、特異なフォルムにも関わらず、醸し出される気品。

出品者の商品説明によると平成13年(2001年)2月の作で「天江コレクションの菅原庄七古作を元に作られました」とのこと。胴の裏に「第85回伊勢こけし会定期頒布」のシールが貼られており、胴底には鉛筆で「13-2」のメモ書きがある。このこけしの出品画像を見て真っ先に思い浮かんだのは武井武雄『愛蔵こけし図譜』に掲載されている1尺7寸5分だった。鹿間時夫の『こけし鑑賞』の菅原庄七の項によると「『愛蔵図譜』の尺7寸5分(53.0cm)は一大傑作であって、甘美派の五指に入るものであろうが、惜しくも焼けた。昭和2年頃のものかとされる。(中略)武井庄七は天江氏より行ったもの。『這子の話』の庄七大寸物もほぼ匹敵するが眼点中央によらず幾分散漫の気味がある」とある。『こけし這子の話』が手元にないため文中の「庄七大寸物」は未確認であるが落手したこけしを『愛蔵こけし図譜』の庄七こけしと見比べると木地形態、描彩とも意匠がまったく同じであり、昭和初期の秋保こけしの忠実な写しであることが分かる。「原」となるこけしの魅力もさることながら、そのエッセンスを引き出し8寸大に表現した工人の技量も特筆すべきだろう。

天江庄七写しを入手後それほど間を空けずに別の出品者からまたしても山尾昭のこけしが出された。大きさは8寸2分。小振りな頭部と長めの胴ですらっとした木地形態。胴裾の水流れと頭部の節があるものの全体としての保存状態は良好である。目の周りに薄く紅が入れられ古流な秋保の様式が再現されており、胴の裏にはやはり「第83回伊勢こけし会定期頒布」のシールが貼られている。伊勢こけし会、おそるべし。寡聞にしてこのこけしが何を「原」としているかは判明させることができていないが、おそらく菅原庄七か山尾武治の古作であろうと思われる。署名に敢えて「二代目」と記していることを考えると武治の写しであるとも考えられなくもない。いずれにせよ古式ゆかしい佇まいではある。
山尾昭に関する文献は多くない。『こけし手帖』の目録で関連する記述を探したが見つけることはできなかった。『こけし辞典』の記述もごく短い。山尾昭は昭和2年(1927年)3月30日に山尾武治の長男として生まれた。『伝統こけし最新工人録』によると「昭和25年(1950年)頃に木地修業をはじめ、こけしを製作している」とあり、顔写真とともに本人作のこけしが2本掲載されている。左のこけしをよく見ると『愛蔵こけし図譜』22版に載っている「作者未詳」の復元作であることが分かる。優れた古作復元者である山尾昭にはまったく最大限の敬意を表さなくてはならない。それにしてもこのように大変価値があり且つ質の高い写しを手がけているにも関わらず、過去この工人が話題に上がることがなかったように見受けられるのは何故であろう。不思議に思う。工人は2016年1月16日現在で88歳。「こけし千夜一夜物語」第739夜(2012年7月)には「山尾家は現在こけしを作っていないとの返事があり」という記述が見られる。息子・山尾広昭とともに休業してしまったことが伺え残念な限りである。
山尾昭というと『こけし時代』作並秋保特集号でみられるような父・山尾武治晩年の甘いこけしを継承している工人という印象が強く、恥ずかしながら今回の落札に至るまで秋保古型の写しを手がけているということを知らなかった。それ故にこれらの写しには目を見張るものであったわけであるが、今回の秋保こけしに限らず誰がどういう写しを手がけているかという情報はまだまだ足りない。えてして『こけし辞典』が刊行された昭和46年以降、第2次こけしブームの頃に活動した工人に関する記録は、一部の人気工人を除き少ないといわざるを得ない。過去数十年、愛好家はこけしの収集には限りのない情熱を傾けこそすれ、こけし工人とそのこけしに関する記録を残すことにかけてはいささか無関心であったのかもしれない。現在つき合いのある工人について記録を残しておくことは全ての愛好家のなすべきことであると思う。天江富弥、武井武雄、深澤要、橘文策、鹿間時夫、西田峯吉といった先人達がこけしに関する聞き取りや研究の成果を書き残してくれた事が現在のこけし界の礎となっている。何もこけしの根源に関わる目新しい情報や新発見だけが記録として残す価値のある内容ではない。ひとりひとりの工人の足跡とそのこけしの変遷もまた、今後のこけし界の発展へと繋がるかけがえのない資料となるはずである。当ブログの意義もそこにあるのではないかと思う。しかし一愛好家のカバーできる範囲など限られている。願わくば、ひとりひとりの愛好家が知り得た事をそれぞれがまとめていければこけしを取り巻く環境はより充実したものとなるのではないだろうか。

