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005: 本間久雄 ①

自分と同じ苗字のこけし工人さんに注目している。今回は柏倉勝郎型を継承した山形県酒田市の本間久雄工人について調べてみようと思う。

1. 文献

・こけし辞典 柏倉勝郎・酒田・本間儀三郎・本間久雄の項(昭和46年初版)
・こけし手帖 155号 西田峯吉「酒田の本間久雄」(昭和49年)
・山形のこけし (昭和56年)
本間久雄 | Kokeshi Wiki

2. 歩み

本間久雄は明治43年(1910年)4月14日、山形県飽海郡八幡町青沢で生まれた。『こけし辞典』(昭和46年初版 P.498)では「本間儀三郎の長男として酒田市上内匠町に生まれる」とあるが実際は血縁関係はなく、昭和2年(1927年)17歳の時に酒田で木地業を営んでいた本間儀三郎に弟子入りし木地挽きを修業、昭和15年(1940年)30歳の時に儀三郎の養子となり本間姓になったというのが真相のようだ。養子になる前の苗字は不明。師匠であり養父でもある本間儀三郎は昭和23年(1948年)2月29日に64歳で亡くなったが久雄はその跡を継いで木地業を営んだ。

当時、久雄が作った木地製品は家具や茶びつが主であったが、『こけし辞典』では「昭和の初めころ、柏倉勝郎のこけしの木地を挽いた」ことがあるという。『山形のこけし』(昭和56年)でも「久雄の修業時代、儀三郎方に出入りしていた柏倉勝郎が儀三郎の木地にこけしの描彩をしており、久雄もこの時期にこけしを少数作った」と記述されている。一方、『こけし手帖155号』(昭和49年)西田峯吉氏の記事によれば「柏倉勝郎は昭和十六年から二十一年までの五年間(※おそらく昭和19年から21年までの2年間の間違い。昭和17年夏は佐藤文六のところで働いている。)本間工場の職人であったが、その間に賃描きしたこけしの木地はすべて本間久雄が挽いたものであって、当時の酒田こけしは柏倉勝郎と本間久雄との合作であった」とある。西田氏のこの記事は信憑性に若干疑問が残るが(ご自身も「柏倉勝郎という工人の正確な木地経歴を私は知らないが」と前置きしている)、いずれにしても本間久雄と柏倉勝郎とはこけしの木地を通じて接点があったのは確かなようである。

昭和39年(1964年)8月、『山形のこけし』によると柏倉勝郎のこけしを思い出して約30本のこけしを試作したという。『こけし辞典』では「ブラジルへ行く知人のみやげとして勝郎のこけしを模したものを約三〇本作った。このうち七本ほどが、収集家の手に渡っている。」とあり、その昭和39年8月の初作といえるこけしの写真が掲載されている。なお、この年の12月2日、柏倉勝郎は亡くなっている。

その後、Kokeshi Wiki によれば、昭和43年(1968年)に蒐集家宮田昭男氏の依頼で数十本こけしを製作したという。その後の柏倉勝郎型の復元に至る顛末は前掲『こけし手帖155号』(昭和49年)に詳しい。

本間久雄に酒田こけしを復活させた陰の人は酒田在住のこけし愛好家の池崎哲也氏である。同氏によると「昭和四十三年ごろ名古屋の宮田某氏(※宮田昭男氏)のため数十本製作したことがあり、四十六年六月には池崎氏と山岸竜太郎氏とが訪問して復活を勧奨し、爾来、それを続けてきたが、久雄自身も全国的に波及している民芸品ブームに刺激されたようだ」という。また「復活第一作は、全体的にちまちまとしていたが、製作のたびに筆は上向きになっており、収集家からの受注に対処できる大勢になった」とのことである。(『こけし手帖155号』昭和49年 P.6)

昭和48年(1973年)、工人63歳の時に柏倉勝郎型の復元に至り、以後少数ながらこけしの製作を続けた。『山形のこけし』にはその当時のこけし(昭和48年作7寸と昭和49年作)が掲載されている。

昭和51年(1976年)10月29日の酒田大火で自宅及び作業場を焼失。以後のこけし製作状況は定かではないが、久雄作こけしの胴底に昭和56年とメモ書きされいるこけしも(ヤフオクで)見かけるので、この大火で木地業自体を廃業に追い込まれたのかどうかは今のところ分からない。ただし息子の義勝はこの大火を契機に転業してしまったといわれている。この酒田大火後の復興祭で酒田市のシンボルとして選定されたのが酒田獅子頭であるが、久雄はこけし工人であると同時にこの酒田獅子頭の作者でもあったといわれている。本間久雄は昭和59年(1984年)9月5日に75歳で亡くなった。

