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009: 菅原敏

2014年11月22日、こけしの主要産地のひとつである遠刈田温泉を旅した。この旅における最大の収穫は蔵王こけし館に展示されている有名な「名和コレクション」をじっくり見ることができたことだったと思っている。戦前の古品をみることで遠刈田系こけしに対する興味関心は間違いなく広がったわけであるが、このコレクションの中で特に惹かれたのが佐藤三蔵(1879-1952)のこけしであった。まずはその表情をご覧頂きたい。

satosanzo.jpg


鋭くしかし大らかな眼差し、古風な面描、筆の揺れ。情味という言葉はこういうものを指すのではないかと思う。以来、三蔵こけしの表情はいつも頭の片隅に陣取って離れず、遠刈田系こけしの好き嫌いを判断する基準となったばかりでなく、三蔵型を製作した菅原敏(すがわらさとし)という工人に辿り着くきっかけともなった。前置きが長くなったが今回はその菅原敏工人と三蔵型についてまとめる。

1. 文献

まず手元にある菅原敏に関する文献を確認してみる。

・こけし手帖 42号 鹿間時夫「新人紹介」(昭和37年)
・こけし手帖 50号 土橋慶三「雪国の幻想 三蔵こけし」(昭和38年)
・こけし手帖 63号 宮崎友宏「秋保行」(昭和41年)
・こけし手帖 65号 石井荘男「菅原敏さんの苦心談」(昭和41年)
・こけし辞典 菅原庄七・菅原敏の項(昭和46年初版)
・木の花 第9号 北村勝史「戦後の佳作其の九 菅原敏」(昭和51年)
・こけし手帖 385号 阿部弘一「菅原敏・小椋正吾両工人の急逝を悼む」武田利一「寂滅為楽」(平成5年)
・こけし手帖 387号 柴田長吉郎「菅原敏の思い出」(平成5年)
・こけし手帖 438号 檜垣浩男「例会ギャラリー6月 菅原庄七と敏のこけし」(平成9年)

2. 歩み

菅原敏は昭和12年(1937年)10月3日に木地業・菅原庄七ととめよの一人息子として生まれる。昭和29年(1954年)3月秋保中学校卒業後、石工夫、農業を経て、昭和30年(1955年)頃より庄七の仕事を手伝い始めたとされる。『伝統こけしガイド』(昭和48年 P.131)によると、「昭和31年(1956年)4月、十九歳の時父庄七の許しを待ちかねて庄七型こけし(5寸)を試作した。その後正式には昭和35年6月より昭和37年11月まで庄七について木地を修行」したとある。昭和37年7月発行の『こけし手帖42号』に鹿間時夫氏が新人工人として紹介文を書いている。

若い工人が師匠なり縁深い故人の優秀なこけしを、一心に追求しそれを体得することは、職人の経歴においても、本人の心がまえの歴史においても絶対に必要であり大切なことと思う。秋保の菅原庄七の息子敏が、佐藤三蔵の古い型を勉強して三蔵型を作った。たつみの森氏の熱心な世話であったが、その出来は悪くなかった。多くのこけし群の中で一際目立つ強烈な個性のこけしであった。青いろくろ線は秋保の基調であるが、たっぷりと青線を太くひき、ろの字型の赤線を描きまくったタッチはのびのびして、楽しめる。
庄七およびその影響化にある工人達の面彩は甘美繊麗の極を走るものであった。三蔵型は繊麗性よりもどちらかといえば荒いタッチの豪快性にもどることであるから、製作時の気分によほどの大らかな快調が必要であろうと思う。だから出来たものに、多少のむらはあったが、これはやむを得ない。表情に幅のあるのはむしろ良いかもしれない。庄七の優しさに、剛直性が加わっていれば成功である。初作の頃の一本にすばらしいものがあった。彼は気付くまい。そうした無心的な製品の結果に、ため息をついてそれを手にしたいと切望しているものがいることを。わたしは敏に会っていないから、こけしと工人の生活を直結して眺められない。しかし、落ちついて出来るだけ多く作ることを望む。
(『こけし手帖42号』昭和37年 P.22)

昭和40年(1965年)工人28歳の時、通商産業大臣賞を受賞。翌年の昭和41年(1966年)の『こけし手帖63号』ならびに『こけし手帖65号』には自己流の工夫を加え次第に本人型といえる独特の雰囲気を持ったこけしに変化していく過程が記録されていて興味深い。また同年より東京・三鷹の「たつみ」から庄七型や三蔵型の優れた復元作が発売され人気を博すようになったが、そのあたりから秋保川の魚釣り、松茸取り等の副業の比重が大きくなり轆轤から離れることが多くなったらしい。

