023: 遠藤幸三
こけし収集の割と早い段階で遠藤幸三というこけし工人を知り、以来心の片隅で気に留めてきた。『木の花 第29号』に掲載された箕輪新一氏による「万屋 ー時代と周辺ー(中)」という記事がそもそものきっかけであったと思う。おかっぱ頭と甘い眼差しが印象的なこけしは蔵王高湯系の中でも自分好みのように思えたがその後特に入手に至る機会には恵まれてはこなかった。
2015年10月30日、高円寺で開催されたマイファーストこけしの会場で遠方よりいらしていたSさん他一行と収穫物を披露し談笑する機会があった。Sさんの入手されたこけしの中にこの遠藤幸三7寸があった。枯れた筆致による表情は頗る甘美で状態も良好。なかなか良いこけしを入手されたなと感心したが、聞けば東京こけし友の会が実施した一回300円のくじの景品であると言う。そして帰りの手荷物が増えて困るので私にもらってくれないかとおっしゃるではないか。或いは物欲しそうな目で見ていたのかもしれぬ。収集家の卑しき業かな。といいつつ厚かましくもお言葉に甘え頂いてしまった次第である。

1. 文献
遠藤幸三についてまとめられた文献を整理してみる。
・こけし辞典 遠藤幸三の項(昭和46年初版)
・山形のこけし (昭和56年)
・木の花 第28号 矢田正生「戦後の幸三こけし」(昭和56年)
・木の花 第29号 箕輪新一「万屋 ー時代と周辺ー(中)」(昭和56年)
・こけし手帖 326号 四園楸「蔵王萬屋・最後の工人遠藤幸三」(昭和63年)
2. 歩み
蔵王高湯系は大きく、①能登屋、②三春屋(緑屋含む)、③万屋、④木地屋代助に分類される。能登屋であれば岡崎栄治郎、三春屋は斉藤松治、緑屋は斉藤源吉、万屋は我妻勝之助、木地屋代助は岡崎長次郎がそれぞれ中心的な重要工人として挙げられるだろう。他の店と違い万屋は当主が木地を挽かなかった。その為多くの職人が出入りすることになったがそのうちの一人が遠藤幸三であった。
遠藤幸三は明治44年(1911年)1月5日、山形市滝山村上桜田に生まれた。子供のいなかった万屋の後継ぎになる約束で大正10年、11歳の時に蔵王へ移った。昭和2年、17歳でその頃万屋の職人であった吉田仁一郎(よしだにいちろう:1899~1940)について木地挽きを習う。その後当主の藤助に子供が生まれたため後継ぎの話はなくなった。蔵王を後にした幸三は銀山を経て応召、復員後再び万屋の職人に。しかし昭和23年(1948年)に万屋が旅館に転業したのを機に山形市上山家に移り独立するも一年で木地挽きを休業して酒造店へ就職してしまった。
幸三が再びこけし作りを再開するのは昭和34年(1959年)、48歳の時。しばたはじめ氏と露木昶氏の働きかけによるもので、他人の挽いた木地に描彩だけを行った。描彩は昭和50年代まで続けられたが、『こけし手帖 326号』によると「昭和六十年以降は、残念ながらほとんどこけしを作っていない」状況であったという。遠藤幸三は平成3年(1991年)3月30日に老衰のため亡くなった。行年80歳。
3. こけし
『木の花 第28号』矢田正生による「戦後の幸三こけし」に年代変遷が写真入りで掲載されている。この記事を参考に今回入手した幸三作を探ってみたい。
先ず旭菊による胴模様であるが、一枚の花弁を二筆で描く様式は②の昭和35年10月作に近い。葉の形状も似ているように思われる。③以降は花弁が一筆で描かれているように見受けられる。木地形態を見てみると、面長の頭部も②に違いが、「頭の中剃りはない。旭菊の花弁は一番下を除いて左右三弁ずつである」という記述にこのこけしとの相違点が見受けられる。このこけしには緑の中剃りがある。鼻のそりがU字になる点は③の昭和37年7月作に近く、説明にある「この時期前後に中剃りのあるものも見られる」という記述と合致する。胴底の署名は「山形 遠藤 幸三」であり、⑦の昭和49年9月までという記述と一致する。以上のことから②(昭和35年10月)から③(昭和37年7月)の間に作られたものと推定できる。
『木の花 第28号』によると「<ガイド>には小林誠太郎木地との記載があるが、これはごく最初で、以後は大宮正安の木地が多い」とある。大宮正安は同じ蔵王高湯系、能登屋のこけし工人であり、この工人にも興味があるのでまた別の機会に取り上げようと考えている。

さて、製作年の近い②の説明には「描彩も、復活時のような繊細な描き方ではなくて、訥々として筆太く、淳朴な描き方が好ましい。いわゆる上手なこけしではなく、むしろ粗筆と言えよう。普段上手のこけしを見慣れている目には、この幸三の描彩はなんともたよりないが、小さい猫鼻が目に寄って、小さく結んだ口の朴訥な雰囲気はなんともいえず好ましい。」とある。
『こけし古作図譜』や或いは実際に各地のこけし館で古品を見て思うのは面描における筆の揺れが得も言えぬ味わいを醸しているという点である。もちろん古品の中にも揺れひとつない面描のこけしは山とあるが、少なくとも自分の興味を惹くのはどうもそういった筆の揺れのあるこけしなのである。現代のこけしの面描は得てして均整が取れ過ぎてこの揺れが感じられるものが少ないようにも思われる。執筆者矢田氏のいうところの「上手のこけし」ということであろう。ヤフオクで夜な夜な高値で取引される古品こけしにあって現代のこけしにないもの、それを考えるとこの一世紀の間に失われてきたものが何であるかは自ずと見えてくるような気もするのであるが。
たどたどしい面描に深い味わいを漂わす良作をお譲りいただいたSさんに改めて感謝申し上げます。
2015年10月30日、高円寺で開催されたマイファーストこけしの会場で遠方よりいらしていたSさん他一行と収穫物を披露し談笑する機会があった。Sさんの入手されたこけしの中にこの遠藤幸三7寸があった。枯れた筆致による表情は頗る甘美で状態も良好。なかなか良いこけしを入手されたなと感心したが、聞けば東京こけし友の会が実施した一回300円のくじの景品であると言う。そして帰りの手荷物が増えて困るので私にもらってくれないかとおっしゃるではないか。或いは物欲しそうな目で見ていたのかもしれぬ。収集家の卑しき業かな。といいつつ厚かましくもお言葉に甘え頂いてしまった次第である。