3. こけし

前項の歩みを見て分かる通り、本間久雄のこけし工人としての活動期間は比較的短い。昭和39年8月の30本、昭和43年の数十本という初作群を除けば、昭和48年〜昭和50年代初期の期間、或いは上記56年頃まで製作を続けていたとしても10年に満たない期間であった。

前述した通り、昭和39年8月の初作は『こけし辞典』に掲載されていて、同書では「稚拙な面白みはあるが、資料の域を出ない」と喝破されているとおり、筆跡は探り探りといった感じで心もとない。

『山形のこけし』掲載の復元初期(昭和48年作)7寸はなかなか特徴的なこけしで、①前髪とくっついている長い横びん、②2本引かれた肩・胴裾と黄色の間のロクロ線、③柏倉勝郎晩年作に通じる輪郭に近い葉模様、④菊の上下点を結ぶ線が省略されている点、など他に類を見ないこけしのように思われる。面描の筆は太い。もう一本の掲載品、髷付きおかっぱ頭の8寸になると作風は一応の安定をみる。葉は4筆、各重ね菊の下部に小さな赤点が二つ入れられる画法は以降の基本となるようである。面描の筆は細く鋭くなる。なお、このような髷のあるこけしは柏倉勝郎の作例に見たことがないことから、本間久雄の創作による本人型ではないかと推測している。

『こけし手帖155号』掲載の6寸は初作とされているものの実際はどの時期にあたるのかは定かではないが、横びんの位置、2本のロクロ線、葉の形状等の特徴的に判断すると『山形のこけし』掲載の2本の間を埋める時期のものではないかとも考えられる。

以上が文献に見られる本間久雄のこけしであり、これを踏まえて手持ちの久雄作を見て見ようと思う。

本間久雄

(左より)
・髷付き5寸8分
・7寸7分
・髷付き1尺
・7寸8分
・5寸9分

最初に入手した本間久雄作が右から2番目の7寸8分だった。胴底に「S49」との鉛筆書きがあり、胴の裏側に「酒田 柏倉勝郎型 本間久雄」と署名がされている。寝ぼけ眼か、あるいは少しムスッとしたような不機嫌顔で思春期の娘を思わせる表情である。筆は太く、『山形のこけし』昭和48年作に通じるように感じる。重ね菊の下部に小さな赤点はなく、花弁も葉も丸みを帯びていてぼってりとしている。肩はゆるやかな曲線で勝郎型の絶妙な曲線はみられない。肩・胴裾と黄色の間のロクロ線は細く、黄胴自体も他のこけしと比べると消え入りそうな薄さである。『山形のこけし』昭和48年作と同様、作風が安定しない時期の復元初期作であると思われるが、何故か惹かれる表情ではある。おおむね昭和48年から49年にかけてはこのような作風であったのではないかと考えられる。

左から2本は同じオークション出品者から落札したもので、大きさこそ違うが『山形のこけし』昭和49年作と同時期のものとみて間違いないだろう。面描の線が細く頭部の形態が心持ち縦長になっているのがこの時期の特徴であると思われる。また、肩・胴裾と黄色の間の赤いロクロ線が太くなり、胴裏に書かれていた署名も胴底に「酒田 本間久雄」と書かれるようになるが、この傾向はこの後も継続する。

真ん中の髷1尺と右端5寸9分は同時期のこけしではないかと推測している。面描の線に勢いがつき表情にハリが出ているように感じる。間延びしていた頭部は均整の取れたフォルムに変化する。また、祖形である柏倉勝郎のものと比較すると随分と太くなったように感じるが、胴の木地形態のバランスもとても良いと思う。これと同様の作風のこけしで胴底に昭和56年4月ないし5月とメモ書きされているのを何回かみたことがあるが、この2本も同時期のものなのであろうか。今のところそれを確かめる手立てはないが、良いこけしであると思う。

以上みてきたように、その短い製作期間の中での作風の変化は大きい。そのこけしの変化を追うことは、柏倉勝郎の創作した型を継承していく上で本間久雄なりにそれを消化し自分のものとしていった過程を辿ることを意味し、興味深くもあるしその努力を思うと感動すら覚える。本間久雄が確立した画法は息子本間義勝によってかなり忠実に引き継がれている。本間久雄の格闘と創意工夫がなければ現在の酒田こけしは柏倉勝郎一代限りのもので終わっていた可能性が高く、それを思えば柏倉勝郎に端を発する酒田こけしにとって本間久雄というこけし工人が残した功績は看過できないどころか非常に大きいだろう。

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