033: 佐藤一夫
蔵王こけし館の名和コレクション見学はこけし収集の大きな転機であった。同コレクションの佐藤巳之吉のこげすは、佐藤三蔵のこけしとともに深く印象に残り、その後の収集の方向性を決定付けたように思う。良質なこけしの鑑賞は収集を発展させる。

佐藤巳之吉は明治26年(1893年)に遠刈田新地に生まれた。明治40年(1907年)に佐藤吉郎平に弟子入りし木地挽きを修業した。『こけし辞典』にあたってみるとこの巳之吉という人は各地を転々とする工人であったようで、ざっと見ても神戸、蔵王高湯、北海道奥尻、仙台、米沢、名古屋、静岡県磐田と渡り歩いている。こけしを製作したのは、修業後に北岡木工所で働いた大正末から昭和初めにかけての第一期遠刈田時代、仙台から帰郷し再び北岡木工所で働いた昭和10年(1935年)からの第二期遠刈田時代、そして米沢に移った昭和12年(1937年)〜昭和15年(1940年)頃の米沢時代の三期であるという。名和コレクションの巳之吉こけしは『美しきこけしー名和和子こけしコレクション図譜』によると昭和13〜14年頃の米沢時代の作ということになる。巳之吉は昭和31年(1956年)8月5日に磐田で亡くなった。
その巳之吉型を継承したのが甥にあたる佐藤米蔵。米蔵は明治42年(1909年)11月22日、木地師佐藤春吉の長男として新地に生まれた。高等小学校卒業後は木地業に就かず東京京橋に出て働く。二度の応召を経て昭和20年(1945年)帰郷した。昭和30年(1955年)頃より新型の木地挽きをはじめ、昭和39年(1964年)より旧型こけしの製作を手掛けるようになった。叔父・巳之吉の写しを始めたのは昭和43年(1968年)から。『こけし辞典』には昭和45年(1970年)3月の作が掲載されている。昭和56年(1981年)3月7日没。行年72歳。
米蔵によって継承された巳之吉型は長男・一夫に受け継がれている。佐藤一夫は昭和11年(1936年)1月1日、横浜市鶴見区で生まれた。第二次大戦が激化すると父の生地である遠刈田新地へと疎開。同地で少年時代を過ごす。昭和26年(1951年)3月、15歳で佐藤守正に師事し木地挽きを修業。朝倉栄次や父のもとで新型こけしの木地挽きをしていたが、紆余曲折を経て一時木地挽きより離れる。昭和53年(1978年)から昭和55年(1980年)にかけて父・米蔵より描彩の指導を受ける。伝統こけしの製作を始めたのは米蔵が逝去した昭和56年(1981年)の4月12日から。工人45歳の時である。この当時の状況は『こけし手帖289号』高橋利夫氏による「巳之吉を継ぐ遠刈田系工人・佐藤一夫」の記事に詳しい。それによると巳之吉型に着手したのは昭和58年(1983年)からであるという。翌年、遠刈田新地に「木偶之房(でくのぼう)」を開業。昭和60年(1985年)には再び佐藤守正に描彩を習っている。現在80歳。

最初に入手した巳之吉型は7寸5分。『こけし 美と系譜』『こけし古作図譜』に掲載されている中屋惣舜氏旧蔵の写しであると思われる。「原」は正末昭初の大傑作といわれるものであるが、この写しは切れ長の大きな三日月目や大振りな重ね菊、角張った大頭の木地形態など、その雰囲気をよく捉えた快作であると思う。ロー引きされていない木地に濃厚な染料が染み入る様は渋く、格別の味わいがある。重ね菊の葉は、草書体の「原」とは対照的に様式された描法で整然と並ぶ。細かいマンサク模様のこけしを描き上げる一夫の本領のように思われる。