昭和47年(1972年)工人35歳の時、父・庄七が亡くなる。淋しさを紛らすために酒量が増えたともいう。そして昭和50年代に入ると活動は次第に停滞していく。Kokeshi Wiki によると「昭和60年(1985年)頃より製作量が減少し、とめよが亡くなってからは得意の山菜採りが出来なくなるほど酒で体を壊していた」という。母とめよは平成2年11月14日に85歳で亡くなったが、後を追うかのように平成4年12月、菅原敏は亡くなった。享年54歳。『こけし手帖385号』、『こけし手帖387号』に阿部弘一氏、武田利一氏、柴田長吉郎氏による追悼文が掲載されている。

3. こけし鑑賞

手持ちの菅原敏作を見てみる。

菅原敏

(左より)
・佐藤三蔵型こげす 5寸1分
・佐藤三蔵型 8寸
・菅原庄七型こげす 5寸
・佐藤三蔵型 8寸
・青坊主 5寸

最初に入手したのは左端のこげす型で、フォルムと表情が気に入り何気無く手に取った一本。その時は特にこれが菅原敏の三蔵型であるということは意識しておらず、独特な「る」の字から秋保由来のこけしであろうことがかろうじて推測できたくらいだった。その後、調べていくと『こけし手帖602号』の三蔵をテーマにした回の談話室覚書に掲載されている写真③のこげすが原作となっていることがわかった。胴下部につけられた段や胴模様の配置などは原作の意匠が踏襲されているが、さらに工人自身の工夫が加えられているようで、「る」の字模様も面描もより力強く生き生きとしているように感じられる。原作の表情が持つぶっきら棒なキツさはなく、前を見据える静かな眼差しに惹きつけられる。

真ん中の庄七型のこげすの胴下部にも段がつけられている。これは父・庄七型の小品とされ、敏の作るこげすも全体的にずんぐりとしているもののユーモラスで鄙びた佇まいはきちんと表現されていて、丑蔵のこげすにも見られる一筆目のひょうきんな表情は見飽きない。

右端の5寸は青坊主と呼ばれる手法を用いたこけしであるが、この説明は『木の花第20号』に詳しい。

頭は手絡を描かずに青坊主という幼児の頭の剃りあとをあらわす手法を用いている。遠刈田の古い様式なのか、庄七の創作なのか不明であるが、この様式を庄七は戦前は新型と称して八寸ぐらいまでのものまで作った。梅、桃、枇の三本組と、梅、桃の二本組がある。この三本組、二本組は秋保温泉土産として好評でよく売れたため、これをまねて作ったのが(平賀)謙次郎の三本組であり、これは作並温泉で売られた。(『木の花第20号』昭和54年 P.11)

このこけしの面描は一側目、ねこ鼻、赤線2本による口と、要素としては三蔵型こげすのそれと同じものが用いられているが、両者を比べてみるとあまり冴えがない表情のように感じる。あるいは製作年代が後のものかもしれない。

左から2本目の8寸は「る」の字模様を用いた三蔵型。胴体の上下に二本の轆轤線を引いた「る」の字の胴模様となりこれは『こけし手帖50号』の土橋慶三氏によるとB型に分類される。同記事の写真に用いられている米浪庄弌旧蔵7寸8分に近い作風であるが、胴底に署名はなく菅原敏の作であるとは断言できない。木地形態や鼻、口の書体に関していえば、Kokeshi Wiki の菅原敏のページに掲載されている昭和41年6月のたつみ頒布品と似ているようにも思われるし、向って右の二側目の下瞼の鼻に近い側が上瞼とくっついていない癖なども酷似している。こちらのこけしの眼点は破調せず真っ直ぐ前を見据えた視線となっている。

右から2本目の8寸は重菊を用いたC型。鋭い目やたれ鼻といった三蔵型の要点を踏まえているが、冒頭で写真を載せた三蔵の表情と比べると、もはや菅原敏型としかいえない別種の雰囲気を醸し出している。『木の花第9号』の「戦後の佳作」(昭和51年 P.40)で北村勝史氏は「どうも原型とは似ても似つかぬ敏の世界がある。印度の裸の仏像の如きエキゾチックな妖艶さが滲み出ている」と表現している。切れ長の三日月目は眼点がかなり小さく、白目部分の割り合いが多いため緊張感の高い眼差しである。世間を睥睨しているようにも見えるし、達観した心境で微笑んでいるにも見える。こけしブームに湧く中にあって漸次こけし作りから離れていった工人の心境の発露であると考えてしまうのは果たして穿った見方であろうか。いずれにしても読み応えのあるこけしではある。
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