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027: 我妻信雄 ②

大沼昇治のこけしとともに我妻信雄のこけしがまとまって出品されたことは「003: 我妻信雄 ①」の項で既に述べた。受動的な入手経緯とはいえ落手したこけし群を眺めていると、その鋭い筆致の面描は耽美な魅力に溢れているように思われ我妻信雄のこけしはネットオークションの出品の中でも特に留意すべき対象となっていった。そのような状況で出品された信雄作8寸は注目すべき特徴を多分に備えたものであった。お椀型の黒髪に独特な鬢飾り、垂れ鼻、胴の上下に引かれた紫の轆轤線に特徴的な重ね菊。佐藤茂吉に通じる古い遠刈田の様式にように思われたが、詳しい事は判然としなかった。

我妻信雄2

『こけし千夜一夜物語』の第14夜第898夜等に我妻信雄のことが書かれていたことを思い出し、2015年6月20日、西荻窪イトチで行われたトークイベントの折に筆者の国府田恵一氏にこのこけしのことを尋ねてみた。それによると、①小原直治の作といわれたこげすにこのような鼻と鬢の様式のものがあり、一時期信雄もつくっていた。このこけしはそのえじこの様式をこけしに応用したものと思われる。②後に高橋五郎氏によってそのこげすは小原直治作ではなく佐藤治平のものと究明されたこともあり作られなくなった、ということであった。国府田氏は3回にわたり『こけし手帖』に信雄の変遷についての記事を執筆されている。(521~523号)

一般的な遠刈田の様式とは趣を異にするこのこけしには、古い青根を思わせる面白みがあるし、こけしそれ自体の意匠が完成された美を有しているようにも思われる。面描は以前入手した一連のこけし群にも増して研ぎすまされ、鋭い。信雄というこけし工人に対する評価が更に高まるとともに、小原直治、佐藤治平という遠刈田系の名工に対しても興味が湧くきっかけをもたらした一本となった。

その黒髪8寸と同じ出品者が似たような垂れ鼻のこげすを出品されたのはそれからしばらく経ってからのことである。これが国府田氏のおっしゃっていた直治もとい治平の写しである事は一目見て想像がついた。大きさは7寸。鬢飾りはまったく同じ様式。頭頂は手絡が描かれ、胴には上部のみに紫の轆轤線が引かれその上に衿と枝梅模様があしらわれている。前述した『こけし手帖 522号』に昭和53年6月作として同手のこげすが写真掲載されており(⑰)、「『こけし這子の話』に掲載されていた『直治こけし』(註:とされていたもの)の忠実な写しである」と説明されている。なお『こけし千夜一夜物語』第89夜にも同こげすの記事が載っているのでご参照のこと。

後日、高橋五郎氏の『佐藤治平と新地の木地屋たち』という本を入手した。ここで『こけし辞典』と併せて佐藤治平という木地師についてまとめると、治平は明治16年11月11日遠刈田新地に木地業・佐藤菊治の三男として生まれた。尋常小学校卒業後、青根丹野工場で職人をしていた兄重松につき木地修行。翌年兄とともに新地へ引き上げたわけであるがその後明治35年に再び青根に赴き小原直治の工場で働いている。つまり治平と直治は接点がなかったわけではないということになる。明治36年〜39年まで徴兵。除隊後は吉田畯治の木工所、北岡商店専属の職人となるが悪名高い「仕送り制度」に縛られ生活は困窮したという(以上「新地時代」)。大正2年〜8年まで秋保村立職業学校で木地教師を務める(「秋保の木地教師時代」)。その後遠刈田に戻ると大正10年新しく出来た北岡木工所の職人となる(「新地・北岡時代」)。昭和5年、不況の影響で木地業をやめ昭和19年まで営林署に務めた。この間、第一次こけしブームが起こり昭和14年頃から蒐集家の求めに応じて佐藤円吉の挽いた木地に描彩をしている(「営林署時代」)。退職後は五男喜平、七男正男を弟子としつつ自宅の足踏み轆轤で木地挽きをした(「木地挽き復帰時代」)。昭和27年8月1日没。享年70歳。

『佐藤治平と新地の木地屋たち』の表紙写真に使われているのが今回入手したこげすの「原」となったものである。口絵のカラー写真と比べると「原」は梅花の芯が墨で描かれていることから写しは白黒写真で行われたと推測される。同書の説明によると「原」となったこげすは「天江氏が大正十年に遠刈田の北岡商店で、明治初年につくられた新地古形こけしとして、前にも書いたように、豊治のこけしといっしょに求めたもので、『こけし這子の話』の図版に掲載されたものである」ということである。「新地・北岡時代」に作られた明治古型の写しというところだろうか。さらに側面の写真とともに「胴下部や背部にまで、一杯の笹竹と松葉のようなものが描かれている」と説明されているが、手元のこげすにそれは描かれていない。このことからも写真による写しの依頼に応じたものであったことが窺える。

