024: 本間義勝 ②
現在、酒田市内の若葉旅館で販売されている本間義勝の酒田こけしは平成10年(1999年)に地元愛好家の要請により描彩のみ再開した言うならば復活作である。一方、休業前に義勝が製作したこけしはなかなか見かけない。

本間義勝前期作
「006: 本間義勝 ①」の項と一部重複するが、本間義勝は昭和24年(1949年)5月18日生まれ。『こけし全工人の栞』には「高校卒業后父本間久雄に師事して木地を修業して昭和59年頃からこけしを作りはじめて柏倉勝郎の系統を継いだ」と記されている。高校を卒業し木地修行を始めたが昭和43年(1968年)。昭和51年(1976年)、27歳の時に酒田大火に遭う。
『こけし全工人の栞』の記述は酒田大火後も昭和59年まで継続して木地挽きをしていたととれる。昭和56年(1981年)11月に発行された『山形のこけし』の本間久雄の項においても「長男義勝も木地を挽くが、現在のところこけしは作らない」とされており、酒田大火の影響については触れられていない。一方、kokeshi wiki には「昭和51年10月の酒田大火で自宅及び作業場を焼失、以後は以後は市内若浜町へ転居しサラリーマンとなった」とあり、他と少し食い違いが認められる。転業した時期に関しては尚検討の必要があるだろう。
それはさておき、3者ともに酒田大火以前、義勝が木地挽きをしていたという記述こそあれど、こけしを作っていたという記述はしていない。しかし個人的には、その時期に父久雄名義のこけしの下挽きをしていた可能性は否定できないように思う。後述するように久雄後期作と義勝作の作風があまりにも接近しているためである。手持ちの久雄作に「56.2.22」とメモ書きされたこけしがある。仮に下挽きをしていたとすると酒田大火以降も何らかの形で義勝は木地挽きを続けていたとも考えられる。さらにこけしを作りはじめたという昭和59年(1984年)は久雄が亡くなった年であり、或いは父亡き後、こけしの名義を本人のものにしたという見方もできるだろう。いずれにせよ、推測の域を脱しない。
休業以前の義勝作(仮に義勝前期作とする)は面描、色調、佇まいともに久雄の後期作と通じる。見分けをつけるのはなかなか難しい。頭髪の長さの違い、つまりおでこの広さあたりに差異があるのかもしれないが、それとて個体差の問題によるものである可能性も否定できない。

久雄後期作と義勝作
重ね菊の花弁の枚数が、復活後(上写真の右端)は左6枚右4枚と非対称であったのに対し、前期(同右から2本目)は左右とも6枚ずつになっている。久雄の後期作(同左2本)をみると左6枚右4枚になっていることから花弁の枚数が左右対称となっているのはこの時期の義勝作の特徴なのかもしれない。但し、そのような視点で改めて「006: 本間義勝 ①」に掲載した3寸大の2本を見ると左右とも6枚となっており、このことは今後の検討課題としなくてはならない。
6寸の木地は久雄作と比べると首周辺の胴上部が細く、胴裾にかけてAラインを形成する。所謂、三角胴に近い。面描は鋭く、どこかツンとすました表情は復活後の後期作と並べてもそこに年代的変化は認められない。髷付き6寸は久雄作の後期型を6寸サイズに落とし込んだ様式で、胴中央の轆轤線を境とし上下に重ね菊を2輪ずつ配している。形態はややボッテリとしている印象を受ける。胴底に「63.6」のメモ書きがされている。義勝前期作の胴底は中期以降の久雄作と同様、通し鉋となっており、同じ製作手法によるものであることが伺える。

義勝作の胴底(右端は他人木地による後期作)
昭和59年から休業までの義勝作は久雄後期作の延長線上にあり、木地形態には本人の工夫がみられるものの、師である久雄がその生涯をかけて確立した本間家による酒田こけしの型を忠実に継承していると考えられる。
しかし時は第2次こけしブーム終焉後。他の系統でさえ苦戦を強いられていたこけし界にとって冬の時代に雑系である酒田こけしが人気を得られたとはとても考えられず、残念ながら義勝のこけし作りは中断を余儀なくされるのである。その貴重な義勝作を求めた蒐集家は当時それほど多くはなかったことは想像に難くない。こけし製作期間が第二次こけしブームとちょうど重なる久雄作が割と中古市場に出回るのとはやはり対照的ではある。

