038: 柏倉勝郎④

面描は明らかに柏倉勝郎。写実的な口元、頭髪とくっつく鬢等の特徴から初期作と推定される。
2016年6月6日(月)、ヤフオクに「サカタ ホンマ」という出品タイトルでひとつの酒田こけしが出品された。不明瞭な写真で確認するそのこけしは古色深く、一見煤けた保存の悪い本間久雄作かと思われたがよくよく見ていくと看過できない問題作であることが分かった。

胴底は荒い。本間儀三郎による通し鉋と署名もしくは旧蔵者によるメモ書き。
高さは5寸7分。通し鉋による胴底にはカタカナで「サカタ ホンマ」と記入されている。しかしこれは明らかに本間久雄、義勝親子による筆跡ではなく、おそらく蒐集家によって書き込まれたもの、或いは本間儀三郎本人による署名であると推測される。こけしに署名がなされない時代即ち第一次こけしブーム以前の作であるとしたら、本間儀三郎の木地に柏倉勝郎が賃描きしたこけしである可能性が極めて高い。送り手(販売元?)である本間儀三郎の名が書かれていることからすると、柏倉勝郎の存在自体が周知されていなかった賃描きの初期、つまり武井武雄の『日本郷土玩具東の部』(昭和5年)から深沢要の『羨こけし』(昭和13年)の間にかけての作であると考えられる。

三段枝梅模様。
まず目を引くのは胴の木地形態。肩の曲線はほぼなく肩の段から胴裾にかけて直線的に末広がる。胴への嵌め込みはぐらつきはしないもののゆるめ。胴底はざらざらとしていて荒い仕上げになっている。面描に関しては瞼の線が薄くなっているもののその表情自体は明るく朗らか。他に特徴的な点は口元で、逆三角形のような笑い口は『山形のこけし』で述べられている「昭和初期の作は口が写実的な筆法であり、それ以後は二の字口となっている」という特徴と一致する。また頭髪と完全にくっつく鬢の様式も初期作である証左となる。同書では「昭和一〇年頃までは横鬢が頭のおかっぱとくっついた蔵王風の描彩となっている」とあり年代判定の参考となるだろう。以上を踏まえるとおそらく昭和5年から昭和10年にかけての作と思われる。
しかし最も特徴的なのはその胴模様にある。三段の梅と思しき花模様。いかにも勝郎というべきさらさらとした草書体で赤い枝梅が描かれる。枝と花の付け根には緑の小点が打たれる。この梅模様は鳴子の日本こけし館に所蔵されている深沢要コレクションの4寸に類例が認められる(※下に写真掲載しているスケッチ参照)。深沢手は枝が描かれず花のみ。三段構えの枝梅は他に例をみない。

胴裏には松模様。
さらに胴裏には緑によって松と松葉と思われる模様が描かれていることも驚かされる。松、梅ときたら竹を連想したいところではあるが竹とおぼしき模様は見当たらない。あるいはこの松葉と思われるものが竹なのであろうか。いずれにしても「変わり模様もきわめて少なく、深沢コレクションにある抽象的模様などがわずかに知られる程度である」と『山形のこけし』にある通り、ともすると重ね菊のみとも思われている柏倉勝郎型の胴模様が実は意外な幅広さを持っていることを物語る作例ではある。