前掲した『こけし手帖 522号』では「これまで信雄さんは小原直治のこけしをベースにはしているものの、全くの写しは作っていなかった。それはあくまで自分のこけしを作るという信念があったからであろう。そんな信雄さんでも復元ブームという風潮による周囲からの働きかけに抗するのは難しかったのであろう。恐らく写しの製作も自身のこけしを作り上げるための一里塚と割り切って考えたのであろう」と続く。当時の経緯はどうだったにしろ、治平型を作る工人の途絶えた現在からすれば第2次こけしブームの新鋭工人がその最も脂の乗り切った時期にこの「新地古形こけし」を手がけてくれたことは何よりも幸運なことであったとただただ想い至る次第である。

026: 山尾昭

先日ヤフオクで遠刈田系の8寸良作が大量に出品された。いくつか収集対象としている型がありその中でも特に心惹かれた一本を落札することが出来た。山尾昭工人による古い秋保こけしの写しである。大きさは8寸ちょうど。極端に大きい頭部、濃い染料による重厚な色彩、はりのある表情、古風で雅な佇まいの堂々たる逸品であることは出品画像からでもはっきりと伝わってきた。手元に届いたこけしを手に取り、眺める時のこの満足感は表現しがたい。ずっしりと重い量感、特異なフォルムにも関わらず、醸し出される気品。

山尾昭1

出品者の商品説明によると平成13年(2001年)2月の作で「天江コレクションの菅原庄七古作を元に作られました」とのこと。胴の裏に「第85回伊勢こけし会定期頒布」のシールが貼られており、胴底には鉛筆で「13-2」のメモ書きがある。このこけしの出品画像を見て真っ先に思い浮かんだのは武井武雄『愛蔵こけし図譜』に掲載されている1尺7寸5分だった。鹿間時夫の『こけし鑑賞』の菅原庄七の項によると「『愛蔵図譜』の尺7寸5分(53.0cm)は一大傑作であって、甘美派の五指に入るものであろうが、惜しくも焼けた。昭和2年頃のものかとされる。(中略)武井庄七は天江氏より行ったもの。『這子の話』の庄七大寸物もほぼ匹敵するが眼点中央によらず幾分散漫の気味がある」とある。『こけし這子の話』が手元にないため文中の「庄七大寸物」は未確認であるが落手したこけしを『愛蔵こけし図譜』の庄七こけしと見比べると木地形態、描彩とも意匠がまったく同じであり、昭和初期の秋保こけしの忠実な写しであることが分かる。「原」となるこけしの魅力もさることながら、そのエッセンスを引き出し8寸大に表現した工人の技量も特筆すべきだろう。

山尾昭2

天江庄七写しを入手後それほど間を空けずに別の出品者からまたしても山尾昭のこけしが出された。大きさは8寸2分。小振りな頭部と長めの胴ですらっとした木地形態。胴裾の水流れと頭部の節があるものの全体としての保存状態は良好である。目の周りに薄く紅が入れられ古流な秋保の様式が再現されており、胴の裏にはやはり「第83回伊勢こけし会定期頒布」のシールが貼られている。伊勢こけし会、おそるべし。寡聞にしてこのこけしが何を「原」としているかは判明させることができていないが、おそらく菅原庄七か山尾武治の古作であろうと思われる。署名に敢えて「二代目」と記していることを考えると武治の写しであるとも考えられなくもない。いずれにせよ古式ゆかしい佇まいではある。

山尾昭に関する文献は多くない。『こけし手帖』の目録で関連する記述を探したが見つけることはできなかった。『こけし辞典』の記述もごく短い。山尾昭は昭和2年(1927年)3月30日に山尾武治の長男として生まれた。『伝統こけし最新工人録』によると「昭和25年(1950年)頃に木地修業をはじめ、こけしを製作している」とあり、顔写真とともに本人作のこけしが2本掲載されている。左のこけしをよく見ると『愛蔵こけし図譜』22版に載っている「作者未詳」の復元作であることが分かる。優れた古作復元者である山尾昭にはまったく最大限の敬意を表さなくてはならない。それにしてもこのように大変価値があり且つ質の高い写しを手がけているにも関わらず、過去この工人が話題に上がることがなかったように見受けられるのは何故であろう。不思議に思う。工人は2016年1月16日現在で88歳。「こけし千夜一夜物語」第739夜(2012年7月)には「山尾家は現在こけしを作っていないとの返事があり」という記述が見られる。息子・山尾広昭とともに休業してしまったことが伺え残念な限りである。

