034: 常川新太郎

常川新太郎のこけしを知ったのはInstagram でフォローしている方の投稿からだったと思う。くびれた胴体に四角く大きな頭部。赤と緑だけのロクロ模様は極めて簡素なものであるが、ぽかんとした口で空を見上げているような表情はなかなか見所があるように思えた。それからほどなくして、こけしを求め辿り着いた2014年の東京蚤の市の会場で新太郎の実物を見つけたことでこのこけしに対する認識が確かなものになった。その時のこけしは状態が良くなく結局入手に至らなかったが、「東京蚤の市の一角で初めて常川新太郎のキナキナの実物と出会った時の心のざわめき様。なんたる愛くるしさか。連れて帰らなかったことをここまで後悔したこけしは他にありません」と当時の心境を記しているあたり、なかなかのインパクトがあったように思われる。

常川新太郎 1-1

後日、ヤフオクにおいて即決価格で出品されていたところを首尾よく落札することができた。入手したこの8寸は、最初にInstagram で見た投稿写真の掲載品に似て大きめの四角い頭で、頭部と胴のはめ込みはかなりゆるく状態によっては首を傾げたようにもなる。鼻より下の高さの両頬に丸い頬紅が入れられ、さらさらとした筆致でぼんやりと考え事をしているような表情が描かれている。小さな時分は誰しもがこのようなあどけない面持ちで流れる雲を眺めていたのではないか。と、見るものを童心に帰らせる力が秘められているように思う。幼児だけの特権というべき愛らしさ、無垢さを余すところなく体現したこけしではないだろうか。

常川新太郎 1-2

それからさらに数日後、別の出品者から同じく新太郎のこけしが出された。こけしの出品は不思議とそういうところがあるように思われるが、余勢を駆る格好で落手したのがこちらの8寸。一本目と比べると頭部小振りで相対的にスレンダーな木地形態となっている。こちらには頬紅入れられず面描もはっきりとした筆致によるものになっている。稚気溢れる一本目と比べると成人の女性っぽさを漂わしているようにも思える。胴のロクロ線はその色合いからしてどうもポスターカラーのような印象を受けるが、定かではない。

常川新太郎は明治40年4月29日に盛岡市の雑貨商正雄・タミの長男として生まれた。仙台工芸指導所で木地技術を習得後、しばらく鈴木清の元で職人を務めていたが、昭和11年8月に遠野町長・菊地明八氏に招かれて移住。木地指導を行いその後同地で開業した。こけしの作りはじめは昭和12年。菊地町長が見本として提示した藤原政五郎のこけしを参考にして製作を開始した。戦後はしばらく休業していたが、昭和30年頃から再びこけしを作り始めたという。『こけし辞典』から引用すると「常川一家のこけしはすべて新太郎名義で出ているが、木地は新太郎、潤次郎、雄三郎、秀雄、左吉雄のものがあり描彩はもっぱら雄三郎である。木地の鑑別は不可能。(中略)潤次郎・秀雄は戦死しており、戦後の木地は新太郎・雄三郎が多い。左吉雄はほとんど挽かない。」とのことで、手持ちの2本の木地形態・面描の違いはそのような事情に起因しているのかもしれない。しかしいずれにしても、心安らぐ佇まいのこけしであると思う。

蔵王こけし館蔵 常川正義
常川正義工人のこけし(蔵王こけし館蔵)

なお、その年の秋に訪れた蔵王こけし館には常川正義名義のこけしが展示されていた。『伝統こけし最新工人録』によると昭和22年(1947年)9月12日生まれで2016年5月現在68歳。「作品未掲載の工人リスト」に載っている。

参考リンク
kokeshi wiki「常川新太郎」
こけし千夜一夜物語「第545夜:底書きの信憑性(常川新太郎)」


033: 佐藤一夫

蔵王こけし館の名和コレクション見学はこけし収集の大きな転機であった。同コレクションの佐藤巳之吉のこげすは、佐藤三蔵のこけしとともに深く印象に残り、その後の収集の方向性を決定付けたように思う。良質なこけしの鑑賞は収集を発展させる。

