007: 本間直子
ささやかな収集の柱として同じ苗字のこけし工人さんに注目している。今回は津軽系の本間直子工人について。2015年6月20日ねぎしで行われた下谷こけし祭りの際にご本人とお話できる機会があったのでその時の見聞も踏まえつつまとめてみようと思う。(以後、一部敬称略)
1. 歩み
同じ苗字ということもあって本間姓についていくつか話をさせてもらった。それによると直子工人の生まれた家系も3〜4代前を辿ると山形の本間姓にルーツを見いだせるらしい。父親は戦前東京の麻布十番辺りに住んでいたが、戦時中に当時の満州へ渡り、青森に移ってきたのは戦後になってからであるという。
昭和36年(1961年)9月23日、農業を営む本間博の三女として直子工人は生まれた。もともと何かを作り出す職人の仕事に対してあこがれがあったそうで、高校在学中に進路指導の先生と相談しながら各方面の職人に弟子入り可能か打診、その中で「来てみなさい」と言ってくれたのがこけし工人・佐藤善二だった。高校卒業後の昭和55年(1980年)4月1日、佐藤善二に弟子入りし木地修行を始める。兄弟子には阿保六知秀、小島俊幸、一戸一光、善二の長男・佳樹、笹森淳一がいて、直子工人は佐藤善二の最後の弟子ということになる。
こけしを作り始めたのは昭和58年(1983年)になってから。昭和60年7月1日、工人23歳の時に独立した。その直前の6月20日に佐藤善二が61歳で亡くなっている。この時期の前後関係を含めてご本人に確認したところ、もともと7月1日に独立することは決まっておりその頃は師匠もまだ元気であったのだが、念のためと受けたバイパス手術が原因となり急逝されたとのことである。従って、師匠が亡くなってしまったからやむを得ず独立に至ったというわけではない。
昭和62年(1987年)に発行された『こけし手帖』321号の記事によると同年10月のおみやげこけしが直子工人によるものでありこけし写真とともに短い紹介文が掲載されているので引用させていただく。
大勢の弟子養成で定評のあった温湯の佐藤善二の一番末の弟子であり、大多数の女性工人が父または主人を師匠に持っている木地屋の出身であるのに対し、素人の出でありながら活躍を期待される異色の工人である。温湯崖山の工房で修行中は「金太郎」の愛称でファンに親しまれていた。
独立と相前後して師匠が急逝したために、現在は佐藤佳樹を中心に五人が協力し合って活躍している。生家が青森県の東部のために、古牧温泉で常設の実演をしていたが、本年八月、結婚して水尻姓を名乗っている。同じ木材関係の主人の理解もあり、これからも仕事を継続する由、今後益々の活躍を期待したい。(後略)
なおこの時のおみやげこけしは直胴轆轤模様、髷付きのふっくらした丸顔に鯨目が描かれたものであった。
以来、佐藤善二型と多彩な本人型を中心にこけしを製作する。同時に、斎藤幸兵衛型、山谷多兵衛型の復元も行い、その気品のある作風は高い評価を得ている。
2. こけし鑑賞
手持ちの本間直子工人作を見てみる。

(左より)
・本人型 6寸
・佐藤善二型 8寸
・斎藤幸兵衛型牡丹模様 6寸
・斎藤幸兵衛型達磨模様 6寸
一番最初に入手した本間直子工人のこけしは左端の本人型6寸であった。胴の上部が膨らみ段から下は直胴というこの一風変わった木地形態は、盛秀太郎の所謂「古型ロクロ」に近いように思われるが、蜻蛉をあしらったビン飾り、目尻だけ少し上がった柔らかい一筆目、そして大振りな牡丹が一輪描かれた胴模様、短い胴下部など、他に例を見ない意匠となっている。写真では判りづらいが頬には薄く頬紅がさされ、また牡丹の花弁に黄色いロクロ線が引かれている。この型についてちゃんと話を伺えば良かったと今になって思う。またお会いできる機会があれば是非お訊きしたいと思っている。
次に入手したのが佐藤善二型8寸。このこけしの写真を本人にお見せしたところ、①牡丹模様が現在の様式と異なる点、②アイヌ模様が正面に描かれている点などから初期の頃のものだろうと断定された。現在のアイヌ模様は胸の中央から左右に描かれる。この善二型は師匠と相談しながら固めた様式で、これより古い最初期のものはもっとキツい目をしているとのことであった。なお、このこけしでも本人型6寸と同様に頬紅がさされ、同じように黄色いロクロ線も引かれている。あるいは同時期の作品なのかもしれない。