山尾昭というと『こけし時代』作並秋保特集号でみられるような父・山尾武治晩年の甘いこけしを継承している工人という印象が強く、恥ずかしながら今回の落札に至るまで秋保古型の写しを手がけているということを知らなかった。それ故にこれらの写しには目を見張るものであったわけであるが、今回の秋保こけしに限らず誰がどういう写しを手がけているかという情報はまだまだ足りない。えてして『こけし辞典』が刊行された昭和46年以降、第2次こけしブームの頃に活動した工人に関する記録は、一部の人気工人を除き少ないといわざるを得ない。過去数十年、愛好家はこけしの収集には限りのない情熱を傾けこそすれ、こけし工人とそのこけしに関する記録を残すことにかけてはいささか無関心であったのかもしれない。現在つき合いのある工人について記録を残しておくことは全ての愛好家のなすべきことであると思う。天江富弥、武井武雄、深澤要、橘文策、鹿間時夫、西田峯吉といった先人達がこけしに関する聞き取りや研究の成果を書き残してくれた事が現在のこけし界の礎となっている。何もこけしの根源に関わる目新しい情報や新発見だけが記録として残す価値のある内容ではない。ひとりひとりの工人の足跡とそのこけしの変遷もまた、今後のこけし界の発展へと繋がるかけがえのない資料となるはずである。当ブログの意義もそこにあるのではないかと思う。しかし一愛好家のカバーできる範囲など限られている。願わくば、ひとりひとりの愛好家が知り得た事をそれぞれがまとめていければこけしを取り巻く環境はより充実したものとなるのではないだろうか。

021: 大沼昇治 ①

遠刈田系のこけし工人、佐藤茂吉が気になり出したのはいつの頃からだっただろうか。高橋五郎氏の『癒しの微笑み』に掲載されているおかっぱ頭がきっかけだったかもしれないし、或いは遠刈田系梅こけしを製作していた大沼昇治の系列工人として調べていく過程からだったかもしれない。いずれにしても、その特異な表情と胴模様に得も言えぬ魔力を感じたのは確かだ。

佐藤茂吉は万延元年(1860年)11月23日生まれ。蒐集家に頼まれて養子の円吉が挽いた木地に絵付けをした昭和14年(1939年)頃には既に80歳になろうという齢であったというからその時点で古い遠刈田を語り伝えることのできる貴重な老工人であったことが伺える。茂吉老の残したこけしの描彩は遠刈田系の様式が確立された黎明期の紋様を現在に伝えているとされ貴重な資料となっている。茂吉の系列は養子・円吉、円吉の婿・治郎、治郎の弟子・大沼昇治と続いたが、残念ながら昇治の亡き後その後継者は途絶えてしまった。

現在「茂吉型」というと弥治郎系の型という印象が強い。佐藤春二、井上四郎、ゆき子、はる美、新山慶美、純一ら佐藤幸太の系列工人が手がけ広く流布しているが、これは青根時代に弥治郎系の佐藤幸太が茂吉に弟子入りしたことに由来する。一方、本家である遠刈田系の茂吉型はというと、大沼昇治が昭和の終わり頃に取り組んだということが『こけし手帖 341号』の阿部弘一氏による記事にて写真入りで紹介されているものの、円吉ならびに治郎が茂吉型を残したという記録は見当たらない。

2015年11月、注目すれどもなかなか中古市場に出回ることなかった大沼昇治による茂吉型が出品された。大変な競り合いになるかと固唾を飲みつつ応札したが、他に入札者なくあっさり落札できてしまった。固唾の飲み損である。遠刈田の古層ともいうべき茂吉型が注目されていないことは私としてはまったく意外なことであった。

落札した8寸2種はともに昭和58年(1983年)2月の作。前述『こけし手帖 341号』掲載品は平成元年(1989年)の作であるからそれよりも6年程前の作ということになる。

大沼昇治1-1

左のこけしは『こけしの美』にカラー掲載されている西田峯吉旧蔵8寸3分を「原」とするもの。注目すべきは独特な頭髪にあるだろう。緑と赤の点で装飾された前髪が頭髪から独立した様式は他に類を見ない。胴底には署名がなく、鉛筆で「大沼昇治 S58.2.18」とメモ書きされている。

右のこけしは伊勢こけし会の定期頒布品。『こけし事典』に掲載されている8寸2分5厘が「原」と思われるがこれもやはり西田峯吉旧蔵品である。同じこけしが平凡社カラー新書の『こけしの旅』にカラーで掲載されている。カラー版と見比べると胴上下の轆轤線の色が逆であることが分かる。つまり「原」では2本の太線が緑色でその太線の間に引かれる3本の細線が赤なのであるが、このこけしではそれが反対になっている。白黒の写真から写したものなのかもしれない。左のこけし同様、前髪が頭髪から独立している点の他、縦並びに2列配置された胴模様も珍しく、見所は多い。