名和コレクションの佐藤巳之吉

佐藤巳之吉は明治26年(1893年)に遠刈田新地に生まれた。明治40年(1907年)に佐藤吉郎平に弟子入りし木地挽きを修業した。『こけし辞典』にあたってみるとこの巳之吉という人は各地を転々とする工人であったようで、ざっと見ても神戸、蔵王高湯、北海道奥尻、仙台、米沢、名古屋、静岡県磐田と渡り歩いている。こけしを製作したのは、修業後に北岡木工所で働いた大正末から昭和初めにかけての第一期遠刈田時代、仙台から帰郷し再び北岡木工所で働いた昭和10年(1935年)からの第二期遠刈田時代、そして米沢に移った昭和12年(1937年)〜昭和15年(1940年)頃の米沢時代の三期であるという。名和コレクションの巳之吉こけしは『美しきこけしー名和和子こけしコレクション図譜』によると昭和13〜14年頃の米沢時代の作ということになる。巳之吉は昭和31年(1956年)8月5日に磐田で亡くなった。

その巳之吉型を継承したのが甥にあたる佐藤米蔵。米蔵は明治42年(1909年)11月22日、木地師佐藤春吉の長男として新地に生まれた。高等小学校卒業後は木地業に就かず東京京橋に出て働く。二度の応召を経て昭和20年(1945年)帰郷した。昭和30年(1955年)頃より新型の木地挽きをはじめ、昭和39年(1964年)より旧型こけしの製作を手掛けるようになった。叔父・巳之吉の写しを始めたのは昭和43年(1968年)から。『こけし辞典』には昭和45年(1970年)3月の作が掲載されている。昭和56年(1981年)3月7日没。行年72歳。

米蔵によって継承された巳之吉型は長男・一夫に受け継がれている。佐藤一夫は昭和11年(1936年)1月1日、横浜市鶴見区で生まれた。第二次大戦が激化すると父の生地である遠刈田新地へと疎開。同地で少年時代を過ごす。昭和26年(1951年)3月、15歳で佐藤守正に師事し木地挽きを修業。朝倉栄次や父のもとで新型こけしの木地挽きをしていたが、紆余曲折を経て一時木地挽きより離れる。昭和53年(1978年)から昭和55年(1980年)にかけて父・米蔵より描彩の指導を受ける。伝統こけしの製作を始めたのは米蔵が逝去した昭和56年(1981年)の4月12日から。工人45歳の時である。この当時の状況は『こけし手帖289号』高橋利夫氏による「巳之吉を継ぐ遠刈田系工人・佐藤一夫」の記事に詳しい。それによると巳之吉型に着手したのは昭和58年(1983年)からであるという。翌年、遠刈田新地に「木偶之房(でくのぼう)」を開業。昭和60年(1985年)には再び佐藤守正に描彩を習っている。現在80歳。

佐藤一夫 1-1

最初に入手した巳之吉型は7寸5分。『こけし 美と系譜』『こけし古作図譜』に掲載されている中屋惣舜氏旧蔵の写しであると思われる。「原」は正末昭初の大傑作といわれるものであるが、この写しは切れ長の大きな三日月目や大振りな重ね菊、角張った大頭の木地形態など、その雰囲気をよく捉えた快作であると思う。ロー引きされていない木地に濃厚な染料が染み入る様は渋く、格別の味わいがある。重ね菊の葉は、草書体の「原」とは対照的に様式された描法で整然と並ぶ。細かいマンサク模様のこけしを描き上げる一夫の本領のように思われる。

佐藤一夫 1-2

高幡不動の茶房たんたん(現・楽語舎)で入手した6寸4分は、植木昭夫氏所蔵の昭和15年作の写し。米沢時代末の作で『愛こけし』に掲載されている。小さめの頭に長めの胴がつくすっきりとした木地形態。『こけし手帖289号』によると、昭和59年(1984年)に取り組み始め、同年4月には東京こけし友の会より頒布されたとのこと。真っ直ぐ前を見据える写しに対し、「原」は視線向って左上に流れ、目は左目が思い切って上がる。こうしてみると巳之吉という工人は案外おおらかに筆を運ぶ人だったのかもしれない。残るこけしの変化も大きい。なお、この写しの胴裾には鉋溝が2本入れられているが、2015年秋の山河之響の会の折ご本人に確認したところ、これは本人による工夫で入れたものであるということであった。

