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001: 新山左京

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初めて入手した伝統こけしは、弥治郎系・新山左京工人の9寸であった。

2014年2月、北鎌倉の「おもと」さんに立ち寄った際に数あるこけしの中から直感で選んだ一本。まだその当時は伝統こけしが11系統に分類されている事や、手にしたこのこけしが弥治郎系の工人さんによるものであるということなどまったく分からなかったわけであるが、今から考えると①桜材の使用による木の色調と木目の美しさ、②余計な装飾を配した簡潔なフォルムといったこの時の判断材料は、かつてコントラバスを購入した時のそれとまったく同じであるということに気付く。コントラバスを入手したのが今から約11年前であるから、それ以来自分の美的感覚がまったく変化していないという事実も伺い知ることができて少し面白い。ちなみにコントラバスも飾りっけなどまったくないドイツ産の質実剛健なものを選んでいる。

今、改めてこのこけしを見直してみると、なかなか見所の多いこけしであるように思う。頭と胴の比率はおよそ1:3。首から肩にかけてなだらかな曲線を描いた後は胴底にかけて徐々に末広がりになっていくAラインの木地形態で、小さな頭と相まってスマートな佇まいを漂わす。

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頭頂は轆轤線によるベレー帽。桜材に乗せた紫色が深い味わいを醸す。

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胴底には「新山左京」という署名とともに「玉山型」と記されている。「玉山型」に関しては寡聞にして詳細がはっきりとしないが、このような木地形態、着物模様と轆轤線の組み合わせの型であると推測される。「おもと」の店主さんは、「本来この型は胴が黄色く塗られるがこのこけしは桜材なので黄色は塗られていない」と教えてくれたと記憶する。たしかに「こけし 玉山型」などで画像検索すると黄色い胴の似たようなこけしが散見される。こういったところを確認しておきたいと思うのだが適当な資料がないのは残念なところではある。また、胴底には鉛筆で「46」と書き込みがある。この手の書き込みからすると昭和46年入手と考えるのが妥当であるが、仮にそうだとすると1971年頃のこけしであると推測される。(ただし、前所有者の46番目に入手したこけしであるという可能性もまた否定はできない。)

今ある手元の資料で新山左京工人について確認すると、昭和9年(1934年)3月18日生まれ、木地業・新山左内長男とあり、「父左内の玉山時代に生まれ、父とともに日立市助川、福島県矢祭を経て、昭和24年に弥次郎へ帰郷した。木地は同年から父について修行し、新型を多く挽いたが、昭和30年頃より左内の型を作り、また40年より英五郎型も作っている。」とのこと。(土橋慶三監修(1973)『伝統こけしガイド』美術出版社 p.93)

胴中央の轆轤線は、端を緑で縁取り、次に赤を大小交互に3本ずつ、続いて太めの紫、中央を同じ太さの緑で線引きした後、対照的な色使いでもって折り返している。表側の轆轤線は残念ながら少なからず退色してしまっていることが胴の裏側を見れば分かるのだが、桜材特有の木肌の濃さにより退色の印象は薄れている。もっともこけし初心者たる当時の自分にはもちろんそこまで注意を払う事はできなかったわけであるが。着物の裾付近には赤と緑の井桁が描かれていて控えめな洒脱さを感じる。

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頭部の接写。「ぽっぽ堂こけしギャラリー」さんに新山左内工人の玉山時代の古作が掲載されている。昭和8年という大変古い逸品であるが、この時期のこけしがここでいう「玉山型」の原型であると考えてもよいだろう。昭和一桁の古作と比較するのは少し酷ではあるが、比べてみるとぽっぽ堂さんの古作にみられるとぼけたようなユーモラスに欠け、表情が硬直であることがわかる。眼点の大きさに由来するものであろうか。しかし相対的な比較を差し置くと、このこけしはこのこけしで素朴で簡素な大らかさをたたえていると思う。真っ直ぐ前を見据えた眼差しをもった素直なこけしである。

初めて手に入れる伝統こけしというのは後にも先にもこれ一本である。このこけしが自分にとっては伝統こけしの出発地点であり、全てのこけしにたいする基準点となるわけである。お会計を済ました後で「おもと」の店主さんが言われた「大事にしてあげて下さい」という一言がただただ身に滲みる。
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