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046: 松田忠雄 ①

 ともすると似たようなこけしばかりで変化に乏しいという鳴子こけしに対するそれまでの印象を一変させたのが西田峯吉氏による名著『鳴子・こけし・工人』でした。同書口絵の写真は鳴子古型への興味を掻き立てる魅力に溢れているように思われました。

松田忠雄 1-1
高野幸八型 6寸3分

 ちょうど『鳴子・こけし・工人』を入手した直後だったと思いますが、2015年2月北鎌倉おもとの商品棚に口絵の写真で目にしたばかりの変わった古鳴子の型を見つけました。口絵1枚目の「米浪氏蔵A 伝高野幸八」の右側6寸2分の写しです。下部に鉋溝を入れた細胴を、紅と紫のロクロ線で一杯にし、蕪型の頭部には水引きの代わりに髷が描かれています。面描は古風な一筆目。胴底には達筆な筆跡で「忠雄」と署名されていました。おもと店主によると「松田忠雄」という工人さんの作であるとのこと。『鳴子・こけし・工人』で開眼した古鳴子への興味の足がかりとして持ち帰ることにしました。

 西田峯吉は高野幸八のこの型を「全く他に例を見ないほど異色あるもの」と表しています。『鳴子・こけし・工人』では高野幸八の系列を「又五郎系」と分類していますが、現在では「幸八系列」の方が通りは良いかと思います。高野幸八は工人ひしめく鳴子系にあって一系列をなす重要工人なのです。明治2年(1869年)10月8日、塗師・幸作の八男として生まれ、18歳で叔父の大沼又五郎につき木地を修業。又五郎の没後、現在の高亀商店の並びに「高幸商店」を開業し、明治31年頃に鳴子を訪れた伊沢為次郎から一人挽きを習ったとのこと。鳴子木地同業組合初代組合長を務め、弟子に鈴木庸吉、遊佐民之助、松田初見がいます。大正9年(1920年)7月25日没。

松田忠雄 1-2
西田民之助写し 4寸

 さて、幸八型を手にしてから暫くの間、古鳴子への興味は大沼岩蔵、大沼甚四郎、庄司永吉ら岩太郎系列と遊佐雄四郎に向いていたのですが、その年の秋に町田木ぼこを訪れたその帰りがけ、店の棚でなんとなく目に留まった可愛らしい作り付けの胴底に「忠雄」の署名を認めたのです。そのこけしのいわれは分かりませんでしたがその後の収集の発展を期待して入手しました。

 松田忠雄工人は昭和31年(1956年)5月2日生まれ。松田三夫長男で、高野幸八の弟子であった松田初見を祖父にもちます。『こけし手帖』421号阿部弘一氏による「松田忠雄と幸八系列のこけし」は平成8年当時までのこけしの変遷が記録された好資料です。同記事のうち、写真⑨の左端に木ぼこで入手したのと同じ手が載っています。それによるとこのこけしは「西田コレクションにある逸品の一つ民之助四寸の写しで、平成六年正月東京こけし友の会例会で頒布された」とのこと。胴底には「6 1 23」と鉛筆でメモ描きがされており、このこけしもその時の頒布品であることが伺えます。二筆による簡単な花が4段。間に図案化された葉が描かれています。目はクリクリとしていて可憐ですが、頭半分よりだいぶ下に描かれた大きな鼻、外側にいく程長くなる鬢、後方が3つに分かれる前髪など、幸八系列の特徴がきちんと備わっています。

松田忠雄 1-3
高野幸八型たちこ 3寸5分

 それからひと月ほどすると今度はヤフオクに『鳴子・こけし・工人』口絵に掲載されたうちのもう一本、3寸5分の写しが出品されました。胴底には「H1 1 22」のメモ書き。口絵の写真と比べるとだいぶ頭が小さいため必然的に胴が長くなり、「原」のもつぼってりとして剽軽な味わいに欠ける印象は拭えませんが、幸八型2種、西田民之助4寸と手元に増えたことによって松田忠雄という工人さんに俄然注目するようになり、彼の手掛ける高野幸八型、遊佐民之助型といった古鳴子の写しを収集対象としてはっきりと意識するようになったのです。

参考リンク
kokeshi wiki「松田忠雄」
kokeshi wiki「高野幸八」

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