右2本は高幡不動の茶房たんたんが平成24年(2012年)に頒布した斎藤幸兵衛型の牡丹絵6寸と達磨絵6寸である。各種10本ずつ製作を依頼したそうで、店に残っていた最後の一対を入手することができた。左2本との雰囲気の違いにまず驚かされる。ともに粗挽き鉋のみで仕上げ鉋もロー引きもされていない。彩色も濃い染料を用いており力強さを感じる。斎藤幸兵衛型は佐藤善二を筆頭にその弟子たちが手がける型であるが、たんたんの店主さんによると直子工人のこけしには幸兵衛特有の「気品」がとてもよく出ているということであった。まことに本格的な復元作である。
なお、斎藤幸兵衛に関しては『木の花』第10号に詳しい。それによると、斎藤幸兵衛のこけし製作期間は昭和7〜9年(1932〜34年)の3年間に過ぎず、今回の復元作の元となったくびれ胴の髷付き牡丹模様と達磨模様は昭和9年4月に木村弦三氏によって頒布されたものであるという。その頒布では他にロクロ模様による髷なしくびれ胴も作られた。戦前の津軽系こけしに対する評価は軒並み手厳しいものがあった中にあって、斎藤幸兵衛のこけしは例外的に高く評価をされていた。
3. こけしの製作
本間直子工人は寡作の人ということも相まって人気の津軽系工人である。先日の下谷こけし祭りでも持参したこけしは開店すると同時に売れていったと聞く。『こけし時代』の創刊号、11号には現行の本人型が多数掲載されているが、どれも第3次こけしブームの担い手である女性の乙女心を絶妙にくすぐるであろう可愛らしさに溢れたこけしであり、その人気振りもうなずける。
その一方で先述の通り本格的な復元にも取り組んでおり、通をうならせる骨太なこけしも作られているところが男性こけし愛好家としても実に頼もしく思われ好感を持っている。Kokeshi Wiki によると山谷権三郎(多兵衛)型の復元も行っているとあり帽子付き5寸の写真が掲載されている。また、『こけし時代』創刊号には小さくではあるが、これとは別の多兵衞型に加え兄弟子が行っている佐藤伊太郎型の小寸こけしと思われる写真も掲載されいる。ただし、現在それらの復元も行っているかどうかは定かではない。
伺った話によると、現時点でこけしを注文してもそれまでの注文が溜まっているため2〜3年程時間がかかってしまうそうで、新作を手に入れるにはイベント会場に赴くのが確実であるとのことであった。それを聞くと気軽に注文をするのがどうにも憚られ、今後どういう感じで関わっていけるかは今のところわからないが、いずれにしても自分にとって本間直子工人はいつまでも応援し注目していきたい現役工人さんのひとりなのである。
1. 歩み
同じ苗字ということもあって本間姓についていくつか話をさせてもらった。それによると直子工人の生まれた家系も3〜4代前を辿ると山形の本間姓にルーツを見いだせるらしい。父親は戦前東京の麻布十番辺りに住んでいたが、戦時中に当時の満州へ渡り、青森に移ってきたのは戦後になってからであるという。
昭和36年(1961年)9月23日、農業を営む本間博の三女として直子工人は生まれた。もともと何かを作り出す職人の仕事に対してあこがれがあったそうで、高校在学中に進路指導の先生と相談しながら各方面の職人に弟子入り可能か打診、その中で「来てみなさい」と言ってくれたのがこけし工人・佐藤善二だった。高校卒業後の昭和55年(1980年)4月1日、佐藤善二に弟子入りし木地修行を始める。兄弟子には阿保六知秀、小島俊幸、一戸一光、善二の長男・佳樹、笹森淳一がいて、直子工人は佐藤善二の最後の弟子ということになる。
こけしを作り始めたのは昭和58年(1983年)になってから。昭和60年7月1日、工人23歳の時に独立した。その直前の6月20日に佐藤善二が61歳で亡くなっている。この時期の前後関係を含めてご本人に確認したところ、もともと7月1日に独立することは決まっておりその頃は師匠もまだ元気であったのだが、念のためと受けたバイパス手術が原因となり急逝されたとのことである。従って、師匠が亡くなってしまったからやむを得ず独立に至ったというわけではない。
昭和62年(1987年)に発行された『こけし手帖』321号の記事によると同年10月のおみやげこけしが直子工人によるものでありこけし写真とともに短い紹介文が掲載されているので引用させていただく。
大勢の弟子養成で定評のあった温湯の佐藤善二の一番末の弟子であり、大多数の女性工人が父または主人を師匠に持っている木地屋の出身であるのに対し、素人の出でありながら活躍を期待される異色の工人である。温湯崖山の工房で修行中は「金太郎」の愛称でファンに親しまれていた。
独立と相前後して師匠が急逝したために、現在は佐藤佳樹を中心に五人が協力し合って活躍している。生家が青森県の東部のために、古牧温泉で常設の実演をしていたが、本年八月、結婚して水尻姓を名乗っている。同じ木材関係の主人の理解もあり、これからも仕事を継続する由、今後益々の活躍を期待したい。(後略)
