031: 佐藤治郎
こけしに興味を持ち始めた当初、寝ても覚めてもこけしこけしという塩梅で膨大な記事数をものともせず「こけし千夜一夜物語」を古い記事順に読み進めていった。その中で特に大沼昇治を中心とする遠刈田系の梅こけしには心惹かれるものがあり、オークションでも注目する型となった。最初に入手した遠刈田系梅こけしは大沼昇治ではなくその師匠、佐藤治郎による7寸であった。手元のメモを確認すると9本目に手にした伝統こけしということである。まさに収集しはじめの頃に入手したものということになるが、この前後に入手した尺サイズのこけし群は初こけしである新山左京9寸を残し思い切りよく整理した。そのような断捨離めいた状況でも整理対象にならず今もこうして手元に置いているということはそれだけ何か惹かれるものを感じているからなのだろう。
佐藤治郎は大正4年(1915年)7月13日、農業を営む木須春五郎の三男として生まれた。余談ではあるが自分と誕生日が一緒なのもあり親近感を感じているところは少なからずある。さて、治郎は昭和15年(1940年)に遠刈田新地の佐藤円吉の三女やいと結婚し婿養子となった。昭和18年(1943年)より義父について足踏みロクロを学ぶ。この時28歳ということで木地を始めたのはだいぶ遅かったということになる。その後、北岡工場での職人経験を経て昭和29年(1954年)に動力ロクロを取り付け独立。昭和31年(1956年)には大沼昇治を弟子に取り、この頃より伝統こけしを専門に作るようになったという。

この梅こけしは工人55歳の時の作。頭部、胴下部のくびれともやや角張った形態である。古色、シミ深く、当初は頭部のロウが浮き白っぽくなっていた。この傾向は治郎のみならず、後継者である大沼昇治のこけしでも散見されるもののように思うが単なる偶然だろうか。ロウの浮きは①ドライヤーの熱を当てる②乾いた布などでゴシゴシこすり落とす、のいずれかの方法で解決できるようだが今のところどちらが良いのかは判断がつきかねる。胴の上部に一輪、下部に三輪、梅花がぼてっとした調子で描かれ、蕾は輪郭によって表現される。同時期に手に入れた佐藤誠孝の小倉嘉三郎型梅こけしと並べるとまるで恋人のようによく似合い、楽しむことができた。まわりが一尺のこけしばかりであったから、一層このこけしが可憐にみえたのかもしれない。面描は割れ鼻大きく、下瞼が上瞼にくっつかず甘い表情の大きな瞳は典型的な遠刈田系の二側目とは趣を異にし、特徴的である。
このこけし以降、少なからず治郎作の梅こけしを見てきたがもう一本入手というところまではいかなかった。木地形態であったり、表情であったり、状態であったり、それぞれになにかしらの不満点があってなかなか満足できるものに巡り会うことができなかったのであるが、「026: 山尾昭」「021: 大沼昇治 ①」の項で紹介したこけしと同時に落札したこの8寸はそれまで見てきた治郎作とは一線を画するものがあった。胴底に48歳作と記されたこのこけしの面描、胴模様は極めて丁寧な仕上がりで上述の55歳作とはまた違う魅力を有している。