茂吉の描く面描の表情変化は非常に大きい。茂吉の描く二側目の特徴は概して湾曲の小ささと上下瞼の間隔の狭さ、そして左右の目の非対称性にあると言えるだろう。面描の筆致はたどたどしくそれが枯渇の味につながっている。目の位置は顔の中央よりもやや上よりで顔の下部にできた余白がふっくらと優美な印象をもたらす。

一方、昇治の茂吉型は茂吉こけしのもつ細かな変化を整理し、本人なりに消化した昇治茂吉型というべきものに仕上がっている。「原」が醸す揺れる筆によるあの枯れた味わいというものは皆無であるが、大胆につり上げられた眉と目尻がなんともいえぬ迫力を生み出している。弥治郎系に残る茂吉型とは一線を期す辛口なこけしで、同じく弥治郎系の佐藤伝内に通じていくようなある種のグロテスクさを内包しているようにも感じる。

師である佐藤治郎風のこけしから出発して円吉型、孝之助型とレパートリーを広げてきた大沼昇治にとり、茂吉型は活動後期における新しい取り組みであった。しかし昇治は平成10年(1998年)に亡くなってしまったため、茂吉型自体の製作年数は十数年に満たない。従って円吉型や梅こけしと比べると流通量ははるかに少ないと思われる。大元である佐藤茂吉の遺作自体も数少なく、その型を継いだ工人も早くに亡くなってしまったのが原因なのであろうか、茂吉のこけしに対する注目度は低くどちらかというと渋いこけしと片付けられているように思われる。もし昇治が存命で茂吉型を作り続けていてくれたらと考えると残念なことであるが、こうして記事としてまとめることにより佐藤茂吉と昇治茂吉型に対し少しでも関心が集まればと思う。

009: 菅原敏

2014年11月22日、こけしの主要産地のひとつである遠刈田温泉を旅した。この旅における最大の収穫は蔵王こけし館に展示されている有名な「名和コレクション」をじっくり見ることができたことだったと思っている。戦前の古品をみることで遠刈田系こけしに対する興味関心は間違いなく広がったわけであるが、このコレクションの中で特に惹かれたのが佐藤三蔵(1879-1952)のこけしであった。まずはその表情をご覧頂きたい。

satosanzo.jpg


鋭くしかし大らかな眼差し、古風な面描、筆の揺れ。情味という言葉はこういうものを指すのではないかと思う。以来、三蔵こけしの表情はいつも頭の片隅に陣取って離れず、遠刈田系こけしの好き嫌いを判断する基準となったばかりでなく、三蔵型を製作した菅原敏(すがわらさとし)という工人に辿り着くきっかけともなった。前置きが長くなったが今回はその菅原敏工人と三蔵型についてまとめる。

1. 文献

まず手元にある菅原敏に関する文献を確認してみる。

・こけし手帖 42号 鹿間時夫「新人紹介」(昭和37年)
・こけし手帖 50号 土橋慶三「雪国の幻想 三蔵こけし」(昭和38年)
・こけし手帖 63号 宮崎友宏「秋保行」(昭和41年)
・こけし手帖 65号 石井荘男「菅原敏さんの苦心談」(昭和41年)
・こけし辞典 菅原庄七・菅原敏の項(昭和46年初版)
・木の花 第9号 北村勝史「戦後の佳作其の九 菅原敏」(昭和51年)
・こけし手帖 385号 阿部弘一「菅原敏・小椋正吾両工人の急逝を悼む」武田利一「寂滅為楽」(平成5年)
・こけし手帖 387号 柴田長吉郎「菅原敏の思い出」(平成5年)
・こけし手帖 438号 檜垣浩男「例会ギャラリー6月 菅原庄七と敏のこけし」(平成9年)

2. 歩み

菅原敏は昭和12年(1937年)10月3日に木地業・菅原庄七ととめよの一人息子として生まれる。昭和29年(1954年)3月秋保中学校卒業後、石工夫、農業を経て、昭和30年(1955年)頃より庄七の仕事を手伝い始めたとされる。『伝統こけしガイド』(昭和48年 P.131)によると、「昭和31年(1956年)4月、十九歳の時父庄七の許しを待ちかねて庄七型こけし(5寸)を試作した。その後正式には昭和35年6月より昭和37年11月まで庄七について木地を修行」したとある。昭和37年7月発行の『こけし手帖42号』に鹿間時夫氏が新人工人として紹介文を書いている。