高幡不動の茶房たんたん(現・楽語舎)で入手した6寸4分は、植木昭夫氏所蔵の昭和15年作の写し。米沢時代末の作で『愛こけし』に掲載されている。小さめの頭に長めの胴がつくすっきりとした木地形態。『こけし手帖289号』によると、昭和59年(1984年)に取り組み始め、同年4月には東京こけし友の会より頒布されたとのこと。真っ直ぐ前を見据える写しに対し、「原」は視線向って左上に流れ、目は左目が思い切って上がる。こうしてみると巳之吉という工人は案外おおらかに筆を運ぶ人だったのかもしれない。残るこけしの変化も大きい。なお、この写しの胴裾には鉋溝が2本入れられているが、2015年秋の山河之響の会の折ご本人に確認したところ、これは本人による工夫で入れたものであるということであった。

3本目となる巳之吉型は北鎌倉おもとで求めた7分5分。店主の話では巳之吉型ということであったし表情もそれらしいものであったが、それまでの2本のように「巳之吉型」という表記はなく、また梅花をあしらったような胴模様も見慣れないもので少し引っ掛かるこけしではあった。これもご本人に確認したところ、「原」となったのは鈴木鼓堂氏旧蔵品で『こけし辞典』でも確認できる昭和初期作。「原」の胴模様は他の巳之吉こけしと同様の重ね菊であるが、こちらのこけしの衿と梅花はやはり本人の工夫によるものということだった。胴一杯に描かれた不揃いの梅花はしかし古風な佇まいを醸し、もしかしたら巳之吉もこのような胴模様を描いていたのかもしれないと想像を巡らせるに足る面白さがある。古くからの型に学び、そこに一工夫を加えることで新たな発展をもたらすという伝統におけるひとつの理想型をここに垣間みる思いがする。自らが継承した型をおざなりにしてはいけないし、しかし同時にその型に固執してもいけない。型と伝統性について考えさせる示唆に富んだ良作であると思う。

前述、山河之響の会で入手した6寸3分は高橋五郎氏所蔵品の写し。手持ちの資料では三春町歴史民俗資料館による企画展「幻想のこけし」展の図録に「原」を確認できる。一本目にみられたような渋みはないが、明朗な雰囲気に溢れ、長年巳之吉型に取り組んできただけあって手慣れた軽やかさがある。
一夫工人は現在までに10種類の巳之吉型を手掛けてきており、木偶之房にはその見本があるという。冒頭に述べた名和コレクションのこげす型は作ったことがないとのことである。(敬称略)

佐藤巳之吉は明治26年(1893年)に遠刈田新地に生まれた。明治40年(1907年)に佐藤吉郎平に弟子入りし木地挽きを修業した。『こけし辞典』にあたってみるとこの巳之吉という人は各地を転々とする工人であったようで、ざっと見ても神戸、蔵王高湯、北海道奥尻、仙台、米沢、名古屋、静岡県磐田と渡り歩いている。こけしを製作したのは、修業後に北岡木工所で働いた大正末から昭和初めにかけての第一期遠刈田時代、仙台から帰郷し再び北岡木工所で働いた昭和10年(1935年)からの第二期遠刈田時代、そして米沢に移った昭和12年(1937年)〜昭和15年(1940年)頃の米沢時代の三期であるという。名和コレクションの巳之吉こけしは『美しきこけしー名和和子こけしコレクション図譜』によると昭和13〜14年頃の米沢時代の作ということになる。巳之吉は昭和31年(1956年)8月5日に磐田で亡くなった。
その巳之吉型を継承したのが甥にあたる佐藤米蔵。米蔵は明治42年(1909年)11月22日、木地師佐藤春吉の長男として新地に生まれた。高等小学校卒業後は木地業に就かず東京京橋に出て働く。二度の応召を経て昭和20年(1945年)帰郷した。昭和30年(1955年)頃より新型の木地挽きをはじめ、昭和39年(1964年)より旧型こけしの製作を手掛けるようになった。叔父・巳之吉の写しを始めたのは昭和43年(1968年)から。『こけし辞典』には昭和45年(1970年)3月の作が掲載されている。昭和56年(1981年)3月7日没。行年72歳。
米蔵によって継承された巳之吉型は長男・一夫に受け継がれている。佐藤一夫は昭和11年(1936年)1月1日、横浜市鶴見区で生まれた。第二次大戦が激化すると父の生地である遠刈田新地へと疎開。同地で少年時代を過ごす。昭和26年(1951年)3月、15歳で佐藤守正に師事し木地挽きを修業。朝倉栄次や父のもとで新型こけしの木地挽きをしていたが、紆余曲折を経て一時木地挽きより離れる。昭和53年(1978年)から昭和55年(1980年)にかけて父・米蔵より描彩の指導を受ける。伝統こけしの製作を始めたのは米蔵が逝去した昭和56年(1981年)の4月12日から。工人45歳の時である。この当時の状況は『こけし手帖289号』高橋利夫氏による「巳之吉を継ぐ遠刈田系工人・佐藤一夫」の記事に詳しい。それによると巳之吉型に着手したのは昭和58年(1983年)からであるという。翌年、遠刈田新地に「木偶之房(でくのぼう)」を開業。昭和60年(1985年)には再び佐藤守正に描彩を習っている。現在80歳。

