006: 本間義勝 ①
自分と同じ苗字のこけし工人に注目している。その中に山形県酒田市で活躍した柏倉勝郎の型を継承した本間久雄、本間義勝という工人さんがおり、両工人の作る酒田こけしはおぼちゃ園における蒐集の柱となりつつある。今回はその本間義勝工人について。
1. 歩み
本間義勝は昭和24年(1949年)5月18日、山形県酒田市上内匠町の木地業・本間久雄の長男として生まれた。父に師事し久雄の経営する木工所で木地を挽いていたが、昭和51年(1976年)10月29日の酒田大火で自宅及び作業場を焼失した。工人27歳の時である。以後は市内若浜町へ転居し転業、昭和50年代中頃からこけし作りは途絶えてしまった。その後、平成10年(1998年)48歳の時、久雄が継承していた柏倉勝郎型の廃絶を惜しんだ酒田市本町の旅館主矢野正男氏らの説得に応える形でこけし作りを再開することとなった。
平成10年(1998年)1月21日付けの山形新聞に「酒田こけし 復活 20年ぶり」として当時の経緯が記事となっている。
こうした中、こけし収集家でもある若葉旅館の矢野さん、伝統こけし愛好家池崎哲也さんらが「伝統的な民芸品を守り、育てたい」として義勝さんを説得。去年秋から高さ十八センチの酒田こけしを作ってもらえるようになった。この新作品は若葉旅館で扱い、酒田こけし復活を記念して製作した絵はがきと一緒に、愛好者らに販売している。
「酒田こけしは伝統に培われた貴重な民芸品であり、酒田獅子頭とともに、昔から酒田の代表的な土産品。この度、二十年ぶりに幻の酒田こけしが再来した」と池崎さんは喜ぶ。
「本間義勝さんがこけしを作っていける環境を整えるため、バックアップしていきたい。量産はできないが、オリジナルな特産品、土産品として育てたい」と矢野さんは語る。
上記、池崎哲也氏は昭和48年(1973年)に本間久雄へ柏倉勝郎型の復元を働きかけた人物であることは本間久雄の回で触れた。途絶えていた型を親子2代にわたって働きかけ復活させた酒田こけしのキーマンである。もし仮に池崎氏、矢野氏らの働きかけがなければ柏倉勝郎型自体が忘れられた過去のものになっていた、或いは今よりもずっと認知度の低いものとなっていた可能性も否定はできない。そう考えると酒田こけしに関するこの顛末は、こけしというものがただ工人のみによって作られるものではなく愛好家からの影響も決して少なくはないということを示す好事例といえるかもしれない。
とはいっても、本間義勝はこけし作り再開以降も本格的な就業にまでは至っておらず、鳴子系工人の挽いた木地に描彩だけをしているに留まっている。酒田こけしは現在でも若葉旅館(http://wakabaryokan.jp/)で入手することができる。
2. 酒田こけし紀行

「作品は矢野氏の経営する若葉旅館で販売されている」というKokeshi Wiki の記事に触発されて2015年6月13日、酒田まで足を伸ばした。旅館への事前の問い合わせにより酒田こけしが今も継続して販売されていることを確認していたが、実際にどのようなこけしがどういう状態で販売されているかは現地に行ってみなければ分からなかった。
深夜高速バスで池袋から約8時間。23時過ぎに出発し目的地に着いたのは朝7時だった。海鮮市場の2階にある食堂で朝食を済まし、チェックインまでに山居倉庫(さんきょそうこ)、土門拳記念館を回る。酒田は藩政時代から商人の町として栄えてきた港町であり、町を実際に歩いてみると温泉地を主とする他のこけし主要産地とは雰囲気を異にする印象を受けた。この町の中で柏倉勝郎をはじめとする工人たちが木地を挽き、酒田こけしが育まれてきたのかと思い巡らすと、なんでもない町並みですら注目すべき対象としてみえてくる。酒田こけしは伝統こけしの中でも珍しい港町の娘なのである。
若葉旅館は酒田市本町2-3-9、新井田川を隔てた山居倉庫との対岸に位置する。

