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020: 本間久雄 ⑥

阿房こけし洞では本間久雄のこけし製作史において、作風の変化が落ち着いた昭和49年頃のこけし群を仮に中期と分類している。この時期の作が文献で取り上げられているのは『山形のこけし』の本間久雄項に掲載された左の髷付きがそれにあたる。

中期の特徴は、①面長の頭部、②細い面描、③パーツが小さくつり上がり気味の目眉、④淡い色調の染料、⑤頭髪と離れて描かれる鬢、⑥胴底の通し鉋から「深澤勝郎写し」や「柏倉勝郎型」に見られた2つの爪跡がなくなる点が挙げられる。作風は一応の完成形をみせる。この様式の久雄作になってようやく量産体制が出来上がったものと推測される。昭和49年というと第2次こけしブームの頃と重なることもあり、残るこけしも少なくはないと思われる。この久雄中期は昭和51年の酒田大火の頃まで続いたのではないだろうか。

本間久雄6

拙蔵の中期作6本を見てみる。全体の雰囲気はとても良く似ておりこれをもって様式確立の証左としている。左より2本目の6寸は面描著しい小ささで中期における典型的な作風といえる。8寸2本もこの6寸をそのまま大きくしたような趣きであるが、頭部の形態が若干異なり特に左より3本目の下膨れ気味の形状は他に類を見ないふてぶてしさがある。

右2本は髷付きの酒田こけし。寡聞にして私は髷付きの酒田こけしというものを柏倉勝郎作でも久雄初期作でも見たことがない。そこでこの髷付きこけしを、自らのこけしの様式を確立した久雄がそれを応用し新たに創作した彼の本人型なのではないかと考えている。酒田こけしのお膝元、同市の若葉旅館のロビーには髷部分の様式が上記写真と異なるものが展示されている。以下の写真中央のこけしがそれである。

本間久雄 6-2

写真をみればお分かりの通り髷飾りの周りが黒で塗りつぶされてなくこの型のプロトタイプではないかと推測できる。V字形の口、木地形態と全体的な雰囲気は「深澤勝郎写し」の太胴型と似ているようにも見える。だとするとおそらく胴底は通し鉋にふたつの爪跡の初期終盤の作であると考えられ年代変化としての辻褄も合う。

手持ちの髷6寸2本を見比べると左はメリハリのある形状に対し、右側は曲線を抑えたものになっている。この時点ではまだ髷付きこけしのフォルムが定まっていなかったのかもしれない。木地形態としては津軽系の斉藤幸兵衛型とほとんど一致しているのは偶然の結果ではあると思われるが、幸兵衛型と並べると同じようなフォルムでも描彩によってこうも印象が変わるかと思われとても興味深い。

この髷付き酒田こけしは首元と裾を赤い轆轤線で囲んだ黄胴の上に重ね菊を3輪並べた中期型から、胴の中央付近に赤い轆轤線を加え余白に重ね菊を描く後期型へと移行する。後期型髷付きこけしは「005: 本間久雄①」で紹介しているのでご参照のこと。息子、本間義勝工人の髷付きは後期型を継承しており、この中期型は製作していないのではなかろうか。その他の作例を含めて、酒田こけしのバリエーションはなお検証する余地が残っている。さらなるサンプルの充実が望まれる。

さて、2015年10月31日(土)に高円寺で開催されたマイファーストコケシ。その一角に設けられた東京こけし友の会のこけし相談コーナーで酒田こけしを収集・研究している旨を熱弁したところ、翌日例会で受付をされているSさんから写真左端の4寸5分を頂いてしまった。現在出回ってくる本間久雄のこけしは6寸と8寸が中心のため、この大きさ自体珍しい。さらに褪色がまったくなく、あたかも昨日作られたかのような完璧な保存状態を保っている逸品で酒田こけし愛好家にとっては大変ありがたい頂き物となった。

手持ちの中期型は緑や赤が軒並み褪色しており状態が必ずしも良くはなかった。これは前所有者の管理が悪かったためかとも思ったが、この4寸5分を見ると、この時期はもともとの染料が淡いことが理解できる。ピンク色と黄緑色による明るい色彩が特徴である反面、その淡さ故に簡単に色が飛んでしまう危険性も孕んでいたということが伺い知れる。そういう意味でもこの4寸5分の資料的価値は非常に高い。この場を借りて改めてお礼申し上げます。