最初に入手した巳之吉型は7寸5分。『こけし 美と系譜』『こけし古作図譜』に掲載されている中屋惣舜氏旧蔵の写しであると思われる。「原」は正末昭初の大傑作といわれるものであるが、この写しは切れ長の大きな三日月目や大振りな重ね菊、角張った大頭の木地形態など、その雰囲気をよく捉えた快作であると思う。ロー引きされていない木地に濃厚な染料が染み入る様は渋く、格別の味わいがある。重ね菊の葉は、草書体の「原」とは対照的に様式された描法で整然と並ぶ。細かいマンサク模様のこけしを描き上げる一夫の本領のように思われる。

高幡不動の茶房たんたん(現・楽語舎)で入手した6寸4分は、植木昭夫氏所蔵の昭和15年作の写し。米沢時代末の作で『愛こけし』に掲載されている。小さめの頭に長めの胴がつくすっきりとした木地形態。『こけし手帖289号』によると、昭和59年(1984年)に取り組み始め、同年4月には東京こけし友の会より頒布されたとのこと。真っ直ぐ前を見据える写しに対し、「原」は視線向って左上に流れ、目は左目が思い切って上がる。こうしてみると巳之吉という工人は案外おおらかに筆を運ぶ人だったのかもしれない。残るこけしの変化も大きい。なお、この写しの胴裾には鉋溝が2本入れられているが、2015年秋の山河之響の会の折ご本人に確認したところ、これは本人による工夫で入れたものであるということであった。

3本目となる巳之吉型は北鎌倉おもとで求めた7分5分。店主の話では巳之吉型ということであったし表情もそれらしいものであったが、それまでの2本のように「巳之吉型」という表記はなく、また梅花をあしらったような胴模様も見慣れないもので少し引っ掛かるこけしではあった。これもご本人に確認したところ、「原」となったのは鈴木鼓堂氏旧蔵品で『こけし辞典』でも確認できる昭和初期作。「原」の胴模様は他の巳之吉こけしと同様の重ね菊であるが、こちらのこけしの衿と梅花はやはり本人の工夫によるものということだった。胴一杯に描かれた不揃いの梅花はしかし古風な佇まいを醸し、もしかしたら巳之吉もこのような胴模様を描いていたのかもしれないと想像を巡らせるに足る面白さがある。古くからの型に学び、そこに一工夫を加えることで新たな発展をもたらすという伝統におけるひとつの理想型をここに垣間みる思いがする。自らが継承した型をおざなりにしてはいけないし、しかし同時にその型に固執してもいけない。型と伝統性について考えさせる示唆に富んだ良作であると思う。

