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039: 佐藤伝

東京こけし友の会2016年11月例会。残ったこけしの中から上目遣いでこちらを見てくるこけしがいた。けなげでいじらしい。なんともいえない味があり連れて帰ることにした。佐藤伝(つたえ)のこけしである。

佐藤伝
弟子屈 佐藤伝 6寸2分

保存状態は良い。褪色なくロー引きされていない木地は木の質感に富んでいる。頭部は縦長で上下が平らな棗に似た形態。目と眉は離れ、目は顔の中央より下に収まりあどけない。鼻と口は極度に接近し、何かもの言いたそうな、しかし無言で何かを訴えるような表情である。胴は細めで畳付きにかけてはやや裾広がる。ロクロ線の帯によって三分割され、薄い黄胴の上に衿と菊花が描かれる。菊花は上が緑、下が赤で描かれている。裏面にも同様の花模様が描かれているがこちらは上下の色使いが逆になる。筆致は何気なくバサバサと描かれているがこれがかえって子供のおもちゃ然とした素朴を感じさせる一因となっているように見受けられる。

『こけし手帖』658号に「談話会覚書(24)」として佐藤伝、伝喜、伝伍のこけしが取り上げられている。三人とも弥治郎系の重要工人・佐藤伝内の息子である。伝は伝内の二男で明治39年3月26日に生まれた。大正9年から木地を修業するが父の伝内は放浪の人だったため、父の弟子である渡辺求、本田鶴松についた。したがって伝内こけしにみられる、世を睥睨するようなあの鋭さはついぞ受け継がなかった。昭和元年頃に弥治郎を離れると自身も各地を渡り歩いた後、北海道に落ち着く。こけしは昭和4年、屈斜路湖畔にいた頃から作っていたが戦後は休止していた。昭和32年秋田亮氏の勧めで途絶えていたこけし作りを復活させた。昭和55年10月26日に75歳で亡くなっている。

前掲『こけし手帖』によれば「戦後の伝は相当に変質」しているとし、「筆の枯れた晩年作の幼女らしいあどけなさに見どころを探る」と続く。また、『こけし辞典』には「戦前に比して表情少なく情味に欠ける。最近作は若干甘さがでてきた」とあり、昭和41年12月作が掲載されている。

作例からするとおそらく本項のこけしはその頃以降のものであろうと思われるが、たとえ変質し戦前作に比べ情味に欠けていたとしても、綺麗にまとまったこけしの溢れかえる現在にこそ評価されるべきこけしではないだろうか。

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