なおこの時のおみやげこけしは直胴轆轤模様、髷付きのふっくらした丸顔に鯨目が描かれたものであった。
以来、佐藤善二型と多彩な本人型を中心にこけしを製作する。同時に、斎藤幸兵衛型、山谷多兵衛型の復元も行い、その気品のある作風は高い評価を得ている。
2. こけし鑑賞
手持ちの本間直子工人作を見てみる。

(左より)
・本人型 6寸
・佐藤善二型 8寸
・斎藤幸兵衛型牡丹模様 6寸
・斎藤幸兵衛型達磨模様 6寸
一番最初に入手した本間直子工人のこけしは左端の本人型6寸であった。胴の上部が膨らみ段から下は直胴というこの一風変わった木地形態は、盛秀太郎の所謂「古型ロクロ」に近いように思われるが、蜻蛉をあしらったビン飾り、目尻だけ少し上がった柔らかい一筆目、そして大振りな牡丹が一輪描かれた胴模様、短い胴下部など、他に例を見ない意匠となっている。写真では判りづらいが頬には薄く頬紅がさされ、また牡丹の花弁に黄色いロクロ線が引かれている。この型についてちゃんと話を伺えば良かったと今になって思う。またお会いできる機会があれば是非お訊きしたいと思っている。
次に入手したのが佐藤善二型8寸。このこけしの写真を本人にお見せしたところ、①牡丹模様が現在の様式と異なる点、②アイヌ模様が正面に描かれている点などから初期の頃のものだろうと断定された。現在のアイヌ模様は胸の中央から左右に描かれる。この善二型は師匠と相談しながら固めた様式で、これより古い最初期のものはもっとキツい目をしているとのことであった。なお、このこけしでも本人型6寸と同様に頬紅がさされ、同じように黄色いロクロ線も引かれている。あるいは同時期の作品なのかもしれない。
右2本は高幡不動の茶房たんたんが平成24年(2012年)に頒布した斎藤幸兵衛型の牡丹絵6寸と達磨絵6寸である。各種10本ずつ製作を依頼したそうで、店に残っていた最後の一対を入手することができた。左2本との雰囲気の違いにまず驚かされる。ともに粗挽き鉋のみで仕上げ鉋もロー引きもされていない。彩色も濃い染料を用いており力強さを感じる。斎藤幸兵衛型は佐藤善二を筆頭にその弟子たちが手がける型であるが、たんたんの店主さんによると直子工人のこけしには幸兵衛特有の「気品」がとてもよく出ているということであった。まことに本格的な復元作である。
なお、斎藤幸兵衛に関しては『木の花』第10号に詳しい。それによると、斎藤幸兵衛のこけし製作期間は昭和7〜9年(1932〜34年)の3年間に過ぎず、今回の復元作の元となったくびれ胴の髷付き牡丹模様と達磨模様は昭和9年4月に木村弦三氏によって頒布されたものであるという。その頒布では他にロクロ模様による髷なしくびれ胴も作られた。戦前の津軽系こけしに対する評価は軒並み手厳しいものがあった中にあって、斎藤幸兵衛のこけしは例外的に高く評価をされていた。
3. こけしの製作
本間直子工人は寡作の人ということも相まって人気の津軽系工人である。先日の下谷こけし祭りでも持参したこけしは開店すると同時に売れていったと聞く。『こけし時代』の創刊号、11号には現行の本人型が多数掲載されているが、どれも第3次こけしブームの担い手である女性の乙女心を絶妙にくすぐるであろう可愛らしさに溢れたこけしであり、その人気振りもうなずける。
その一方で先述の通り本格的な復元にも取り組んでおり、通をうならせる骨太なこけしも作られているところが男性こけし愛好家としても実に頼もしく思われ好感を持っている。Kokeshi Wiki によると山谷権三郎(多兵衛)型の復元も行っているとあり帽子付き5寸の写真が掲載されている。また、『こけし時代』創刊号には小さくではあるが、これとは別の多兵衞型に加え兄弟子が行っている佐藤伊太郎型の小寸こけしと思われる写真も掲載されいる。ただし、現在それらの復元も行っているかどうかは定かではない。
伺った話によると、現時点でこけしを注文してもそれまでの注文が溜まっているため2〜3年程時間がかかってしまうそうで、新作を手に入れるにはイベント会場に赴くのが確実であるとのことであった。それを聞くと気軽に注文をするのがどうにも憚られ、今後どういう感じで関わっていけるかは今のところわからないが、いずれにしても自分にとって本間直子工人はいつまでも応援し注目していきたい現役工人さんのひとりなのである。
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