前述、山河之響の会で入手した6寸3分は高橋五郎氏所蔵品の写し。手持ちの資料では三春町歴史民俗資料館による企画展「幻想のこけし」展の図録に「原」を確認できる。一本目にみられたような渋みはないが、明朗な雰囲気に溢れ、長年巳之吉型に取り組んできただけあって手慣れた軽やかさがある。
一夫工人は現在までに10種類の巳之吉型を手掛けてきており、木偶之房にはその見本があるという。冒頭に述べた名和コレクションのこげす型は作ったことがないとのことである。(敬称略)
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032: 山尾広昭
山尾昭の天江庄七写しの落手と時を同じくして、息子・山尾広昭の三蔵写し8寸を手に入れた。出品者の説明によるとこのこけしは平成14年(2002年)1月の作で、植木昭夫氏所蔵の三蔵写しであるという。『愛こけし』『木偶相聞』で確認できる氏所蔵の三蔵こけしは2本で、どうも1尺5寸の縮写であると思われる。胴背面には「名古屋こけし会第111回定期頒布」のシールが貼られている。

面白いと思うのは頭部の様式で、顔を取り囲むようにして頭部側面から背面まで黒々とした横髪が描かれている。頭頂には長い線状の一本線が引かれており、頭部全体を俯瞰するとチョンマゲのようにも見える。1尺5寸を確認するとやはり顔の側面にその横髪の端らしきものが見える。

力強い筆致の面描は古こけしに通じる味わいを感じさせる。『木偶相聞』と見比べると目の位置が顔半分より下に描かれていてこのこけし特有の幼さに結びつく。三蔵作の多くは目が高い位置に描かれることが多くそれが独特の凄みの要因となっているように思える。ただし、この広昭作はこれで稚気溢れ安心して眺めていられる穏やかさがある。菅原敏による三蔵型とは一線を画す新鮮な解釈と言えるかもしれない。頒布している会は違えど、父・昭の天江庄七の写しとともに山尾一家の古秋保への取り組みに注目するようになったのは言うまでもない。
さて先日、同じ出品者から広昭による3本の三蔵写しを落札した。前述8寸と同じく名古屋こけし会の頒布品であり、それぞれ第110回、第111回、第113回というシールが貼られている。この時期名古屋こけし会が広昭に対して集中的に三蔵型の写しを依頼しそれを頒布したことがわかる。

最初の7寸のこけしは「深沢コレクションの昭和15年三蔵復活初作を元に」作られたこけしとのこと。『こけしの追求』には「原」となるこけしの白黒写真とともに入手した経緯が記されているので該当箇所を引用する。
昨年(昭和十五年)一月私は又しても三蔵を訪ねたのであった。翌朝行って見ると三蔵は自家の作業場で、既に三箇の頭を作り、それに穴をあけているところであった。他に造付の一箇を加えて全部が出来上がるのは夕方になったが、前髪の小さい鬢下がりの如何にも親しみのあるこけしを受取る時には、さすがに嬉しかった。
『こけし古作図譜』にはその深澤三蔵がカラー写真で掲載されている。広昭の写しは目つきの強烈さには欠けるものの「原」を忠実に写したことが伺える。縦長の角張った頭部、長い垂れ鼻、切れ長の二側目。胴に轆轤線はなく「る」の字の前身と思われる模様が描かれており興味をそそる。

次の6寸は川口貫一郎コレクションの三蔵を元に作られた平成15年(2003年)1月作。出品者の説明によれば重ね菊で轆轤線がない珍しい胴模様であるという。「原」を確認したわけではないが自分の中の三蔵のイメージはこれに近い。鼻は小さめの垂れ鼻。目鼻頭の上部に寄り、口は紅で太めに描かれる。胴いっぱいに重ね菊が配置され装飾的な葉があしらわれている。頭部は小さめに抑えられており洗練された木地形態であるように思う。そして全体の雰囲気に鋭さがある。