深沢要コレクションをスケッチしたもの。梅花と波線による「抽象的模様」が特徴。
このこけしはこれまでの蒐集において最も重要なこけしであることは間違いない。相当の高値を覚悟してほとんど絶望的に諦めかけていたのだが、出品開始金額のプラス100円で落札することが出来たのは奇跡に近い。落札した日は折しも酒田への調査旅行の最中であり、私にはどうもこけしの神様が酒田こけし研究のために微笑んでくれたとしか思えないのである。酒田こけしの追求に終わりはない。
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037: 佐藤忠
『木の花』第22号の「こけし古作と写し展図説」でこの写しを知ったと記憶する。「原」は『こけし古作図譜』119番の佐藤菊治6寸1分。後ろの解説には「大正後期 川口」とあるがこの場合、川口睦子氏の所蔵品ということになる。「形態細く締まりながら温かさがあり、描彩余裕たっぷりと明るく毅然としていて格調高い。しかも大正期(裏に八・六・二五と記入の前所蔵者の張紙あり大正八年か)の菊治では唯一の一側目の貴重さもあって、忠に見せたいこけしであった」と矢田正生氏が書かれている。昭和51年末に青根を訪れ年明けに写しが送られてきたと続く。

佐藤忠による佐藤菊治写し 6寸
先日の東京こけし友の会の例会で入手したこのこけしの胴底には鉛筆で「96-5-12 ナゴヤ」とメモ書きがなされている。6寸大の遠刈田の中でも頭小振りな作例で頭部の口径が小さい分、胴細長く洗練された形態となっているように思う。墨による二筆で描かれた口元、鬢横の耳状の手絡(?)等古い青根の様式を今に伝える良い写しである。が、「原」と比べてしまうと綺麗すぎて味わいに欠ける節もある。
『こけし古作図譜』で見る「原」は古ぼけ、紫のロクロ線もやや褪色しかかっており朧げであるが染料が木地に馴染み何とも言えない味わいがある。この写しは形態、様式、全体的な雰囲気はよく捉えられているものの、胴模様は鋭く筆が伸び、それがかえって硬質な印象を与える。
『木の花』第23号の中で箕輪新一氏は「時代の香」と称してこれら古作と写しの隔たりを論じている。「明治という時代の西欧文化に対する日本人のあり方が窺われる」とか「大正という時代のもつほの暗さや憂愁」といったその時代その時代の雰囲気が古作には宿っているとし、写しは「古いこけし群のなかに確かにある「時代の香」、こけしがこけしであり、おもちゃであった時代の味を、どういかして「写し」とる作業」たるべきと説く。
佐藤忠の写しと佐藤菊治の「原」との隔たりはどこにあるのだろうか。そのことを考察していくひとつの手立てとして、こけしが上手物化したことが挙げられないだろうかと考えている。
そもそもこけしは岡崎栄治郎や鳴子の大寸もの等一部の飾るためのこけしを除き、下手物だったと言われている。子供への土産物として大量に生産された安価で粗雑なおもちゃであり、仕上げは今のように念入りには行われなかったため染料は木地に滲む。しかしそういった荒さこそが昔の玩具人を惹きつけた味わいであったように思う。
しかし時代が進むにつれこけしを取り巻く環境や価値観が変化していき上手物化が進んだのではないだろうか。上手物化にはいくつかの要因が考えられる。
①製作環境の向上
戦後動力ロクロが普及するとともにサンドペーパー、筆等の品質が向上したこと。
②コンクールの存在
いつの頃からかは分からないがコンクールの審査基準に木地の仕上げという項目が設けられたことにより、綺麗に磨かれた見栄えの良いこけしが評価されるようになっていったこと。
③品質重視
製品としての均一性を求める風潮が広まり、青果と同じようにこけしも品質が重視されるようになったこと。寡聞にして蝋引きが一般的になったのもいつの頃からかわからないが、品質重視の象徴ではないかと考えている。
第2次こけしブーム以降に作られたこけしを見ていると、こうした時代の移り変わりの中で綺麗になっていくのと引き換えに素朴さと味わいが失われていったように思われる。田舎の純朴な娘さんが都会に出て、垢抜け、綺麗になるのと同じように。これが「こけし千夜一夜物語」でいわれるところの「こけしの近代化」ということかもしれない。
製作環境の変化、価値観、こけしに求められるものの変化が渾然一体となり現代の「時代の香」として漂っている。工人であろうと蒐集家であろうと何人たりともそういった時代性の影響は避けられない。
特に価値観などというものは、ある日を境に劇的に変わるものではなく日一日と徐々に浸透していき知らず知らずのうちにそのことが当たり前になっていく類いのものでありなかなか意識できるものではないが、こけしの場合「原」となる古作に立ち返り、現代という時代の反映である写しとよく見比べることによって、その差異を生むものの存在が明らかになってくるようにも思われる。
下手物という観点からすると、もしかしたら現代のこけしは単純に磨かれ過ぎなのかもしれない。