1. 文献
遠藤幸三についてまとめられた文献を整理してみる。
・こけし辞典 遠藤幸三の項(昭和46年初版)
・山形のこけし (昭和56年)
・木の花 第28号 矢田正生「戦後の幸三こけし」(昭和56年)
・木の花 第29号 箕輪新一「万屋 ー時代と周辺ー(中)」(昭和56年)
・こけし手帖 326号 四園楸「蔵王萬屋・最後の工人遠藤幸三」(昭和63年)
2. 歩み
蔵王高湯系は大きく、①能登屋、②三春屋(緑屋含む)、③万屋、④木地屋代助に分類される。能登屋であれば岡崎栄治郎、三春屋は斉藤松治、緑屋は斉藤源吉、万屋は我妻勝之助、木地屋代助は岡崎長次郎がそれぞれ中心的な重要工人として挙げられるだろう。他の店と違い万屋は当主が木地を挽かなかった。その為多くの職人が出入りすることになったがそのうちの一人が遠藤幸三であった。
遠藤幸三は明治44年(1911年)1月5日、山形市滝山村上桜田に生まれた。子供のいなかった万屋の後継ぎになる約束で大正10年、11歳の時に蔵王へ移った。昭和2年、17歳でその頃万屋の職人であった吉田仁一郎(よしだにいちろう:1899~1940)について木地挽きを習う。その後当主の藤助に子供が生まれたため後継ぎの話はなくなった。蔵王を後にした幸三は銀山を経て応召、復員後再び万屋の職人に。しかし昭和23年(1948年)に万屋が旅館に転業したのを機に山形市上山家に移り独立するも一年で木地挽きを休業して酒造店へ就職してしまった。
幸三が再びこけし作りを再開するのは昭和34年(1959年)、48歳の時。しばたはじめ氏と露木昶氏の働きかけによるもので、他人の挽いた木地に描彩だけを行った。描彩は昭和50年代まで続けられたが、『こけし手帖 326号』によると「昭和六十年以降は、残念ながらほとんどこけしを作っていない」状況であったという。遠藤幸三は平成3年(1991年)3月30日に老衰のため亡くなった。行年80歳。
3. こけし
『木の花 第28号』矢田正生による「戦後の幸三こけし」に年代変遷が写真入りで掲載されている。この記事を参考に今回入手した幸三作を探ってみたい。
先ず旭菊による胴模様であるが、一枚の花弁を二筆で描く様式は②の昭和35年10月作に近い。葉の形状も似ているように思われる。③以降は花弁が一筆で描かれているように見受けられる。木地形態を見てみると、面長の頭部も②に違いが、「頭の中剃りはない。旭菊の花弁は一番下を除いて左右三弁ずつである」という記述にこのこけしとの相違点が見受けられる。このこけしには緑の中剃りがある。鼻のそりがU字になる点は③の昭和37年7月作に近く、説明にある「この時期前後に中剃りのあるものも見られる」という記述と合致する。胴底の署名は「山形 遠藤 幸三」であり、⑦の昭和49年9月までという記述と一致する。以上のことから②(昭和35年10月)から③(昭和37年7月)の間に作られたものと推定できる。
『木の花 第28号』によると「<ガイド>には小林誠太郎木地との記載があるが、これはごく最初で、以後は大宮正安の木地が多い」とある。大宮正安は同じ蔵王高湯系、能登屋のこけし工人であり、この工人にも興味があるのでまた別の機会に取り上げようと考えている。

さて、製作年の近い②の説明には「描彩も、復活時のような繊細な描き方ではなくて、訥々として筆太く、淳朴な描き方が好ましい。いわゆる上手なこけしではなく、むしろ粗筆と言えよう。普段上手のこけしを見慣れている目には、この幸三の描彩はなんともたよりないが、小さい猫鼻が目に寄って、小さく結んだ口の朴訥な雰囲気はなんともいえず好ましい。」とある。
『こけし古作図譜』や或いは実際に各地のこけし館で古品を見て思うのは面描における筆の揺れが得も言えぬ味わいを醸しているという点である。もちろん古品の中にも揺れひとつない面描のこけしは山とあるが、少なくとも自分の興味を惹くのはどうもそういった筆の揺れのあるこけしなのである。現代のこけしの面描は得てして均整が取れ過ぎてこの揺れが感じられるものが少ないようにも思われる。執筆者矢田氏のいうところの「上手のこけし」ということであろう。ヤフオクで夜な夜な高値で取引される古品こけしにあって現代のこけしにないもの、それを考えるとこの一世紀の間に失われてきたものが何であるかは自ずと見えてくるような気もするのであるが。
たどたどしい面描に深い味わいを漂わす良作をお譲りいただいたSさんに改めて感謝申し上げます。
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