3つ目は平成15年(2003年)5月作。酒井利治氏『木這子との邂逅』109番の写しであるとのこと。頭部小さく丸みを帯び、太めの胴が安定感を与える。二側目は大きく見開かれ真っ直ぐ前を見据える。三蔵型には珍しいねこ鼻で口は紅により一筆で描かれる。太い緑の轆轤線が上下に2本ずつ引かれ、間に「る」の字が2つ配される。

最近入手したこの6寸はひやねの『こけし往来』即売品。やはり名古屋こけし会の頒布品で、胴背面には第112回のシールが貼られている。この写しの「原」についての情報は持ち合わせていないがおそらく『こけし這子の話』の図譜に掲載されているものと推測される。切れ長の三日月目は下瞼が下に膨らまない典型的な遠刈田の二側目。胴上下の轆轤線は緑以上に赤が目立ち、大振りに描かれた重ね菊と相まって濃厚な雰囲気を漂わす。
こうして見てみると、5本とも異なる様式を持ち三蔵こけしのもつ意外な程の幅広さが浮き彫りになる。そしてまた同時に、山尾広昭という工人の写しの仕事振りにも感心せざるを得ない。特に良いと思うのは面描。その筆致の力強さによって古い味わいを感じさせるこけしとなっている点である。三蔵の遺したこけし自体、枯れた稚拙の筆使いがひとつの特徴となっているように思うが、広昭の面描は上手に整えることをせず、筆太く、揺れて曲がり、そしてたどたどしい。けっして綺麗な筆致ではないけれど、こけしが子供のおもちゃだった時代はこういった無骨とも言える描彩のものが多かったのではないかと想像させられるのである。現代ではなかなかこのような筆使いでこけしを描く工人は少ないような気がする。
『伝統こけし最新工人録』によると、山尾広昭は昭和33年(1958年)12月14日、山尾昭の長男として生まれた。木地修行を始めたのは昭和61年(1986年)4月頃から。工人27歳の時である。「ひとこと」の欄には「木地職人の祖父、父を持ち三代目として仕事の休みを利用しての勉強です。祖父のこけし復元にも興味を持っております。妻(※山尾裕華)と共にこれからの私ですが、伝統を守り続けて参ります。」と寄せており、他に仕事を持つ兼業でのこけし製作であることが窺い知ることができる。上に挙げた名古屋こけし会頒布による三蔵写しは平成14年〜15年作であるので工人44歳前後の作ということになる。この後の経緯はわからないが広昭は2016年4月現在55歳。残念ながらこけし製作は中断しているということである。

面白いと思うのは頭部の様式で、顔を取り囲むようにして頭部側面から背面まで黒々とした横髪が描かれている。頭頂には長い線状の一本線が引かれており、頭部全体を俯瞰するとチョンマゲのようにも見える。1尺5寸を確認するとやはり顔の側面にその横髪の端らしきものが見える。

力強い筆致の面描は古こけしに通じる味わいを感じさせる。『木偶相聞』と見比べると目の位置が顔半分より下に描かれていてこのこけし特有の幼さに結びつく。三蔵作の多くは目が高い位置に描かれることが多くそれが独特の凄みの要因となっているように思える。ただし、この広昭作はこれで稚気溢れ安心して眺めていられる穏やかさがある。菅原敏による三蔵型とは一線を画す新鮮な解釈と言えるかもしれない。頒布している会は違えど、父・昭の天江庄七の写しとともに山尾一家の古秋保への取り組みに注目するようになったのは言うまでもない。
さて先日、同じ出品者から広昭による3本の三蔵写しを落札した。前述8寸と同じく名古屋こけし会の頒布品であり、それぞれ第110回、第111回、第113回というシールが貼られている。この時期名古屋こけし会が広昭に対して集中的に三蔵型の写しを依頼しそれを頒布したことがわかる。