『こけし手帖 547号』に柴田長吉郎氏による「佐藤治郎さんの思い出」という追悼文が載っている。それによると治郎が円吉型の梅こけしを復元したのは昭和38年(1963年)であるようだ。単純計算すると「1963-1915=48」つまり工人48歳の時であり、この8寸はまさに円吉型の初期作であることが推測される。55歳作にみられるような、向って左側の眉と目尻が下がる傾向はなく目眉とも左右対称に描かれ、梅花も緑の葉も律儀ともいえるほどの慎重な筆運びである。木地形態は丸みを帯びて柔らかい。
治郎の梅こけしはこの48歳作から出発し、数をこなしていく中で徐々に速筆化、抽象化され治郎独自のものへと変化していったということが伺える。前述の記事では柴田氏はそうした変化を次のように記している。
梅こけしは円吉が始めた型で、この形は大野栄治の影響であるが、治郎さんは真面目に義父円吉の型を踏襲したのである。しかし矢張り治郎さん独特のところがあり、円吉でも、弟子の大沼昇治でもなく治郎のこけしであり、一目で治郎作と判った。それは上手・下手と言うよりも寧ろ彼の個性であり、一生それを貫いたと言うことができる。
同記事にはまた昭和46年(1971年)1月の東京こけし友の会例会頒布品6寸が写真掲載されている。工人56歳の作であり、一本目に紹介したこけしとやはり作風は似ている。
佐藤治郎は大正4年(1915年)7月13日、農業を営む木須春五郎の三男として生まれた。余談ではあるが自分と誕生日が一緒なのもあり親近感を感じているところは少なからずある。さて、治郎は昭和15年(1940年)に遠刈田新地の佐藤円吉の三女やいと結婚し婿養子となった。昭和18年(1943年)より義父について足踏みロクロを学ぶ。この時28歳ということで木地を始めたのはだいぶ遅かったということになる。その後、北岡工場での職人経験を経て昭和29年(1954年)に動力ロクロを取り付け独立。昭和31年(1956年)には大沼昇治を弟子に取り、この頃より伝統こけしを専門に作るようになったという。

この梅こけしは工人55歳の時の作。頭部、胴下部のくびれともやや角張った形態である。古色、シミ深く、当初は頭部のロウが浮き白っぽくなっていた。この傾向は治郎のみならず、後継者である大沼昇治のこけしでも散見されるもののように思うが単なる偶然だろうか。ロウの浮きは①ドライヤーの熱を当てる②乾いた布などでゴシゴシこすり落とす、のいずれかの方法で解決できるようだが今のところどちらが良いのかは判断がつきかねる。胴の上部に一輪、下部に三輪、梅花がぼてっとした調子で描かれ、蕾は輪郭によって表現される。同時期に手に入れた佐藤誠孝の小倉嘉三郎型梅こけしと並べるとまるで恋人のようによく似合い、楽しむことができた。まわりが一尺のこけしばかりであったから、一層このこけしが可憐にみえたのかもしれない。面描は割れ鼻大きく、下瞼が上瞼にくっつかず甘い表情の大きな瞳は典型的な遠刈田系の二側目とは趣を異にし、特徴的である。
このこけし以降、少なからず治郎作の梅こけしを見てきたがもう一本入手というところまではいかなかった。木地形態であったり、表情であったり、状態であったり、それぞれになにかしらの不満点があってなかなか満足できるものに巡り会うことができなかったのであるが、「026: 山尾昭」「021: 大沼昇治 ①」の項で紹介したこけしと同時に落札したこの8寸はそれまで見てきた治郎作とは一線を画するものがあった。胴底に48歳作と記されたこのこけしの面描、胴模様は極めて丁寧な仕上がりで上述の55歳作とはまた違う魅力を有している。

『こけし手帖 547号』に柴田長吉郎氏による「佐藤治郎さんの思い出」という追悼文が載っている。それによると治郎が円吉型の梅こけしを復元したのは昭和38年(1963年)であるようだ。単純計算すると「1963-1915=48」つまり工人48歳の時であり、この8寸はまさに円吉型の初期作であることが推測される。55歳作にみられるような、向って左側の眉と目尻が下がる傾向はなく目眉とも左右対称に描かれ、梅花も緑の葉も律儀ともいえるほどの慎重な筆運びである。木地形態は丸みを帯びて柔らかい。
治郎の梅こけしはこの48歳作から出発し、数をこなしていく中で徐々に速筆化、抽象化され治郎独自のものへと変化していったということが伺える。前述の記事では柴田氏はそうした変化を次のように記している。
梅こけしは円吉が始めた型で、この形は大野栄治の影響であるが、治郎さんは真面目に義父円吉の型を踏襲したのである。しかし矢張り治郎さん独特のところがあり、円吉でも、弟子の大沼昇治でもなく治郎のこけしであり、一目で治郎作と判った。それは上手・下手と言うよりも寧ろ彼の個性であり、一生それを貫いたと言うことができる。
同記事にはまた昭和46年(1971年)1月の東京こけし友の会例会頒布品6寸が写真掲載されている。工人56歳の作であり、一本目に紹介したこけしとやはり作風は似ている。
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