若い工人が師匠なり縁深い故人の優秀なこけしを、一心に追求しそれを体得することは、職人の経歴においても、本人の心がまえの歴史においても絶対に必要であり大切なことと思う。秋保の菅原庄七の息子敏が、佐藤三蔵の古い型を勉強して三蔵型を作った。たつみの森氏の熱心な世話であったが、その出来は悪くなかった。多くのこけし群の中で一際目立つ強烈な個性のこけしであった。青いろくろ線は秋保の基調であるが、たっぷりと青線を太くひき、ろの字型の赤線を描きまくったタッチはのびのびして、楽しめる。
庄七およびその影響化にある工人達の面彩は甘美繊麗の極を走るものであった。三蔵型は繊麗性よりもどちらかといえば荒いタッチの豪快性にもどることであるから、製作時の気分によほどの大らかな快調が必要であろうと思う。だから出来たものに、多少のむらはあったが、これはやむを得ない。表情に幅のあるのはむしろ良いかもしれない。庄七の優しさに、剛直性が加わっていれば成功である。初作の頃の一本にすばらしいものがあった。彼は気付くまい。そうした無心的な製品の結果に、ため息をついてそれを手にしたいと切望しているものがいることを。わたしは敏に会っていないから、こけしと工人の生活を直結して眺められない。しかし、落ちついて出来るだけ多く作ることを望む。
(『こけし手帖42号』昭和37年 P.22)

昭和40年(1965年)工人28歳の時、通商産業大臣賞を受賞。翌年の昭和41年(1966年)の『こけし手帖63号』ならびに『こけし手帖65号』には自己流の工夫を加え次第に本人型といえる独特の雰囲気を持ったこけしに変化していく過程が記録されていて興味深い。また同年より東京・三鷹の「たつみ」から庄七型や三蔵型の優れた復元作が発売され人気を博すようになったが、そのあたりから秋保川の魚釣り、松茸取り等の副業の比重が大きくなり轆轤から離れることが多くなったらしい。

昭和47年(1972年)工人35歳の時、父・庄七が亡くなる。淋しさを紛らすために酒量が増えたともいう。そして昭和50年代に入ると活動は次第に停滞していく。Kokeshi Wiki によると「昭和60年(1985年)頃より製作量が減少し、とめよが亡くなってからは得意の山菜採りが出来なくなるほど酒で体を壊していた」という。母とめよは平成2年11月14日に85歳で亡くなったが、後を追うかのように平成4年12月、菅原敏は亡くなった。享年54歳。『こけし手帖385号』、『こけし手帖387号』に阿部弘一氏、武田利一氏、柴田長吉郎氏による追悼文が掲載されている。

3. こけし鑑賞

手持ちの菅原敏作を見てみる。

菅原敏

(左より)
・佐藤三蔵型こげす 5寸1分
・佐藤三蔵型 8寸
・菅原庄七型こげす 5寸
・佐藤三蔵型 8寸
・青坊主 5寸

最初に入手したのは左端のこげす型で、フォルムと表情が気に入り何気無く手に取った一本。その時は特にこれが菅原敏の三蔵型であるということは意識しておらず、独特な「る」の字から秋保由来のこけしであろうことがかろうじて推測できたくらいだった。その後、調べていくと『こけし手帖602号』の三蔵をテーマにした回の談話室覚書に掲載されている写真③のこげすが原作となっていることがわかった。胴下部につけられた段や胴模様の配置などは原作の意匠が踏襲されているが、さらに工人自身の工夫が加えられているようで、「る」の字模様も面描もより力強く生き生きとしているように感じられる。原作の表情が持つぶっきら棒なキツさはなく、前を見据える静かな眼差しに惹きつけられる。

真ん中の庄七型のこげすの胴下部にも段がつけられている。これは父・庄七型の小品とされ、敏の作るこげすも全体的にずんぐりとしているもののユーモラスで鄙びた佇まいはきちんと表現されていて、丑蔵のこげすにも見られる一筆目のひょうきんな表情は見飽きない。

右端の5寸は青坊主と呼ばれる手法を用いたこけしであるが、この説明は『木の花第20号』に詳しい。

頭は手絡を描かずに青坊主という幼児の頭の剃りあとをあらわす手法を用いている。遠刈田の古い様式なのか、庄七の創作なのか不明であるが、この様式を庄七は戦前は新型と称して八寸ぐらいまでのものまで作った。梅、桃、枇の三本組と、梅、桃の二本組がある。この三本組、二本組は秋保温泉土産として好評でよく売れたため、これをまねて作ったのが(平賀)謙次郎の三本組であり、これは作並温泉で売られた。(『木の花第20号』昭和54年 P.11)

このこけしの面描は一側目、ねこ鼻、赤線2本による口と、要素としては三蔵型こげすのそれと同じものが用いられているが、両者を比べてみるとあまり冴えがない表情のように感じる。あるいは製作年代が後のものかもしれない。

