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004: 柏倉勝郎 ①

※以下は書きかけの記事です。

自分と同じ苗字の工人さんのこけしを集めている。山形県酒田市の本間久雄、本間義勝という工人さんが柏倉勝郎型を継承していたことによって、私のこけしの蒐集はずっと面白いものになったように思う。今回はそのルーツたる柏倉勝郎の話題。

1. 文献

まず手元にある柏倉勝郎に関する文献を確認してみる。

・こけしの微笑 深沢要 口絵(昭和13年 ※『羨こけし』に収録されているもの)
・こけし手帖 27号 大浦泰英「五十川に柏倉勝郎を訪ねる」(昭和34年)
・こけし手帖 46号 白鳥正明「柏倉勝郎とその周辺」(昭和37年)
・こけし辞典 柏倉勝郎・酒田・本間儀三郎・本間久雄の項(昭和46年初版)
・こけし手帖 155号 西田峯吉「酒田の本間久雄」(昭和49年)
・木の花 第22号 宮藤就二「雑系こけしの魅力(2)柏倉勝郎」(昭和54年)
・山形のこけし (昭和56年)
・こけし手帖 339号 川上克剛「異才・柏倉勝郎こけしの魅力」(平成元年)
・こけし手帖 435号 阿部弘一「私の柏倉勝郎こけし」(平成9年)

2. 歩み

詳しい生い立ちはこけし手帖46年に詳しいので概略だけ記するとして、柏倉勝郎(かしわくら かつろう)は明治28年(1895年)2月12日、教員 慶重の長男として生まれた。明治41年(1908年)、14歳の時に父を亡くし、翌年継母の実家である鶴岡の木地業・鈴木末吉方へ転居、弟子入りし木地を修行する。

大正2年(1913年)19歳で本庄・河村辰治のところへ身を寄せるも、一週間で飛び出し湯沢・曲木木工所へ。大正5年(1916年)22歳でよしのと結婚、及位(のぞき)・佐藤文六のもとで佐藤三治、佐藤誠治、鈴木国蔵、門蔵らと働く。当時佐藤文六のもとには佐藤丑蔵も出入りしていたとのことである。大正7年(1918年)24歳の頃、及位村落合滝に木工所ができ、深瀬国男、神尾長八、武田弘、大宮安次郎、渡辺幸九郎らと織物に使う木管の製造に従事した。大正10年(1921年)27歳には金山町の柿崎木工所に移り、その後大正15年(1926年)32歳の時、柿崎木工所閉鎖にともない酒田の片町で開業した。(※白鳥正明氏説。川上克剛氏の記述では大正13年には開業したとしている。)

こけしを作り始めたのは酒田で開業してからで、同地で木地工場を経営していた本間儀三郎の木地に頼まれて賃描きしたのがきっかけであるという。柏倉勝郎のこけしが文献に登場するのは昭和5年(1930年)刊行の『日本郷土玩具・東の部』。白畑重治名義であるが「ビリから一等という落第生」と酷評されている。西田峯吉氏の言葉(こけし手帖155号)を借りれば「昭和五年出版の『日本郷土玩具』で酷評された彼のこけしは、おそらく、見取学問で作った初期のこけしだろうと、私は想像する。

頼まれてこけしを賃描きし始めてからわずか4〜5年の作が写真紹介とともに酷評されるというのはなんとも不運な出だしではあるが、昭和10年(1935年)頃、深沢要氏の来訪があり、『こけしの微笑』の口絵に有名な紹介文とともに掲載される。

もう四年になる。酒田の旅舎で、柏倉勝郎のこけしをはじめて手にした時のよろこびを私は忘れない。その後、会う人毎にこのこけしの事を報告して来たのであるが、今では酒田市の物産陳列館にもなくてはならないお土産物の一つとなっていると聞く。その愛らしい丸顔、首から肩へかけてのなだらかな線、質朴な菊模様は、全体の形態との調和もとれていて心憎いほどのおぼこ振りである。勝郎は「酒田に住んで十四年になりますが、以前及位の佐藤文六さんに就き二年程修行したことがあります。その頃、師匠、弟子、職人の挽くこけしを見ていましたが、この私のこけしは独特のものです」といっていた。勝郎は酒田市上内匠町の本間儀三郎の工場に出入りしていて、こけし絵の賃描きもしているので、儀三郎を作者と誤解している人のあることを附記しておく。(こけしの微笑)

昭和13年(1938年)8月の『こけしの微笑』刊行以後、柏倉勝郎のもとに直接こけしの注文が来るようになったのでやむを得ずこけしの木地も自ら挽くようになった。昭和17年(1942年)7〜9月の間及位の佐藤文六の元で働いた後、48歳で酒田本町7丁目の酒田産業株式会社木工部主任に。50歳まで務めるがしかしこの頃よりこけしの注文が途絶えたため製作するのをやめた。戦時中という時勢もあったのかもしれない。

以後、昭和19〜21年(1944〜1946年)初まで本間儀三郎のもとで働き、同年3月息子の務める五十川(いらがわ)炭鉱に移る。昭和25年(1950年)前後は酒田の横道町で少し木地業をやっていたが、昭和26年(1951年)東京巣鴨、昭和27年(1952年)58歳の時再び五十川へ戻る。

こけし手帖339号、川上克剛氏によると昭和26年頃からこけし製作を復活したとのことである。さらに「翌年あたりから酒田の渡辺玩具店からのみ少量が販売されたらしい。酒田の物産館などで売るようなったのは、昭和三十年以後のことである。」とある。(※こけし手帖27号には「昭和三十一年九月に酒田の渡辺賢秀さんから製作依頼を受け、戦後またこけしを挽き出しました。現在足踏みの向い挽きろくろを使用しております。」と記述。)

昭和34年(1959年)3月20日、大浦泰英氏が来訪、この時の見聞がこけし手帖27号「五十川に柏倉勝郎を訪ねる」として掲載される。その年の11月下旬頃より、神経痛により製作が不能になる。工人65歳。翌年の3月に鶴岡の湯野浜に移り療養。12月24日には白鳥正明氏が来訪し、同じくこけし手帖46号で「柏倉勝郎とその周辺」として掲載される。(「ほとんど半身不随に近いという話を聞いていたがこの時にはもうすっかり元気になっていた。」)それによれば、湯野浜へ移る時に、ロクロは置いて来てしまったということだった。

昭和36年(1961年)、再びロクロを組んで30本ほどこけしを製造し、そのうちの10本を川上克剛氏に送る。昭和39年(1964年)の3月にその川上克剛が来訪するが、「妻を亡くして気落ちが激しく、昔話は三十分ぐらいで切り上げ、元気づける言葉をかけて早々に引き上げた」という状況だったようである。そして昭和39年(1964年)12月2日、柏倉勝郎は首つり自殺をして亡くなってしまった。享年70歳。

3. こけしの変遷
(続く)

4. 参考URL
こけしのなかのわたし「2013.03.01 一金会「柏倉勝郎と庄内のこけし」
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