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040: 「珠玉のコレクションを蒐めて」

仙台のカメイ美術館において2016年8月2日から10月23日の会期で「こけし特別展 珠玉のコレクションを蒐めて」という展示会が行われた。

鈴木康郎氏、高橋五郎氏、谷川茂氏、中根巌氏、橋本正明氏、箕輪新一氏、亀井昭伍氏という錚々たるこけし蒐集家、研究家の所蔵される名品を一度に見られる機会は、まずない。「現代日本の著名なこけし蒐集家、研究家のコレクションを仙台の地に一堂に集める貴重な機会」(パンフレットより抜粋)として是非とも拝見したいと思っていたがなかなか都合が合わず、結局9月10日の定禅寺ストリートジャズフェスティバルに参加したついで、二時間足らずの鑑賞となってしまったのはこけし愛好家として甚だ痛恨の極みである。

諸氏の所蔵される古作を拝見してまず感じたことは、木地形態の美しさだった。こけしは球体の頭部と円柱状の胴という最小限の構成要素で成り立つものであるが、にも関わらず、第一次こけしブームより遥か以前に生まれたであろう古作群には圧倒的な造形美そして素朴な味わいを有しているように思われた。古い木地師達の造形感覚は現代の多くのこけし工人と比べてはるかに優れていると思わざるを得ない隔たりがあった。しかもそこに味わい深い描彩が加わるのだからもうたまらない。

古い蒐集家、小林昇氏が『こけし手帖』104号に書かれた「こけしははじめ子供のおもちゃとして作られたものだが、古い工人たちは不思議なほどフォルムの感覚が鋭く、色感に豊かで、また顔や胴の描彩がたくみである。ことに描彩の点では毛筆の技術とデフォルメの効果とを十分にこころえていて、一昔前まで保存されていた日本の美意識が素朴な木の人形から伝わってくる」という一文をふと思い出していた。

以下は短い時間ながらも展示を拝見して抱いた所感である。考えがまとまっていない節が多々ありしかもまったく個人的な見解ではあるものの、素晴らしい展示会に触れ考えさせられることが多かったため蛮勇を振るい投稿させていただきます。


1.こけしに求められるものの違い

古作群の圧倒的な造形美を前にしながら、普通に考えれば、現代に作られたものの方が感覚的に現代人にとってしっくりくるはずであるのに何故、古作の造形の方に優れた美を認めるのであろうかという素朴な疑問を抱かざるを得なかった。

時代によってこけしに求められるものが変わっていき、それがこけしそのものにも影響を与える。(もちろんそこには製作環境の変化といった要素もあるが。)第三次こけしブームのこけしに求められているものが「カワイイ」という基準だとすると、それ以前は何が求められていたのか。

まず、第二次こけしブームの頃には「古作の再現性」や「情味」という基準があったのではないかと考えている。型、写しという手法の一般化に伴い古い型をどれだけ忠実に再現できるかがこけしを評価する際の判断材料となった。また、各種入門書により味わい、情味というこけしの観点が広まった。これは『こけし 美と系譜』で鹿間時夫氏が用いたキーワードである。第二次こけしブームの頃の愛好家の根底にはこういったキーワードが評価基準としてあったのではないか。

では第一次こけしブーム以前は何が求められていたのか。思うに無作為で自然素朴な味わいだったのではないか。天江富弥氏や武井武雄氏がこけしを蒐集された時代はこけしを「子供のおもちゃ」として珍重する風潮があったと思われる。この頃はまだ新型こけしの影響などはなく、したがって「伝統」がどうのとか「写し」がどうのと口喧しく言われることもない。こけしがありのままの存在でいられた時代であったと想像する。それはこけしならびにその製作者たちに外から何かが求められることがなかったことを意味する。そして逆説的には第二次こけしブーム以降は買い手の嗜好、蒐集家の思惑に影響(あるいは翻弄)される時代となったのだと考えられる。

展示品のこけし群は、その何にも影響を受けることのなかった時代のありのままのこけしの姿を体系的に今に伝えるものであったように感じている。

なお蛇足になるが、一度「カワイイ」という評価基準を脱すると現代化されたこけしに物足りなさを覚えるようになる、というのは実体験に基づく印象である。「カワイイこけし」に不満を覚えるのはこけしに「古作の再現性」や「情味」、あるいは「素朴」を求める故であると考えられる。現代のものよりも古作のに優れた造形美を認めてしまうのはそういったところに理由があるのかもしれない。


2.写しによるこけしの規格化、画一化

戦後、伝統的型の保護・推奨を目的として写しという行為が一般的となった。蒐集家誰それ旧蔵の何々型という感じでこけし界の名物を写したこけしが大量に製作されてきたわけである。写しが一般的になるにつれ、愛好家は再現性の高い写しを手元に置くことが可能となり、こけしの水準は上がったように思われる。しかし、それと引き換えに、こけしが本来持っていた多様性、豊かさ、味わいが失われたのではないか。