左から2本目の8寸は「る」の字模様を用いた三蔵型。胴体の上下に二本の轆轤線を引いた「る」の字の胴模様となりこれは『こけし手帖50号』の土橋慶三氏によるとB型に分類される。同記事の写真に用いられている米浪庄弌旧蔵7寸8分に近い作風であるが、胴底に署名はなく菅原敏の作であるとは断言できない。木地形態や鼻、口の書体に関していえば、Kokeshi Wiki の菅原敏のページに掲載されている昭和41年6月のたつみ頒布品と似ているようにも思われるし、向って右の二側目の下瞼の鼻に近い側が上瞼とくっついていない癖なども酷似している。こちらのこけしの眼点は破調せず真っ直ぐ前を見据えた視線となっている。

右から2本目の8寸は重菊を用いたC型。鋭い目やたれ鼻といった三蔵型の要点を踏まえているが、冒頭で写真を載せた三蔵の表情と比べると、もはや菅原敏型としかいえない別種の雰囲気を醸し出している。『木の花第9号』の「戦後の佳作」(昭和51年 P.40)で北村勝史氏は「どうも原型とは似ても似つかぬ敏の世界がある。印度の裸の仏像の如きエキゾチックな妖艶さが滲み出ている」と表現している。切れ長の三日月目は眼点がかなり小さく、白目部分の割り合いが多いため緊張感の高い眼差しである。世間を睥睨しているようにも見えるし、達観した心境で微笑んでいるにも見える。こけしブームに湧く中にあって漸次こけし作りから離れていった工人の心境の発露であると考えてしまうのは果たして穿った見方であろうか。いずれにしても読み応えのあるこけしではある。

008: 佐藤康広

こけしに興味を持ち始めたほぼ同じ頃にBEAMS <fennica> が「インディゴこけし」の販売を開始した。こけしに対して何の知識も先入観も持たない初心者の目にはその藍色がただただ魅力的に映ったし、日本的な美しさを象徴するものにも思われた。このインディゴこけしを作るのは佐藤康広工人という名の、自分とそれほど年が変わらない若手工人であることを知って親近感を抱いた。その後実演などの折にお話しをさせて頂く機会にも恵まれ、知らず知らずのうちに康広工人作のこけしが増えている。今回はその佐藤康広工人とインディゴこけし等についてまとめてみる。(以後、一部敬称略)

1. 歩み

佐藤康広は昭和51年(1976年)4月26日、宮城郡宮城町芋沢大竹新田下で木地業を営む佐藤正廣の二男として生まれる。師匠・正廣は遠刈田系松之進系列の我妻吉助の弟子。また日光の大藤仲四郎にも師事しており、木地挽きの技術、カンナの切れともに一流の木地師と誉れ高い。その正廣を父にもつ康広は長らく測量関係の仕事に従事していたが、平成22年(2010年)1月1日より父につき木地修業を開始する。この時工人33歳。

翌、平成23年(2011年)5月の東京こけし友の会例会で初作となる7寸の頒布が行われた。『こけし手帖』606号には頒布品の写真とともに簡単な紹介文が掲載されているのでそちらを引用させていただく。

測量関係の仕事を退職、平成22年1月から父正廣に師事。当初父の木地玩具の日光茶道具を製作、昨年のみちのくこけしまつりで入賞する。こけしは平成22年10月より描き始める。父の松之進型を継承、今回は初作頒布。重菊、桜崩し、旭菊、井桁の胴模様の各種。今後の活躍を期待。(『こけし手帖606号』平成23年 P.9)

平成24年(2012年)3月の例会では小寸(2寸)三本組みセットの頒布が行われた。また、平成26年(2014年)1月よりBEAMS <fennica> よりインディゴこけしの販売が開始され、その製作を担当している。

現在、木地業就業6年目。父とともに仙台木地製作所でこけしおよび木地製品を製作している。

2. こけし鑑賞

手持ちの佐藤康広工人作を見てみる。

インディゴこけし

(左より)
・藍 轆轤線 4寸
・青 轆轤模様 8寸
・藍 旭菊轆轤線 4寸
・藍 菖蒲轆轤線 6寸
・藍 階調轆轤線 4寸
・藍 梅花轆轤線 8寸
・藍 轆轤線 4寸