最初の7寸のこけしは「深沢コレクションの昭和15年三蔵復活初作を元に」作られたこけしとのこと。『こけしの追求』には「原」となるこけしの白黒写真とともに入手した経緯が記されているので該当箇所を引用する。
昨年(昭和十五年)一月私は又しても三蔵を訪ねたのであった。翌朝行って見ると三蔵は自家の作業場で、既に三箇の頭を作り、それに穴をあけているところであった。他に造付の一箇を加えて全部が出来上がるのは夕方になったが、前髪の小さい鬢下がりの如何にも親しみのあるこけしを受取る時には、さすがに嬉しかった。
『こけし古作図譜』にはその深澤三蔵がカラー写真で掲載されている。広昭の写しは目つきの強烈さには欠けるものの「原」を忠実に写したことが伺える。縦長の角張った頭部、長い垂れ鼻、切れ長の二側目。胴に轆轤線はなく「る」の字の前身と思われる模様が描かれており興味をそそる。

次の6寸は川口貫一郎コレクションの三蔵を元に作られた平成15年(2003年)1月作。出品者の説明によれば重ね菊で轆轤線がない珍しい胴模様であるという。「原」を確認したわけではないが自分の中の三蔵のイメージはこれに近い。鼻は小さめの垂れ鼻。目鼻頭の上部に寄り、口は紅で太めに描かれる。胴いっぱいに重ね菊が配置され装飾的な葉があしらわれている。頭部は小さめに抑えられており洗練された木地形態であるように思う。そして全体の雰囲気に鋭さがある。

3つ目は平成15年(2003年)5月作。酒井利治氏『木這子との邂逅』109番の写しであるとのこと。頭部小さく丸みを帯び、太めの胴が安定感を与える。二側目は大きく見開かれ真っ直ぐ前を見据える。三蔵型には珍しいねこ鼻で口は紅により一筆で描かれる。太い緑の轆轤線が上下に2本ずつ引かれ、間に「る」の字が2つ配される。

最近入手したこの6寸はひやねの『こけし往来』即売品。やはり名古屋こけし会の頒布品で、胴背面には第112回のシールが貼られている。この写しの「原」についての情報は持ち合わせていないがおそらく『こけし這子の話』の図譜に掲載されているものと推測される。切れ長の三日月目は下瞼が下に膨らまない典型的な遠刈田の二側目。胴上下の轆轤線は緑以上に赤が目立ち、大振りに描かれた重ね菊と相まって濃厚な雰囲気を漂わす。
こうして見てみると、5本とも異なる様式を持ち三蔵こけしのもつ意外な程の幅広さが浮き彫りになる。そしてまた同時に、山尾広昭という工人の写しの仕事振りにも感心せざるを得ない。特に良いと思うのは面描。その筆致の力強さによって古い味わいを感じさせるこけしとなっている点である。三蔵の遺したこけし自体、枯れた稚拙の筆使いがひとつの特徴となっているように思うが、広昭の面描は上手に整えることをせず、筆太く、揺れて曲がり、そしてたどたどしい。けっして綺麗な筆致ではないけれど、こけしが子供のおもちゃだった時代はこういった無骨とも言える描彩のものが多かったのではないかと想像させられるのである。現代ではなかなかこのような筆使いでこけしを描く工人は少ないような気がする。
『伝統こけし最新工人録』によると、山尾広昭は昭和33年(1958年)12月14日、山尾昭の長男として生まれた。木地修行を始めたのは昭和61年(1986年)4月頃から。工人27歳の時である。「ひとこと」の欄には「木地職人の祖父、父を持ち三代目として仕事の休みを利用しての勉強です。祖父のこけし復元にも興味を持っております。妻(※山尾裕華)と共にこれからの私ですが、伝統を守り続けて参ります。」と寄せており、他に仕事を持つ兼業でのこけし製作であることが窺い知ることができる。上に挙げた名古屋こけし会頒布による三蔵写しは平成14年〜15年作であるので工人44歳前後の作ということになる。この後の経緯はわからないが広昭は2016年4月現在55歳。残念ながらこけし製作は中断しているということである。
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