そして同時に愛好家に多様性という観点が、或いはそれを許す余地が失われたのではないだろうか。消費社会が浸透し例えば青果の品質が規格化され規格外のものが排除されるのと通じる思潮が根底に流れているように感じる。

しかし古い文献に載らなかっただけで世に知られていないこけしのバリエーションは山ほどある。柏倉勝郎の枝梅模様を入手してそういった思いが芽生えたところにこの度の展示に出品された古作群の豊かな多様性を目の当たりにしてますますその思いは強まった。


3.多様性を取り戻すために

「誰それ旧蔵の何々型」というのは有名な蒐集家にたまたま発見されたごく一部の作例に過ぎず、実際には表情領域、胴模様、木地形態など思いのほか多彩であることは決して少なくない。だとすると、それらをいくつ忠実に写したとしても点の集まりでこそあれ面になり得ないのではないかと考える。それはいわば「規格化されたこけし」である。そのような写しに終始する限り、現代の工人は古作にみられる自由で多様な変化は生み出し得ないのかもしれない。

点と点を面にするためには、こういう作例も存在し得たのではないかと、工人自らが想像を膨らまし、それを実現させていく必要があると思う。それは結果として伝統が発展していく原動力になり得る様な気がする。少なくともそうして出来上がったものは創造的であっても伝統の枠内にきちんと収まるものだと思われるのである。

鹿間時夫氏は『こけし手帖』42号の新人紹介の項で「もはや伝統はがんじがらめである。新型に堕落せずこの殻を破り、本荘や大湯や一の関のようなヴァラエチーを作ることが鳴子工人のテーマではなかろうか」と記している。昭和37年の記事であるが何も鳴子に限った話ではなく、これからのこけしの目指すべき姿を今なお示唆し続けているように思われてならない。改めてこういった事を考える時期にあるのではないだろうか。今後求めていくべきは、伝統の枠内での創造性なのかもしれない。こけしに自由と多様性、生命力を与える残された道であるように思われる。

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039: 佐藤伝

東京こけし友の会2016年11月例会。残ったこけしの中から上目遣いでこちらを見てくるこけしがいた。けなげでいじらしい。なんともいえない味があり連れて帰ることにした。佐藤伝(つたえ)のこけしである。

佐藤伝
弟子屈 佐藤伝 6寸2分

保存状態は良い。褪色なくロー引きされていない木地は木の質感に富んでいる。頭部は縦長で上下が平らな棗に似た形態。目と眉は離れ、目は顔の中央より下に収まりあどけない。鼻と口は極度に接近し、何かもの言いたそうな、しかし無言で何かを訴えるような表情である。胴は細めで畳付きにかけてはやや裾広がる。ロクロ線の帯によって三分割され、薄い黄胴の上に衿と菊花が描かれる。菊花は上が緑、下が赤で描かれている。裏面にも同様の花模様が描かれているがこちらは上下の色使いが逆になる。筆致は何気なくバサバサと描かれているがこれがかえって子供のおもちゃ然とした素朴を感じさせる一因となっているように見受けられる。

『こけし手帖』658号に「談話会覚書(24)」として佐藤伝、伝喜、伝伍のこけしが取り上げられている。三人とも弥治郎系の重要工人・佐藤伝内の息子である。伝は伝内の二男で明治39年3月26日に生まれた。大正9年から木地を修業するが父の伝内は放浪の人だったため、父の弟子である渡辺求、本田鶴松についた。したがって伝内こけしにみられる、世を睥睨するようなあの鋭さはついぞ受け継がなかった。昭和元年頃に弥治郎を離れると自身も各地を渡り歩いた後、北海道に落ち着く。こけしは昭和4年、屈斜路湖畔にいた頃から作っていたが戦後は休止していた。昭和32年秋田亮氏の勧めで途絶えていたこけし作りを復活させた。昭和55年10月26日に75歳で亡くなっている。

前掲『こけし手帖』によれば「戦後の伝は相当に変質」しているとし、「筆の枯れた晩年作の幼女らしいあどけなさに見どころを探る」と続く。また、『こけし辞典』には「戦前に比して表情少なく情味に欠ける。最近作は若干甘さがでてきた」とあり、昭和41年12月作が掲載されている。

作例からするとおそらく本項のこけしはその頃以降のものであろうと思われるが、たとえ変質し戦前作に比べ情味に欠けていたとしても、綺麗にまとまったこけしの溢れかえる現在にこそ評価されるべきこけしではないだろうか。