出品者の商品説明によると平成13年(2001年)2月の作で「天江コレクションの菅原庄七古作を元に作られました」とのこと。胴の裏に「第85回伊勢こけし会定期頒布」のシールが貼られており、胴底には鉛筆で「13-2」のメモ書きがある。このこけしの出品画像を見て真っ先に思い浮かんだのは武井武雄『愛蔵こけし図譜』に掲載されている1尺7寸5分だった。鹿間時夫の『こけし鑑賞』の菅原庄七の項によると「『愛蔵図譜』の尺7寸5分(53.0cm)は一大傑作であって、甘美派の五指に入るものであろうが、惜しくも焼けた。昭和2年頃のものかとされる。(中略)武井庄七は天江氏より行ったもの。『這子の話』の庄七大寸物もほぼ匹敵するが眼点中央によらず幾分散漫の気味がある」とある。『こけし這子の話』が手元にないため文中の「庄七大寸物」は未確認であるが落手したこけしを『愛蔵こけし図譜』の庄七こけしと見比べると木地形態、描彩とも意匠がまったく同じであり、昭和初期の秋保こけしの忠実な写しであることが分かる。「原」となるこけしの魅力もさることながら、そのエッセンスを引き出し8寸大に表現した工人の技量も特筆すべきだろう。

天江庄七写しを入手後それほど間を空けずに別の出品者からまたしても山尾昭のこけしが出された。大きさは8寸2分。小振りな頭部と長めの胴ですらっとした木地形態。胴裾の水流れと頭部の節があるものの全体としての保存状態は良好である。目の周りに薄く紅が入れられ古流な秋保の様式が再現されており、胴の裏にはやはり「第83回伊勢こけし会定期頒布」のシールが貼られている。伊勢こけし会、おそるべし。寡聞にしてこのこけしが何を「原」としているかは判明させることができていないが、おそらく菅原庄七か山尾武治の古作であろうと思われる。署名に敢えて「二代目」と記していることを考えると武治の写しであるとも考えられなくもない。いずれにせよ古式ゆかしい佇まいではある。
山尾昭に関する文献は多くない。『こけし手帖』の目録で関連する記述を探したが見つけることはできなかった。『こけし辞典』の記述もごく短い。山尾昭は昭和2年(1927年)3月30日に山尾武治の長男として生まれた。『伝統こけし最新工人録』によると「昭和25年(1950年)頃に木地修業をはじめ、こけしを製作している」とあり、顔写真とともに本人作のこけしが2本掲載されている。左のこけしをよく見ると『愛蔵こけし図譜』22版に載っている「作者未詳」の復元作であることが分かる。優れた古作復元者である山尾昭にはまったく最大限の敬意を表さなくてはならない。それにしてもこのように大変価値があり且つ質の高い写しを手がけているにも関わらず、過去この工人が話題に上がることがなかったように見受けられるのは何故であろう。不思議に思う。工人は2016年1月16日現在で88歳。「こけし千夜一夜物語」第739夜(2012年7月)には「山尾家は現在こけしを作っていないとの返事があり」という記述が見られる。息子・山尾広昭とともに休業してしまったことが伺え残念な限りである。
山尾昭というと『こけし時代』作並秋保特集号でみられるような父・山尾武治晩年の甘いこけしを継承している工人という印象が強く、恥ずかしながら今回の落札に至るまで秋保古型の写しを手がけているということを知らなかった。それ故にこれらの写しには目を見張るものであったわけであるが、今回の秋保こけしに限らず誰がどういう写しを手がけているかという情報はまだまだ足りない。えてして『こけし辞典』が刊行された昭和46年以降、第2次こけしブームの頃に活動した工人に関する記録は、一部の人気工人を除き少ないといわざるを得ない。過去数十年、愛好家はこけしの収集には限りのない情熱を傾けこそすれ、こけし工人とそのこけしに関する記録を残すことにかけてはいささか無関心であったのかもしれない。現在つき合いのある工人について記録を残しておくことは全ての愛好家のなすべきことであると思う。天江富弥、武井武雄、深澤要、橘文策、鹿間時夫、西田峯吉といった先人達がこけしに関する聞き取りや研究の成果を書き残してくれた事が現在のこけし界の礎となっている。何もこけしの根源に関わる目新しい情報や新発見だけが記録として残す価値のある内容ではない。ひとりひとりの工人の足跡とそのこけしの変遷もまた、今後のこけし界の発展へと繋がるかけがえのない資料となるはずである。当ブログの意義もそこにあるのではないかと思う。しかし一愛好家のカバーできる範囲など限られている。願わくば、ひとりひとりの愛好家が知り得た事をそれぞれがまとめていければこけしを取り巻く環境はより充実したものとなるのではないだろうか。
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