受付の奥にあるロビーには先代(おそらく矢野正男氏)が蒐集してきた約700本のこけしが陳列されている。

ご当地だけあって酒田こけしも数多く見受けられた。蛍光灯による照明に長年晒されてきたためか残念ながら退色が進んだ状態ではあるが、表情はどれも素晴らしかった。

荷物を置いてひと休みした後、フロントの方にお願いして酒田こけしの実物を拝見させていただく。現在、若葉旅館で取り扱っているこけしは、
・大(1尺)5,400円
・中(8寸)4,320円
・小(6寸)3,240円
の3種類。尋ねてみると奥にまだ在庫があるとのことで、何本か見比べた後に購入したい旨を伝えると嫌な顔ひとつせずに持ってきてくれた。今回じっくりと時間をかけてこけしを選ぶことができたのはひとえにフロントの方の親切によるところが大きい。さて、肝心のこけしはというと、表情、木地形態ともに思いのほか変化が大きいように感じた。従ってこれという一本に絞るのはなかなか難儀であったが、フロントの方と雑談をしながらこけしを選ぶのは楽しいひと時でもあった。結局、大中を1本ずつと小を2本購入し、今回の旅の第一目的を達成することができた次第である。

翌日、酒田では本間家旧本邸を観光した。山形県の本間家というと中学校の地理の授業でも習った記憶があるほど有名な大地主であるが、中学生当時はまさか自分がそのお膝元を旅することなど夢にも思っていなかった。こけしが取り持つひとつの縁である。土堀、蔵、樹木で囲まれた本間家旧本邸は例の酒田大火でも延焼を免れた。一方、本間久雄、義勝の木工所は被災してしまった、というのは再三述べてきた通りである。学校の授業で得た知識でしかなかったものが現実に起こり被害をもたらした出来事として意味を持ったような気がする。
もし、酒田の大火が起こらなければ、久雄、義勝は木地業を続けていたのだろうか。それはわからない。両工人のこけし作りが途絶えてしまったという昭和50年代中頃は第2次こけしブームが下火になりつつあった時期であることも考慮しなくてはならないだろう。生身の人間が作る以上、こけしも世の中の趨勢と無縁ではいられない。不況や社会的な動乱のあおりを受ければ簡単に倒れてしまうようなか弱い木人形である。しかしそのような状況に置かれていたとしても、今なおこうして新作のこけしが手に入るのであれば、酒田こけしは善戦しているといってもいいかもしれない。それはひとえにこのこけしを愛する人たちの尽力によるものであり、そういう人たちがいる限り酒田こけしの未来はまだまだ希望もあるように思えるのである。
なお、今回の酒田訪問に合わせて鶴岡の五十嵐嘉行工人の工房を訪問したが、それはまた別の機会に報告できればと思う。
3. こけし鑑賞