018: 本間久雄 ⑤

005: 本間久雄 ①」で紹介した本間久雄工人の「柏倉勝郎型」をここに改めて掲載する。

本間久雄5-1

このこけしは阿房こけし洞が入手した初めての酒田こけし、初めての本間久雄作であった。先に結論付けたように、この「柏倉勝郎型」は久雄の酒田こけし製作史においてはブレーキングポイントとなった時期のものと考えられる。酒田こけしの継承にあたり試行錯誤を続けてきた中で、祖形となる柏倉勝郎作の写しに取り組み、その後の「本間久雄による酒田こけし」を確立するに至る流れの中で作られたこけしといえるのだ。

本間久雄5-2

胴背面には「酒田 柏倉勝郎型 本間久雄」と署名がなされている。一本のみを所有しているだけでは分からなかったことであるが、実はこのように「柏倉勝郎型」と明記されている久雄作は少数派で、大部分は胴背面もしくは胴底に「酒田 本間久雄」とだけ署名される。しかしそれにしても柏倉勝郎作に肉迫した感のある「深澤勝郎写し」でさえ用いられていない「柏倉勝郎型」の銘がこの様式のこけしに特記されているのにはなかなか興味をそそられる。このこけしに「原」となるこけしは存在するのであろうか。

このこけしの特徴としては、①太い面描、②ムスッとした表情、③頭髪とくっつかない鬢、④鬢飾りの下部が一本線、⑤段のつかない緩やかな肩のライン、⑥細めで裾にかけて僅かに広がる木地形態、⑦丸みを帯びた花弁と葉、⑧葉の最下部が「ハ」の字型(これは勝郎作にもよく見られる)、⑨花弁は左右同数で計8枚、⑩菊花の下に小さな赤点がつかない、⑪胴の背面に署名、⑫胴底の通し鉋に小さな爪跡、等が挙げられる。特に⑤はそれまでの久雄作には見られないもので⑧とセットで考えると何か手本となるこけしがあっても良いような気もしてくる。「深澤勝郎写し」と同程度、或いはそれ以上の精度で忠実に写された復元作という可能性もやはり否定することはできないだろう。

本間久雄5-3

深澤勝郎写し」の項の繰り返しになるが、この「柏倉勝郎型」は「深澤勝郎写し」よりも前に製作されたと推測される。「深澤勝郎写し」は、面描の細さ、重ね菊の様式に久雄の独自性が認められ、かならずしも「原」に忠実な写しとはいえない。仮にそこが「柏倉勝郎型」と明記されていないひとつの理由だとしたら、ますます本項のこけしが忠実な写しであるという可能性は高まるようにも考えられはしないだろうか。

初掲載の折には「寝ぼけ眼か、あるいは少しムスッとしたような不機嫌顔で思春期の娘を思わせる表情である」と書いたが今改めてこの表情を見つめると、力強く、凛々しい。極太の鬢を伴う表情からは並々ならぬ意志の強さを感じさせられる。これはこの時期だけに見せた久雄の強気の表情である。久雄の続けてきた酒田こけしへの取り組みがようやく実を結ぼうとしていたのである。

本間久雄5-4

最後に先日入手した柏倉勝郎作6寸2分と並べてみる。表情、情味とも本家に敵わないものの、あながち遠からず、ではないだろうか。

過去の本間久雄関連記事
005: 本間久雄 ①
010: 本間久雄 ②
011: 本間久雄 ③
012: 本間久雄 ④

016: 柏倉勝郎 ②

酒田こけしを追求している阿房こけし洞において柏倉勝郎という人物はそのこけしの始祖となる最重要工人なのだが、彼の作ったこけしとなると残念ながらなかなか入手できる機会には恵まれない。そのような中、東京こけし友の会の9月例会の入札で勝郎作を入手することができたので今回はそのこけしについて調べてみたい。なお、柏倉勝郎の生い立ちについては「004: 柏倉勝郎 ①」でまとめている。

柏倉勝郎1-1

こちらがその柏倉勝郎作、6寸2分。当日の例会は遠刈田で開催された「全国伝統こけしろくろまつり」と日程が重なったためか出席者が少なかった。そのため自分の他にこのこけしへの入札者はなく、競合することなしに落札できたのは幸運だった。

入札品の説明によるとこれは後期のこけしであるとのこと。頭部の嵌め込みがとてもゆるく、南部系のキナキナばりにカタカタと揺れる。古色つき、葉の緑は完全に飛んでしまっているが表情は光るものがあるように感じる。重ね菊の花弁は枚数少なくその線も極めて細い。ピーク期の迫力は既になく、枯れた趣のみが残る晩年期の作風である。