本間義勝前期作
「006: 本間義勝 ①」の項と一部重複するが、本間義勝は昭和24年(1949年)5月18日生まれ。『こけし全工人の栞』には「高校卒業后父本間久雄に師事して木地を修業して昭和59年頃からこけしを作りはじめて柏倉勝郎の系統を継いだ」と記されている。高校を卒業し木地修行を始めたが昭和43年(1968年)。昭和51年(1976年)、27歳の時に酒田大火に遭う。
『こけし全工人の栞』の記述は酒田大火後も昭和59年まで継続して木地挽きをしていたととれる。昭和56年(1981年)11月に発行された『山形のこけし』の本間久雄の項においても「長男義勝も木地を挽くが、現在のところこけしは作らない」とされており、酒田大火の影響については触れられていない。一方、kokeshi wiki には「昭和51年10月の酒田大火で自宅及び作業場を焼失、以後は以後は市内若浜町へ転居しサラリーマンとなった」とあり、他と少し食い違いが認められる。転業した時期に関しては尚検討の必要があるだろう。
それはさておき、3者ともに酒田大火以前、義勝が木地挽きをしていたという記述こそあれど、こけしを作っていたという記述はしていない。しかし個人的には、その時期に父久雄名義のこけしの下挽きをしていた可能性は否定できないように思う。後述するように久雄後期作と義勝作の作風があまりにも接近しているためである。手持ちの久雄作に「56.2.22」とメモ書きされたこけしがある。仮に下挽きをしていたとすると酒田大火以降も何らかの形で義勝は木地挽きを続けていたとも考えられる。さらにこけしを作りはじめたという昭和59年(1984年)は久雄が亡くなった年であり、或いは父亡き後、こけしの名義を本人のものにしたという見方もできるだろう。いずれにせよ、推測の域を脱しない。
休業以前の義勝作(仮に義勝前期作とする)は面描、色調、佇まいともに久雄の後期作と通じる。見分けをつけるのはなかなか難しい。頭髪の長さの違い、つまりおでこの広さあたりに差異があるのかもしれないが、それとて個体差の問題によるものである可能性も否定できない。

久雄後期作と義勝作
重ね菊の花弁の枚数が、復活後(上写真の右端)は左6枚右4枚と非対称であったのに対し、前期(同右から2本目)は左右とも6枚ずつになっている。久雄の後期作(同左2本)をみると左6枚右4枚になっていることから花弁の枚数が左右対称となっているのはこの時期の義勝作の特徴なのかもしれない。但し、そのような視点で改めて「006: 本間義勝 ①」に掲載した3寸大の2本を見ると左右とも6枚となっており、このことは今後の検討課題としなくてはならない。
6寸の木地は久雄作と比べると首周辺の胴上部が細く、胴裾にかけてAラインを形成する。所謂、三角胴に近い。面描は鋭く、どこかツンとすました表情は復活後の後期作と並べてもそこに年代的変化は認められない。髷付き6寸は久雄作の後期型を6寸サイズに落とし込んだ様式で、胴中央の轆轤線を境とし上下に重ね菊を2輪ずつ配している。形態はややボッテリとしている印象を受ける。胴底に「63.6」のメモ書きがされている。義勝前期作の胴底は中期以降の久雄作と同様、通し鉋となっており、同じ製作手法によるものであることが伺える。

義勝作の胴底(右端は他人木地による後期作)
昭和59年から休業までの義勝作は久雄後期作の延長線上にあり、木地形態には本人の工夫がみられるものの、師である久雄がその生涯をかけて確立した本間家による酒田こけしの型を忠実に継承していると考えられる。
しかし時は第2次こけしブーム終焉後。他の系統でさえ苦戦を強いられていたこけし界にとって冬の時代に雑系である酒田こけしが人気を得られたとはとても考えられず、残念ながら義勝のこけし作りは中断を余儀なくされるのである。その貴重な義勝作を求めた蒐集家は当時それほど多くはなかったことは想像に難くない。こけし製作期間が第二次こけしブームとちょうど重なる久雄作が割と中古市場に出回るのとはやはり対照的ではある。
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