一番最初に入手したこけしは2014年4月11日に入手した左の2本。第2回の販売品であるが、後のものと比べると木地の極端な白さは未だなく自然な印象を受ける。特に4寸の表情は二側目の下瞼が若干下方にふくらみ柔らかく優しい。店内でご一緒した愛好家の方と話題になったのが、本藍による染料が経年とともにどう変化あるいは褪色していくかについてであった。本藍によるこけしというのはこれまで前例がなくこれを書いている現時点でも藍色にどれほどの耐性があるのかは未知数であり、そういう意味でインディゴこけしは実験的な試みであるといえるだろう。褪色の予防としてなるべく濃い色のものを選ぶのが賢明であると思われるが、今後の経過には引き続き注視していかなくてないけない。そのような懸念があったので色が濃く褪色の心配が少ないと思われる青の轆轤模様8寸も入手した次第であるが、その後の本藍を中心とした収集を考えるとこの濃い青のこけしがちょっとしたアクセントになっているように思われる。この胴模様は工人の属する系列の頂点に立つ佐藤松之進のこけしにみられるもので、松之進が著した『木地人形記』の第十四号にその祖形が認められる。なお、『木地人形記』は松之進から橘文策に贈られた手書きの資料で『こけし手帖』37号に「松之進の「木地人形記」に寄せて」という記事で掲載され、後に『こけしざんまい』にも収録されている。

さて2014年8月23日、第3回の販売で手に入れたのは右から2本目の8寸。この回は東京だけでなく、仙台、神戸、広島でも販売されたと記憶している。この頃の収集は徹底的に8寸という大きさにこだわっていた時期であったため8寸以外には目もくれていなかったように思う。他の方が所有されているインディゴこけしを拝見しているうちに白い木地の余白を活かした模様に強く惹かれることに気付き、なるべく余白が感じられるような胴模様を基準に選んだ。胴の上下を幅の広い轆轤線と土湯系の返しロクロを髣髴とさせる斜め線で縁取り、胴の中央に遠刈田系の伝統的な枝梅模様に使われる梅花をあしらった胴模様である。顔の線も伸び伸びとしていて明朗で健康的な表情に見える。

2015年3月8日の第4回販売では真ん中の3本を入手。この回は原宿、仙台の2店舗で販売された。こけしを収集し始めて1年経つと、同じ大きさのこけしで揃えて並べる見せ方はどうにも収まりが悪いように感じ始めた。というわけで各種の大きさを偏りなく並べられるように収集の仕方を方向転換した時期だったため、4寸、6寸という小さめのサイズに絞った上で胴模様の多様性に焦点を絞って選んだ。左から3本目は轆轤線に伝統的な旭菊を描いた胴模様で、頭部の手絡も前髪後ろの一点から放射状に描かれ胴の旭菊と響き合う。藍色とよく調和するモダンな胴模様であるように思う。真ん中の6寸は遠刈田系の裏模様によく使われる菖蒲模様をあしらったもの。土湯系の佐久間粂松型のような趣きが感じられる。やや下膨れ気味の頭部のフォルムと目の離れた面描で個人的には表情に少し不満が残る。しかし大勢が列をなし短時間のうちに買うべきこけしを決めなくてはいけない状況ではじっくり選ぶ余裕は望めず致し方ないところではある。やはりこけしは時間をかけてじっくり選ぶべきものではあるが、同時に収集家としては一層目利きの目を磨かなくてはいけない。右から3番目の4寸は階調轆轤線による胴模様。濃淡によって生み出される本藍の微妙な変化が堪能できる一本で、勝ち気な表情とともにとても気に入っている一本。

右端の4寸は2015年5月27日の第5回販売で手に入れた。この回は平日水曜日からの販売開始のため即完売ということにはならなかった。とはいっても遅く到着した頃には狙っていた胴模様は既になかったが。それでもこの日は他に誰もお客さんがおらずじっくり見比べることができたので、前回の反省を活かし面描と表情に着目して選ぶことにした。改めてこのこけしの表情を見てみると、この時の選考基準は三日月目の均整に主眼を置いていたことが伺える。下瞼の線がきちんと上瞼にくっつき両目も水平を保っている。瞼の稜線は優雅で慈愛の眼差しが感じられる。美しい表情だと思うが、康広工人らしい面描か、というと話は別であるところが面白い。表情領域の広い工人だと思う。

次にインディゴこけし以外のえじこ等をみてみる。

佐藤康広作えじこ

(左より)
・赤 轆轤線 1寸2分
・えじこ エゴノキ材
・豆えじこ

右の豆えじこは2014年9月8日、上野松坂屋実演にて購入。この時に初めて康広工人とお会いして話をすることができた。インディゴこけしでも所有している梅花が散りばめられた胴に、すやすや安らかな寝顔が相まって可愛らしい。真ん中の大きめなえじこは2015年4月14日の横浜そごう実演にて。エゴノキという木材の樹皮を活かした意匠で、余白には轆轤線とやはり梅花があしらわれている。クリクリ目の表情はいかにも玩具といった風情で楽しい。左の豆こけしは2015年6月27日に西荻窪のイトチによって開催された『奥会津の木地師』上映会と康広工人・樋口達也氏のトークイベントの際に配られたお土産こけし。小さいながらもバランスがとても良く豆こけしならではの可愛らしさがある。インディゴこけしを求める愛好家はこういった豆こけしや4寸大の小寸こけしを好む傾向にあると思われ、その結果として工人としても作り慣れた大きさになっているのかもしれない。良いこけしが多い。