柏倉勝郎1-2

小さめの丸い頭部と細めの胴体の絶妙なバランス、肩の盛り上がりと衿付けの優美な曲線、そして裾に向って末広がりになる三角胴によって構成される木地形態は洒脱であり、こけしの美しさは木地にあるということを改めて教えてくれる。

頭頂部の中剃りに引かれる赤い轆轤線は頭髪の墨によってほとんど塗り潰されており、緑のみが強調される。鬢は頭髪から完全に離れ、それ自体がとても短い。鬢飾りは素早く描かれたように見受けられそれぞれの形は不揃いになっている。後に本間久雄、義勝両工人が描く整ったリボン状の飾りとは一線を期す様式が興味深い。胴模様含め、全体的にさらさらとした草書体の筆運びという印象を受ける。

柏倉勝郎1-3

胴底は浅く削られており、「柏倉 2-40」と鉛筆書きされている。前所蔵者が昭和40年2月に入手した、ということであろうか。ちなみに柏倉勝郎はその前年の昭和39年12月に亡くなっているので制作年を判断する参考とはならない。

『こけし手帖』339号の川上克剛氏による「異才・柏倉勝郎こけしの魅力」の記事を参照すると、本項のこけしは胴の細長さ、花弁の線の細さから「No.9」1尺5分の作風に近いと思われる。昭和30年から昭和34年の夏過ぎまで酒田の物産館ならびに渡辺玩具店で販売されていたという戦後作である。同記事では同じ作例として『山形のこけし』の箕輪氏所蔵品が挙げていており、そちらを確認すると本項のこけしと瓜二つのこけしが掲載されていることがわかる。『山形のこけし』掲載品は昭和33年作。鬢、眉横から鼻の少し下までと短く、肩は高い。6寸大のこけしに重ね菊が3輪。花弁の線が細いところもとてもよく似ている。本項のこけしは緑が褪色しているが、『山形のこけし』掲載品に見られるような輪郭線による後期型の葉と、最下部はハの字の模様が描かれていたであろうことが推測される。

このこけしを入手したことにより酒田こけしに対する理解が深まっていけば良いなと思う。柏倉勝郎作という祖形を味わうことは酒田こけしの美の源流を探ることだけでなく、それを継承した本間久雄、義勝のこけしに対する視点が相対化されることも期待できるのではないだろうか。

012: 本間久雄 ④

美しい酒田こけしである。

オークションで出品されていた時の画像では細部まで気が回らず、面描の細い筆使いから漠然と昭和49年頃の作であろうと推測している程度であった。しかしどうであろう。手元に届いたこけしは予想に反し、それまで見たこともない特徴を多分に孕んでいたのである。

本間久雄4-1

これがそのこけし。本間久雄作、大きさは6寸2分。この表情、酒田こけしに注目する者であればすぐ分かるが、深澤要の名著『こけしの微笑』に挿絵として掲載されている柏倉勝郎作を模している。「その愛らしい丸顔、首から肩ヘかけてのなだらかな線、質朴な菊模様は、全体の形態との調和もとれていて心憎いほどのおぼこ振りである。」というかの名文を与えられた最も知られている勝郎作である。「深澤勝郎写し」と名付けても問題はないだろう。このこけしにおいて、「深澤勝郎」の特徴は①富士額気味の頭髪、②頭髪にくっつく鬢、③V字形の口元、あたりに大きく出ている。特にV字形の口は他の本間久雄作では類を見ない。面描の筆はやや細いが表情も明らかに原を意識したであろうもので、明るく前向きな笑みとなっていることに好感を持てる。

原との相違点としてまず挙げられるのは重ね菊の数で、原の4つに対してこちらは3つと数が少ない。また、久雄のトレードマークともいうべき菊花の下に加えられる小さな2つの赤点も加えられていることも見逃せない。つまり、胴模様に関しては以降のそれと全く同手のものであり、この時点で久雄の手がける酒田こけしの様式として確立していたということがうかがえるわけである。

というわけで必ずしも原に忠実な写しというわけではないが、しかし本間久雄がある段階で酒田こけしの祖形であるところの柏倉勝郎のこけしを学んだことの証左となることは疑いようがない。

問題はこのこけしが工人の製作年代のどの時点で製作されたかということである。前述の通り、主に面描における線の細さから昭和49年頃のもの、つまり『山形のこけし』掲載の昭和49年作のこけしと同時期のものではないかとある程度の予想はついたのであるが、その直前なのか、それより後のものなのかによって以降の作風にどう影響を与えたかの意味合いが微妙に変わってくるのではないかと思われる。