(左より)
・髷付き2寸9分
・5寸9分
・9分7分
・7寸7分
・5寸9分
・3寸
初めて手にした本間義勝作のこけしは高幡不動たんたんで購入した右端の3寸であった。面描、肩の曲線、重ね菊を三つ描いた胴模様など小さいながらも酒田こけしの様式がきちんと再現されており、温和な表情も気楽に見ていられる。
2本目に入手したのが左端の髷付き2寸9分。本間久雄の回で取り上げた髷付き1尺と同じ意匠の本間久雄型である。こちらはフォルムが大きくデフォルメされており、頭でっかちな木地形態などはいかにも小寸のこけしといった可愛らしさがある。表情はやや硬い。
酒田を訪れる前に入手したこけしが共に3寸大のものであったのは偶然であるが、現在若葉旅館で入手できるこけしが6寸からであることを考えると結果的に本間義勝コレクションの幅が広がったのは喜ばしいことである。この大きさのこけしがいつ頃作られていたのかについては不明である。
真ん中の4本が今回の訪問で入手したこけしになる。
この新作でまず目を惹くのは胴の鮮やかな黄色だろう。紙に包んだ上で箱に収められているのでとても良好な保存状態であるのが嬉しい。その黄胴の上に描かれる重ね菊の書式はこけしの大きさに関わらずほぼ一定で変化は見受けられない。但し1尺のこけしでは花の数がひとつ増える。
次に面描。選んでいた時の全体的な印象は、1尺の筆は細く繊細、8寸は逆に骨太、6寸は表情の幅が大きく個性派揃い、というものだった。特に8寸に良い表情が多かったように感じる。胴模様はほとんど差異が見受けられないようだったので表情に注目して選んだ。1尺の視線は向って右上に流れ思案に暮れているように見受けられる。8寸は真っ直ぐにこちらを見据えながら穏やかに微笑む。左から2本目の6寸は遠くを見る目で表情もどこかアンニュイ。右から2本目は何か達観した雰囲気を醸し出している。
6寸の2本を見比べてみれば分かる通り、木地形態にも変化がみられる。左から2本目は肩が低く肩の終わりから黄胴にかけてのすぼみが大きいのに対し、右から2本目の肩は高くすぼみもゆるやかである。こうした木地形態の違いが面描の幅と相まって豊かな変化を生み出しているように思われる。
胴底には「酒田 本間義勝」の署名とともに、円状の爪跡が残っているが、これは前述した3寸大の2本にも共通する。一方、手元にある父・本間久雄のこけしの胴底はすべて中心に穴があけられている。本間久雄が師事した本間儀三郎の挽いたこけしの木地は「底の中心に錐で穴をあけてある」(こけし辞典)とされているので、この挽き方は儀三郎からの伝承の可能性がある。この胴底の形状の違いによって本間工人による木地か鳴子系工人によるものかの判別が可能であると思われる。また、鳴子工人による木地は頭部が蕪型であり、あたかも首もとがあるように見える。この点も判断材料として挙げられるだろう。
時に途絶えながらも、多くの愛好家に支えられ大切に育まれてきた酒田こけし。その酒田こけしが今なお手に入れることができることに感謝するとともに、今後いつまでも作られ続け、見るものを癒してくれることを願ってやまない。
1. 歩み
本間義勝は昭和24年(1949年)5月18日、山形県酒田市上内匠町の木地業・本間久雄の長男として生まれた。父に師事し久雄の経営する木工所で木地を挽いていたが、昭和51年(1976年)10月29日の酒田大火で自宅及び作業場を焼失した。工人27歳の時である。以後は市内若浜町へ転居し転業、昭和50年代中頃からこけし作りは途絶えてしまった。その後、平成10年(1998年)48歳の時、久雄が継承していた柏倉勝郎型の廃絶を惜しんだ酒田市本町の旅館主矢野正男氏らの説得に応える形でこけし作りを再開することとなった。
平成10年(1998年)1月21日付けの山形新聞に「酒田こけし 復活 20年ぶり」として当時の経緯が記事となっている。
こうした中、こけし収集家でもある若葉旅館の矢野さん、伝統こけし愛好家池崎哲也さんらが「伝統的な民芸品を守り、育てたい」として義勝さんを説得。去年秋から高さ十八センチの酒田こけしを作ってもらえるようになった。この新作品は若葉旅館で扱い、酒田こけし復活を記念して製作した絵はがきと一緒に、愛好者らに販売している。
「酒田こけしは伝統に培われた貴重な民芸品であり、酒田獅子頭とともに、昔から酒田の代表的な土産品。この度、二十年ぶりに幻の酒田こけしが再来した」と池崎さんは喜ぶ。
「本間義勝さんがこけしを作っていける環境を整えるため、バックアップしていきたい。量産はできないが、オリジナルな特産品、土産品として育てたい」と矢野さんは語る。
上記、池崎哲也氏は昭和48年(1973年)に本間久雄へ柏倉勝郎型の復元を働きかけた人物であることは本間久雄の回で触れた。途絶えていた型を親子2代にわたって働きかけ復活させた酒田こけしのキーマンである。もし仮に池崎氏、矢野氏らの働きかけがなければ柏倉勝郎型自体が忘れられた過去のものになっていた、或いは今よりもずっと認知度の低いものとなっていた可能性も否定はできない。そう考えると酒田こけしに関するこの顛末は、こけしというものがただ工人のみによって作られるものではなく愛好家からの影響も決して少なくはないということを示す好事例といえるかもしれない。
とはいっても、本間義勝はこけし作り再開以降も本格的な就業にまでは至っておらず、鳴子系工人の挽いた木地に描彩だけをしているに留まっている。酒田こけしは現在でも若葉旅館(http://wakabaryokan.jp/)で入手することができる。
2. 酒田こけし紀行