3. インディゴこけしについて

インディゴこけしに関していくつかの断想を記する。まず、その伝統性にも絡むことではあるが「藍色が東北の色か」という問題を孕んでいるように思われる。昭和63年(1988年)に発行された『こけし手帖』323号において和田薫子氏が「こけしの色彩」という記事を書かれているがその中で、

この秋、久しぶりに友の会の旅行会に参加した。晩秋のみちのくの山々は、紅葉、黄葉、新緑と濃い褐色の色彩で覆われていて、文字どおり華やかな錦の色彩そのものであった。それはまた、こけしの色彩そのものでもあり、もっとも日本的な感覚の色の世界とも言えよう。(『こけし手帖323号』昭和63年 P.4)

という一文があり、その指摘には唸らされた。よくこけしは東北の風土が生み出したものといわれるが、ここまで具体的にそれを納得させる文には出会ったことがなかったからである。更に、同記事では「青がこけしに彩色されないのは何故であろうか」という記述があり、「こけしの木肌の色は、ベージュ色というのか、薄茶色である。青は補色関係になって、まったく調和しない。こけしに青色が用いられない理由が納得させられる」と結論付けている。

このインディゴという色彩は東北に根付くものなのだろうかと改めて考えみても、藍というと自分の中ではどうも四国が思い浮かんできてしまう。少なくとも東北特有のものとはいえないことは確かであるが、しかし手元にあるインディゴこけしを見ると和田氏が指摘していたように青(藍色)が木地に調和していないとは感じられないのもまた事実であるし、藍色で色彩されたこけしを美しいと感じる人は自分だけではない。

これは時代の変遷に伴う美的感覚の変化によるところにあるのではないかと考えられる。サッカー日本代表のユニフォームの色に代表されるように藍色は(東北固有の色ではないかもしれないが)日本らしい色として認知されている。日本的な文化が見直され関心が寄せられている時代背景というものがあり、実際BEAMS の取り組みもそういった文脈から発想されたものと考えられる。そういった意味でインディゴこけしは極めて現代的な発想、現代的な美意識、現代的な色彩感覚によって生み出されたこけしであるといえる。

その一方でインディゴこけしの胴模様、面描、木地形態は伝統こけしそのもので硬派ともいえるほどの伝統性を有している。その点で所謂「かわいいこけし」とは一線を画するものがあり、自分が惹かれているのは色彩の革新性とその他の要素の保守的なまでの伝統性のバランスにあるように思う。

西田峯吉著『鳴子・こけし・人』によれば、かつて明治35年(1902年)頃、肘折へ出稼ぎにいった鈴木庸吉が同地で胴を黄色に塗る技法を習得し鳴子に持ち帰ったことが契機となり黄鳴子時代が到来したという。現在こけしに使われている色はこけし発生当初からあったのではなく、ある時点で誰かの工夫・創意により用い始められたものが伝播してひとつひとつ定着してきたことは想像に難くない。このインディゴ(藍色)という色のこけしへの応用も、そのような染料に関する歴史的変遷の中のひとつの出来事としてみることはできないだろうか。そういう視点でみれば現在はひとつの節目にあり、我々はリアルタイムにその変遷に立ち会っているとも考えられなくはない。

インディゴこけしを「青色のこけしはパッとしない」或いは「伝統的なものではない」と一蹴する蒐集家もいらっしゃるだろう。しかしこけしにまったく興味がない人にも訴えかけられる魅力を持ったコンテンツとして、他にどんなこけしがあるだろうか。(もちろんBEAMS というブランド力によるところもあるのかもしれないが。)いずれにしても、個人的にはこれから長い時間をかけて青い色がこけしの伝統的なものとして定着していったら面白いなと思うし、願わくば、この藍色こけしがきっかけとなってこけしに深く魅了される人が増えていってくれればと考えている。

4. 佐藤康広工人について

インディゴこけしの製作者である佐藤康広工人は前述の通り表情領域の広い工人であり、胴模様の多様性と相まって非常に収集が楽しめるこけしを作っていると思う。また話していると言葉の節々にこけし工人というよりは木地師としての意識と誇り、職人としての謙虚な姿勢が感じられ、頼もしい。可能であれば佐藤松之進型の写しにじっくり取り組んでもらいそれがどのように作用するかみてみたいという思いがあるが、ご多忙につきなかなか頼めないでいる。まあ焦ることなく、細く長くお付き合いしていければと考えている。6年目の新進工人としても、同世代の工人さんとしてもこれからがとても楽しみな存在であり引き続き注目していきたい。

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