本間久雄4-3

年代判定の拠り所としたのは胴底の通し鉋の脇に残る小さな2つの爪跡。この爪跡を有するのは手持ちの酒田こけしの中では「005: 本間久雄 ①」で紹介した「柏倉勝郎型」の銘を持つ昭和49年作のみである。それ以降の胴底の通し鉋からはこの小さな爪跡は消える。このことから「深澤勝郎写し」は「勝郎型」と同時期に製作されたものと推測され、そして「初期は署名が胴背面、中期以降は胴底に移る」という流れに則ると胴背面に署名がなされている「勝郎型」の後で胴底に署名された本項の「深澤勝郎写し」が作られたという結論になる。

本間久雄4-2

以上をまとめると、本項のこけしは昭和49年作で「勝郎型」と『山形のこけし』掲載の面描線の細いこけしをつなぐ時期に深澤要旧蔵の柏倉勝郎作を原に製作された写しで、この頃既に胴模様は確立し面描の細さは以降の昭和49年作にも引き継がれたということになる。

「本間儀三郎型」といういささか的を得ないこけし(別項参照)を作った後、本間久雄が集中して柏倉勝郎型に着手をしているのは非常に興味深い。その際に誰かしら/何かしら外部からの助言があったのかは分からない。或いは工人自らの意思による復元であったのかもしれない。いずれにしても、通し鉋の脇に残る爪跡をもったこのこけしたちは、暗中模索を続けてきた本間久雄の酒田こけしの取り組みの中でも大きな突破口となったことだけは確かであろう。

過去の本間久雄関連記事
005: 本間久雄 ①
010: 本間久雄 ②
011: 本間久雄 ③

011: 本間久雄 ③

ひとつのこけしを手にしたことが契機となりそれに関連するこけしが漸次集まってくる。蒐集という行為にはそのような傾向があるようだが、それはその型/その工人に興味関心が向いている結果に他ならない。阿房こけし洞における最大の関心は言うまでもなく酒田こけしである。先日入手した本間久雄作もまた見所の多い一本であった。

本間久雄3-1

こちらがそのこけしで大きさは6寸7分。表情少し元気なく木地形態も丈の割に胴太のようにも思われたが、背面の署名だけは見過ごすわけにはいかなかった。つまり「本間儀三郎型」と書かれていたのである。一般的に本間久雄の義父であるこの本間儀三郎という人物は木地挽きのみを行った木地師で筆はとらなかったとされており、それを踏まえると一層この「本間儀三郎型」という署名に興味を掻き立てられたのである。

本間久雄3-2

前項の初期作(以下、「山形手」)と比べると、胴模様に大幅な変化が認められる。未だ筆に迷いが生じている節はあるものの、後年の酒田こけしの典型として定着することとなる様式でもって重ね菊があしらわれているのは興味深い。肩と黄胴の間の轆轤線は黄色の線がなくなり赤と緑の2色となった。面描には筆の太さと稚拙さが見受けられ鬢も頭髪とくっついているのは「山形手」と同様。鬢飾りは各鬢の中心付近を起点として花弁4枚の花びらのようにぼってりと丸っこく描かれている。

本間久雄3-3

さらに実物を手にしてわかったのはこのこけしも胴底が柏倉勝郎風にくり抜かれていることであった。手持ちの本間久雄作では「山形手」のみが同様の手法をとっていることから、この胴底の形状を決め手としてこのこけしを初期の作品と判断した。

胴底の形状はしかし製作年の推測には役立つが、本来錐で大きく穴をあけたとされる儀三郎の手法としては当てはまっていない。ここにひとつの矛盾が生じているのである。ここで考えられるのは

A. 単純な本間久雄の認識違い
B. 本間儀三郎名義の原となるこけしが存在した
C. 酒田こけしを製作するにあたり、久雄の中では柏倉勝郎の型というより義父の関わったこけしを復活させるという想いが強かった

のいずれかではないだろうか。いまのところそれを検証する手立てはないが、このこけしに義父へのトリビュート的な意味合いが込められていたであろうことは疑いようがない。

ずんぐりとした木地形態や轆轤線、重ね菊等の特徴は昭和49年1月に発行された『こけし手帖155号』に掲載されている6寸に相通じる。以上のことを踏まえるとこのこけしは昭和48年頃に製作された初期作という結論になる。鑑賞対象としてはいささか物足りない作風ではあるが、酒田こけしの変遷をみていく上では大変示唆に富む一本である。

過去の本間久雄関連記事
005: 本間久雄 ①
010: 本間久雄 ②

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