「作品は矢野氏の経営する若葉旅館で販売されている」というKokeshi Wiki の記事に触発されて2015年6月13日、酒田まで足を伸ばした。旅館への事前の問い合わせにより酒田こけしが今も継続して販売されていることを確認していたが、実際にどのようなこけしがどういう状態で販売されているかは現地に行ってみなければ分からなかった。
深夜高速バスで池袋から約8時間。23時過ぎに出発し目的地に着いたのは朝7時だった。海鮮市場の2階にある食堂で朝食を済まし、チェックインまでに山居倉庫(さんきょそうこ)、土門拳記念館を回る。酒田は藩政時代から商人の町として栄えてきた港町であり、町を実際に歩いてみると温泉地を主とする他のこけし主要産地とは雰囲気を異にする印象を受けた。この町の中で柏倉勝郎をはじめとする工人たちが木地を挽き、酒田こけしが育まれてきたのかと思い巡らすと、なんでもない町並みですら注目すべき対象としてみえてくる。酒田こけしは伝統こけしの中でも珍しい港町の娘なのである。
若葉旅館は酒田市本町2-3-9、新井田川を隔てた山居倉庫との対岸に位置する。

受付の奥にあるロビーには先代(おそらく矢野正男氏)が蒐集してきた約700本のこけしが陳列されている。

ご当地だけあって酒田こけしも数多く見受けられた。蛍光灯による照明に長年晒されてきたためか残念ながら退色が進んだ状態ではあるが、表情はどれも素晴らしかった。

荷物を置いてひと休みした後、フロントの方にお願いして酒田こけしの実物を拝見させていただく。現在、若葉旅館で取り扱っているこけしは、
・大(1尺)5,400円
・中(8寸)4,320円
・小(6寸)3,240円
の3種類。尋ねてみると奥にまだ在庫があるとのことで、何本か見比べた後に購入したい旨を伝えると嫌な顔ひとつせずに持ってきてくれた。今回じっくりと時間をかけてこけしを選ぶことができたのはひとえにフロントの方の親切によるところが大きい。さて、肝心のこけしはというと、表情、木地形態ともに思いのほか変化が大きいように感じた。従ってこれという一本に絞るのはなかなか難儀であったが、フロントの方と雑談をしながらこけしを選ぶのは楽しいひと時でもあった。結局、大中を1本ずつと小を2本購入し、今回の旅の第一目的を達成することができた次第である。

翌日、酒田では本間家旧本邸を観光した。山形県の本間家というと中学校の地理の授業でも習った記憶があるほど有名な大地主であるが、中学生当時はまさか自分がそのお膝元を旅することなど夢にも思っていなかった。こけしが取り持つひとつの縁である。土堀、蔵、樹木で囲まれた本間家旧本邸は例の酒田大火でも延焼を免れた。一方、本間久雄、義勝の木工所は被災してしまった、というのは再三述べてきた通りである。学校の授業で得た知識でしかなかったものが現実に起こり被害をもたらした出来事として意味を持ったような気がする。
もし、酒田の大火が起こらなければ、久雄、義勝は木地業を続けていたのだろうか。それはわからない。両工人のこけし作りが途絶えてしまったという昭和50年代中頃は第2次こけしブームが下火になりつつあった時期であることも考慮しなくてはならないだろう。生身の人間が作る以上、こけしも世の中の趨勢と無縁ではいられない。不況や社会的な動乱のあおりを受ければ簡単に倒れてしまうようなか弱い木人形である。しかしそのような状況に置かれていたとしても、今なおこうして新作のこけしが手に入るのであれば、酒田こけしは善戦しているといってもいいかもしれない。それはひとえにこのこけしを愛する人たちの尽力によるものであり、そういう人たちがいる限り酒田こけしの未来はまだまだ希望もあるように思えるのである。
なお、今回の酒田訪問に合わせて鶴岡の五十嵐嘉行工人の工房を訪問したが、それはまた別の機会に報告できればと思う。
3. こけし鑑賞

