022: 柏倉勝郎 ③
2015年の4月1日にヤフオクのひやね出品から落札したおぼちゃ園にとって初めての柏倉勝郎作である。

黒光りするこけしは年代推定が至難とされる。この状態のこけしは普段なら手を出す対象とならないが、偏愛する柏倉勝郎のこけしということに加えて、胴底に「二八.一二.一二 名和氏ヨリ」という覚書がされていることに惹かれて落手に至った。
写真を見れば分かる通り、飴色になった木地は赤の判別もままならない。一体どう保管したらこうなるのか。蒐集家の保管の仕方によって何百万という値段もつけば見向きもされないような木片ともなり得る。こけしの運命は全て蒐集家の手に委ねられている。せめて拙蔵となったこけし達はこのような運命を辿らないようにしていきたいものである。
話が逸れた。

大きさは7寸。頭部はゆるい嵌め込み。4段の重ね菊の花弁には筆致の強弱がある。肩はそれほど高くなく、頭部と接する辺りで急激にすぼむ。表情静寂、上瞼に沿って眼点が打たれる。
ここで胴底の覚書にある「名和氏」に触れておく必要があるかもしれない。名和姓の蒐集家というと京都の名和昌夫氏、そして東京の名和好子・明行夫妻が挙げられる。
まず名和昌夫氏。『こけし手帖 4号』の「こけし蒐集アンケート(5)」によると蒐集を始めたのは昭和26年。「當時仙台駐在となつたのを機会に東北独特のものを何か一つ研究しようと思いこけしを取り上げた」とあり、昭和30年時点で600本ほどを所有していたと回答している。『こけし手帖 13号』には「山形追想」という題で小林清蔵、小林吉三郎、石沢角四郎の家を訪ねた際の思い出を綴っている。文末に昭和27年から28年にかけての話と記されており、氏が仙台を拠点として蒐集された時期は覚書の年に重なる。
もう一方の名和好子・明行夫妻。両氏の所蔵品は名和コレクションとしても有名で戦後の著名な蒐集家として知られている。『こけし辞典』にも「名和コレクション」の項があり、
昭和二五年ころより亡夫明行氏と共に収集、当時信濃町にあって、西田、土橋、鹿間、武田、溝口、山田、牧野、稲垣、佐藤諸氏集まり、カスミ会談合の場所となったころより物量的白熱的に集め、二八年赤坂田町に移転、名和総合美容研究所となるに及び、その一階にこけしの部屋が出来、二階で東京こけし友の会が発会された。両氏は同会生みの親であり友の会初期の庶務会計に参加した。
とある。『こけし手帖 2号』の「こけし蒐集アンケート(3)」の名和和子氏の回答によると昭和30年時点での所有本数は「わからない 家族のある者は三千本と言いあるものは二千本と言い 又千五百本と言い頭痛のたね」であったとのこと。わずか5年ほどで数千本を蒐集するというのは相当の白熱振りをもってしないと達成できることではない。美容家であった名和好子氏は全国を飛び回る中、出張する際に日程を一日延ばしてこけし行脚をしていったという。或いは酒田への出張ついでにこのこけしを入手し、その後増え過ぎた所蔵品整理のため他人へ譲渡したという可能性も充分に考えられるが本当のところは分からない。胴底の覚書の時期はやはり両夫妻の蒐集白熱時代とも合致する。
名和昌夫氏、名和好子・明行夫妻。いずれにしても戦後の有名な蒐集家の旧蔵品であることは間違いないことである。
『こけし手帖 339号』川上克剛氏による「異才・柏倉勝郎こけしの魅力」によると勝郎は戦中から途絶えていたこけし作りを昭和26年頃から再開したとされる。つまり昭和26〜28年頃に製作された新作を名和氏が入手し、知り合いにわけたと考えても不自然なところはない。ただし可能性としては、昭和26年以前の戦前作を入手していたということも考えられるが『こけし手帖 339号』に掲載された10本と照らし合わせると、重ね菊の花弁や全体の佇まい等から戦後の復活作の作風に近いように思われるのである。
名和夫妻による名和コレクションは後に『美しきこけしー名和好子こけしコレクション図譜』という写真集になり、現在は遠刈田系なら蔵王こけし館、鳴子系なら日本こけし館という具合にそれぞれの生まれた土地のこけし館に分割して寄贈されている。2014年の11月に遠刈田の蔵王こけし館で寄贈されている名和コレクションの名品に心打たれた経緯は菅原敏の項で既に触れた。その名蒐集家の旧蔵品(正確にはその可能性もあるこけし)ということもあり、入手に執念を燃やしたという次第。

保存状態も良くはない上、必ずしも名品というわけでもないが、今にしてみるとこのこけしの入手は今後のこけし蒐集に対するある種の決意表明であったように思う。このような古作は天下の回りものである。かつて名和氏の手の中に収められたであろうこのこけしが、知人の手に渡り、巡り巡ってひやねのネットオークションに出品され、こうしておぼちゃ園の所蔵となった。このこけしにはそれだけの歴史があり、今度は私がその歴史を語る役目を仰せつかっているだけに過ぎないのかもしれない。
その状態如何に関わらずおぼちゃ園蒐集品の中でも特別な一本である。
過去の本間久雄関連記事
「016: 柏倉勝郎 ②」
「004: 柏倉勝郎 ①」