佐藤忠による佐藤菊治写し 6寸
先日の東京こけし友の会の例会で入手したこのこけしの胴底には鉛筆で「96-5-12 ナゴヤ」とメモ書きがなされている。6寸大の遠刈田の中でも頭小振りな作例で頭部の口径が小さい分、胴細長く洗練された形態となっているように思う。墨による二筆で描かれた口元、鬢横の耳状の手絡(?)等古い青根の様式を今に伝える良い写しである。が、「原」と比べてしまうと綺麗すぎて味わいに欠ける節もある。
『こけし古作図譜』で見る「原」は古ぼけ、紫のロクロ線もやや褪色しかかっており朧げであるが染料が木地に馴染み何とも言えない味わいがある。この写しは形態、様式、全体的な雰囲気はよく捉えられているものの、胴模様は鋭く筆が伸び、それがかえって硬質な印象を与える。
『木の花』第23号の中で箕輪新一氏は「時代の香」と称してこれら古作と写しの隔たりを論じている。「明治という時代の西欧文化に対する日本人のあり方が窺われる」とか「大正という時代のもつほの暗さや憂愁」といったその時代その時代の雰囲気が古作には宿っているとし、写しは「古いこけし群のなかに確かにある「時代の香」、こけしがこけしであり、おもちゃであった時代の味を、どういかして「写し」とる作業」たるべきと説く。
佐藤忠の写しと佐藤菊治の「原」との隔たりはどこにあるのだろうか。そのことを考察していくひとつの手立てとして、こけしが上手物化したことが挙げられないだろうかと考えている。
そもそもこけしは岡崎栄治郎や鳴子の大寸もの等一部の飾るためのこけしを除き、下手物だったと言われている。子供への土産物として大量に生産された安価で粗雑なおもちゃであり、仕上げは今のように念入りには行われなかったため染料は木地に滲む。しかしそういった荒さこそが昔の玩具人を惹きつけた味わいであったように思う。
しかし時代が進むにつれこけしを取り巻く環境や価値観が変化していき上手物化が進んだのではないだろうか。上手物化にはいくつかの要因が考えられる。
①製作環境の向上
戦後動力ロクロが普及するとともにサンドペーパー、筆等の品質が向上したこと。
②コンクールの存在
いつの頃からかは分からないがコンクールの審査基準に木地の仕上げという項目が設けられたことにより、綺麗に磨かれた見栄えの良いこけしが評価されるようになっていったこと。
③品質重視
製品としての均一性を求める風潮が広まり、青果と同じようにこけしも品質が重視されるようになったこと。寡聞にして蝋引きが一般的になったのもいつの頃からかわからないが、品質重視の象徴ではないかと考えている。
第2次こけしブーム以降に作られたこけしを見ていると、こうした時代の移り変わりの中で綺麗になっていくのと引き換えに素朴さと味わいが失われていったように思われる。田舎の純朴な娘さんが都会に出て、垢抜け、綺麗になるのと同じように。これが「こけし千夜一夜物語」でいわれるところの「こけしの近代化」ということかもしれない。
製作環境の変化、価値観、こけしに求められるものの変化が渾然一体となり現代の「時代の香」として漂っている。工人であろうと蒐集家であろうと何人たりともそういった時代性の影響は避けられない。
特に価値観などというものは、ある日を境に劇的に変わるものではなく日一日と徐々に浸透していき知らず知らずのうちにそのことが当たり前になっていく類いのものでありなかなか意識できるものではないが、こけしの場合「原」となる古作に立ち返り、現代という時代の反映である写しとよく見比べることによって、その差異を生むものの存在が明らかになってくるようにも思われる。
下手物という観点からすると、もしかしたら現代のこけしは単純に磨かれ過ぎなのかもしれない。
036: 柴崎丑次郎
『こけし辞典』によると柴崎丑次郎は明治21年(1888年)12月13日、山形県北村上郡高橋に生まれた。姉「くの」の息子が松田初見。明治25年に鳴子へ移住し、明治35年15歳で高橋勘治に弟子入りした。明治38年に独立後は兵役をはさんで各地を転々と働き歩いた。
こけしに関する記述を追ってみると、まず勘治の元での修業時代にこけしの木地下を挽き、つづいて大正6年30歳の頃、岩手県台で菓子入れとともにこけしも挽いたとある。また鈴木(鼓堂?)コレクションに昭和初年作が確認されているという。昭和42年工人80歳の頃、鹿間時夫氏の依頼で菅原和平の木地に描彩をした。その後、松田三夫や中鉢君雄(ともに親戚筋にあたる)の木地に描彩をしていたが、昭和44年2月(82歳)から小寸を自挽きし始め、翌年春には大寸も自挽きした。昭和46年(1971年)12月29日に84歳で亡くなったので、復活後の製作期間は5年に満たない。
『こけし辞典』では「勘治の弟子ではあるが、こけしに関するかぎり見取り学問の傾向が強い」としながらも「自挽の作は胴細く肩やや丸みをおび、稚拙素朴な菊、かえで、けしの花(?)等を描き、一筆目はすこぶる童女相で愛すべきこけしである。現代のきれいに完成された鳴子こけしの中では異質の存在で、定助と同じ位置にあるといえるであろう」と評価されている。