(左より)
・髷付き2寸9分
・5寸9分
・9分7分
・7寸7分
・5寸9分
・3寸
初めて手にした本間義勝作のこけしは高幡不動たんたんで購入した右端の3寸であった。面描、肩の曲線、重ね菊を三つ描いた胴模様など小さいながらも酒田こけしの様式がきちんと再現されており、温和な表情も気楽に見ていられる。
2本目に入手したのが左端の髷付き2寸9分。本間久雄の回で取り上げた髷付き1尺と同じ意匠の本間久雄型である。こちらはフォルムが大きくデフォルメされており、頭でっかちな木地形態などはいかにも小寸のこけしといった可愛らしさがある。表情はやや硬い。
酒田を訪れる前に入手したこけしが共に3寸大のものであったのは偶然であるが、現在若葉旅館で入手できるこけしが6寸からであることを考えると結果的に本間義勝コレクションの幅が広がったのは喜ばしいことである。この大きさのこけしがいつ頃作られていたのかについては不明である。
真ん中の4本が今回の訪問で入手したこけしになる。
この新作でまず目を惹くのは胴の鮮やかな黄色だろう。紙に包んだ上で箱に収められているのでとても良好な保存状態であるのが嬉しい。その黄胴の上に描かれる重ね菊の書式はこけしの大きさに関わらずほぼ一定で変化は見受けられない。但し1尺のこけしでは花の数がひとつ増える。
次に面描。選んでいた時の全体的な印象は、1尺の筆は細く繊細、8寸は逆に骨太、6寸は表情の幅が大きく個性派揃い、というものだった。特に8寸に良い表情が多かったように感じる。胴模様はほとんど差異が見受けられないようだったので表情に注目して選んだ。1尺の視線は向って右上に流れ思案に暮れているように見受けられる。8寸は真っ直ぐにこちらを見据えながら穏やかに微笑む。左から2本目の6寸は遠くを見る目で表情もどこかアンニュイ。右から2本目は何か達観した雰囲気を醸し出している。
6寸の2本を見比べてみれば分かる通り、木地形態にも変化がみられる。左から2本目は肩が低く肩の終わりから黄胴にかけてのすぼみが大きいのに対し、右から2本目の肩は高くすぼみもゆるやかである。こうした木地形態の違いが面描の幅と相まって豊かな変化を生み出しているように思われる。
胴底には「酒田 本間義勝」の署名とともに、円状の爪跡が残っているが、これは前述した3寸大の2本にも共通する。一方、手元にある父・本間久雄のこけしの胴底はすべて中心に穴があけられている。本間久雄が師事した本間儀三郎の挽いたこけしの木地は「底の中心に錐で穴をあけてある」(こけし辞典)とされているので、この挽き方は儀三郎からの伝承の可能性がある。この胴底の形状の違いによって本間工人による木地か鳴子系工人によるものかの判別が可能であると思われる。また、鳴子工人による木地は頭部が蕪型であり、あたかも首もとがあるように見える。この点も判断材料として挙げられるだろう。
時に途絶えながらも、多くの愛好家に支えられ大切に育まれてきた酒田こけし。その酒田こけしが今なお手に入れることができることに感謝するとともに、今後いつまでも作られ続け、見るものを癒してくれることを願ってやまない。
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