黒光りするこけしは年代推定が至難とされる。この状態のこけしは普段なら手を出す対象とならないが、偏愛する柏倉勝郎のこけしということに加えて、胴底に「二八.一二.一二 名和氏ヨリ」という覚書がされていることに惹かれて落手に至った。
写真を見れば分かる通り、飴色になった木地は赤の判別もままならない。一体どう保管したらこうなるのか。蒐集家の保管の仕方によって何百万という値段もつけば見向きもされないような木片ともなり得る。こけしの運命は全て蒐集家の手に委ねられている。せめて拙蔵となったこけし達はこのような運命を辿らないようにしていきたいものである。
話が逸れた。

大きさは7寸。頭部はゆるい嵌め込み。4段の重ね菊の花弁には筆致の強弱がある。肩はそれほど高くなく、頭部と接する辺りで急激にすぼむ。表情静寂、上瞼に沿って眼点が打たれる。
ここで胴底の覚書にある「名和氏」に触れておく必要があるかもしれない。名和姓の蒐集家というと京都の名和昌夫氏、そして東京の名和好子・明行夫妻が挙げられる。
まず名和昌夫氏。『こけし手帖 4号』の「こけし蒐集アンケート(5)」によると蒐集を始めたのは昭和26年。「當時仙台駐在となつたのを機会に東北独特のものを何か一つ研究しようと思いこけしを取り上げた」とあり、昭和30年時点で600本ほどを所有していたと回答している。『こけし手帖 13号』には「山形追想」という題で小林清蔵、小林吉三郎、石沢角四郎の家を訪ねた際の思い出を綴っている。文末に昭和27年から28年にかけての話と記されており、氏が仙台を拠点として蒐集された時期は覚書の年に重なる。
もう一方の名和好子・明行夫妻。両氏の所蔵品は名和コレクションとしても有名で戦後の著名な蒐集家として知られている。『こけし辞典』にも「名和コレクション」の項があり、
昭和二五年ころより亡夫明行氏と共に収集、当時信濃町にあって、西田、土橋、鹿間、武田、溝口、山田、牧野、稲垣、佐藤諸氏集まり、カスミ会談合の場所となったころより物量的白熱的に集め、二八年赤坂田町に移転、名和総合美容研究所となるに及び、その一階にこけしの部屋が出来、二階で東京こけし友の会が発会された。両氏は同会生みの親であり友の会初期の庶務会計に参加した。
とある。『こけし手帖 2号』の「こけし蒐集アンケート(3)」の名和和子氏の回答によると昭和30年時点での所有本数は「わからない 家族のある者は三千本と言いあるものは二千本と言い 又千五百本と言い頭痛のたね」であったとのこと。わずか5年ほどで数千本を蒐集するというのは相当の白熱振りをもってしないと達成できることではない。美容家であった名和好子氏は全国を飛び回る中、出張する際に日程を一日延ばしてこけし行脚をしていったという。或いは酒田への出張ついでにこのこけしを入手し、その後増え過ぎた所蔵品整理のため他人へ譲渡したという可能性も充分に考えられるが本当のところは分からない。胴底の覚書の時期はやはり両夫妻の蒐集白熱時代とも合致する。
名和昌夫氏、名和好子・明行夫妻。いずれにしても戦後の有名な蒐集家の旧蔵品であることは間違いないことである。
『こけし手帖 339号』川上克剛氏による「異才・柏倉勝郎こけしの魅力」によると勝郎は戦中から途絶えていたこけし作りを昭和26年頃から再開したとされる。つまり昭和26〜28年頃に製作された新作を名和氏が入手し、知り合いにわけたと考えても不自然なところはない。ただし可能性としては、昭和26年以前の戦前作を入手していたということも考えられるが『こけし手帖 339号』に掲載された10本と照らし合わせると、重ね菊の花弁や全体の佇まい等から戦後の復活作の作風に近いように思われるのである。
名和夫妻による名和コレクションは後に『美しきこけしー名和好子こけしコレクション図譜』という写真集になり、現在は遠刈田系なら蔵王こけし館、鳴子系なら日本こけし館という具合にそれぞれの生まれた土地のこけし館に分割して寄贈されている。2014年の11月に遠刈田の蔵王こけし館で寄贈されている名和コレクションの名品に心打たれた経緯は菅原敏の項で既に触れた。その名蒐集家の旧蔵品(正確にはその可能性もあるこけし)ということもあり、入手に執念を燃やしたという次第。

保存状態も良くはない上、必ずしも名品というわけでもないが、今にしてみるとこのこけしの入手は今後のこけし蒐集に対するある種の決意表明であったように思う。このような古作は天下の回りものである。かつて名和氏の手の中に収められたであろうこのこけしが、知人の手に渡り、巡り巡ってひやねのネットオークションに出品され、こうしておぼちゃ園の所蔵となった。このこけしにはそれだけの歴史があり、今度は私がその歴史を語る役目を仰せつかっているだけに過ぎないのかもしれない。
その状態如何に関わらずおぼちゃ園蒐集品の中でも特別な一本である。
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