初めて手にした柴崎丑次郎作は6寸9分、ひやねのヤフオク出品だった。ふくふくとした一筆目の表情で、胴には2輪の菊が伸び伸びと描かれている。胴底には「鳴子 柴崎丑次郎 八十二才」の署名とともに鉛筆で「S44.2.23 例会」とメモ書きがされている。古鳴子の風情を感じさせ、自分が今後鳴子系、ひいてはこけしに求めていくべきは、端正華麗なものではなくこのような枯れた情味、素朴にあるのではないかと思い至らせるきっかけとなった。

次に入手したのは日本こけし館の中古こけしオークションで落札した7寸3分だった。保存状態はすこぶる良好。「鳴子 八十一才 柴崎丑次郎作」と署名されている胴底には前所蔵者「杢翁居」の印とともに赤いペンで「44.6.11 本人-◯◯ No.974」と記されている。一本目と同じく2輪の菊模様であるが、木地形態は胴がより細く直胴で、頭部は若干縦長気味になっている。眼点の入れられた一側目で視線は横に流れ、への字の口元と相まって少し退屈そうな表情であるが、そこが子供らしいといえば子供らしいように思う。

三本目の4寸8分は楽語舎の即売会で入手した。署名は「鳴子 柴崎 八十二」とあるが、ペン書きで「S43」と記入されている。Kokeshi Wiki には同じく昭和43年12月の同手が掲載されており、それによると「この模様を牡丹と称していた」という。たどたどしく拙い描彩はもちろんのこと、首元には鉋跡が残っておりガタガタな仕上がりだが、なんとも抗し難い魅力がある。

同じく牡丹模様の一側目7寸を入手したのも楽語舎だった。胴底には「鳴子 柴崎 八十二」という署名とともに梅花の印が押されている。米浪庄弐氏の旧蔵品ということであろうか。一本目と背丈はほぼ同じであるが、頭部の量感、一側目の面描等若干の違いがあり、こちらの方には品があるように思われる。ただし丑次郎の身上である素朴さでいえば一筆目であるが。
伸び伸びとした筆致と素朴さ、型にはまらない自由さは、全国こけし祭りの会場で展示される地元小学生のこけし絵付けをどこか連想させるものがある。人生の晩年にいた老工の筆が、童子のそれと通じるというのはなかなか意味深い。人は老いて童心に還るというのを地でいくこけしであるように思う。
こけしに関する記述を追ってみると、まず勘治の元での修業時代にこけしの木地下を挽き、つづいて大正6年30歳の頃、岩手県台で菓子入れとともにこけしも挽いたとある。また鈴木(鼓堂?)コレクションに昭和初年作が確認されているという。昭和42年工人80歳の頃、鹿間時夫氏の依頼で菅原和平の木地に描彩をした。その後、松田三夫や中鉢君雄(ともに親戚筋にあたる)の木地に描彩をしていたが、昭和44年2月(82歳)から小寸を自挽きし始め、翌年春には大寸も自挽きした。昭和46年(1971年)12月29日に84歳で亡くなったので、復活後の製作期間は5年に満たない。
『こけし辞典』では「勘治の弟子ではあるが、こけしに関するかぎり見取り学問の傾向が強い」としながらも「自挽の作は胴細く肩やや丸みをおび、稚拙素朴な菊、かえで、けしの花(?)等を描き、一筆目はすこぶる童女相で愛すべきこけしである。現代のきれいに完成された鳴子こけしの中では異質の存在で、定助と同じ位置にあるといえるであろう」と評価されている。

初めて手にした柴崎丑次郎作は6寸9分、ひやねのヤフオク出品だった。ふくふくとした一筆目の表情で、胴には2輪の菊が伸び伸びと描かれている。胴底には「鳴子 柴崎丑次郎 八十二才」の署名とともに鉛筆で「S44.2.23 例会」とメモ書きがされている。古鳴子の風情を感じさせ、自分が今後鳴子系、ひいてはこけしに求めていくべきは、端正華麗なものではなくこのような枯れた情味、素朴にあるのではないかと思い至らせるきっかけとなった。

次に入手したのは日本こけし館の中古こけしオークションで落札した7寸3分だった。保存状態はすこぶる良好。「鳴子 八十一才 柴崎丑次郎作」と署名されている胴底には前所蔵者「杢翁居」の印とともに赤いペンで「44.6.11 本人-◯◯ No.974」と記されている。一本目と同じく2輪の菊模様であるが、木地形態は胴がより細く直胴で、頭部は若干縦長気味になっている。眼点の入れられた一側目で視線は横に流れ、への字の口元と相まって少し退屈そうな表情であるが、そこが子供らしいといえば子供らしいように思う。

三本目の4寸8分は楽語舎の即売会で入手した。署名は「鳴子 柴崎 八十二」とあるが、ペン書きで「S43」と記入されている。Kokeshi Wiki には同じく昭和43年12月の同手が掲載されており、それによると「この模様を牡丹と称していた」という。たどたどしく拙い描彩はもちろんのこと、首元には鉋跡が残っておりガタガタな仕上がりだが、なんとも抗し難い魅力がある。

同じく牡丹模様の一側目7寸を入手したのも楽語舎だった。胴底には「鳴子 柴崎 八十二」という署名とともに梅花の印が押されている。米浪庄弐氏の旧蔵品ということであろうか。一本目と背丈はほぼ同じであるが、頭部の量感、一側目の面描等若干の違いがあり、こちらの方には品があるように思われる。ただし丑次郎の身上である素朴さでいえば一筆目であるが。
伸び伸びとした筆致と素朴さ、型にはまらない自由さは、全国こけし祭りの会場で展示される地元小学生のこけし絵付けをどこか連想させるものがある。人生の晩年にいた老工の筆が、童子のそれと通じるというのはなかなか意味深い。人は老いて童心に還るというのを地でいくこけしであるように思う。
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