佐藤一夫 1-3

3本目となる巳之吉型は北鎌倉おもとで求めた7分5分。店主の話では巳之吉型ということであったし表情もそれらしいものであったが、それまでの2本のように「巳之吉型」という表記はなく、また梅花をあしらったような胴模様も見慣れないもので少し引っ掛かるこけしではあった。これもご本人に確認したところ、「原」となったのは鈴木鼓堂氏旧蔵品で『こけし辞典』でも確認できる昭和初期作。「原」の胴模様は他の巳之吉こけしと同様の重ね菊であるが、こちらのこけしの衿と梅花はやはり本人の工夫によるものということだった。胴一杯に描かれた不揃いの梅花はしかし古風な佇まいを醸し、もしかしたら巳之吉もこのような胴模様を描いていたのかもしれないと想像を巡らせるに足る面白さがある。古くからの型に学び、そこに一工夫を加えることで新たな発展をもたらすという伝統におけるひとつの理想型をここに垣間みる思いがする。自らが継承した型をおざなりにしてはいけないし、しかし同時にその型に固執してもいけない。型と伝統性について考えさせる示唆に富んだ良作であると思う。

佐藤一夫 1-4

前述、山河之響の会で入手した6寸3分は高橋五郎氏所蔵品の写し。手持ちの資料では三春町歴史民俗資料館による企画展「幻想のこけし」展の図録に「原」を確認できる。一本目にみられたような渋みはないが、明朗な雰囲気に溢れ、長年巳之吉型に取り組んできただけあって手慣れた軽やかさがある。

一夫工人は現在までに10種類の巳之吉型を手掛けてきており、木偶之房にはその見本があるという。冒頭に述べた名和コレクションのこげす型は作ったことがないとのことである。(敬称略)


032: 山尾広昭

山尾昭の天江庄七写しの落手と時を同じくして、息子・山尾広昭の三蔵写し8寸を手に入れた。出品者の説明によるとこのこけしは平成14年(2002年)1月の作で、植木昭夫氏所蔵の三蔵写しであるという。『愛こけし』『木偶相聞』で確認できる氏所蔵の三蔵こけしは2本で、どうも1尺5寸の縮写であると思われる。胴背面には「名古屋こけし会第111回定期頒布」のシールが貼られている。

山尾広昭1-1

面白いと思うのは頭部の様式で、顔を取り囲むようにして頭部側面から背面まで黒々とした横髪が描かれている。頭頂には長い線状の一本線が引かれており、頭部全体を俯瞰するとチョンマゲのようにも見える。1尺5寸を確認するとやはり顔の側面にその横髪の端らしきものが見える。

山尾広昭1-2

力強い筆致の面描は古こけしに通じる味わいを感じさせる。『木偶相聞』と見比べると目の位置が顔半分より下に描かれていてこのこけし特有の幼さに結びつく。三蔵作の多くは目が高い位置に描かれることが多くそれが独特の凄みの要因となっているように思える。ただし、この広昭作はこれで稚気溢れ安心して眺めていられる穏やかさがある。菅原敏による三蔵型とは一線を画す新鮮な解釈と言えるかもしれない。頒布している会は違えど、父・昭の天江庄七の写しとともに山尾一家の古秋保への取り組みに注目するようになったのは言うまでもない。

さて先日、同じ出品者から広昭による3本の三蔵写しを落札した。前述8寸と同じく名古屋こけし会の頒布品であり、それぞれ第110回、第111回、第113回というシールが貼られている。この時期名古屋こけし会が広昭に対して集中的に三蔵型の写しを依頼しそれを頒布したことがわかる。

山尾広昭1-3

最初の7寸のこけしは「深沢コレクションの昭和15年三蔵復活初作を元に」作られたこけしとのこと。『こけしの追求』には「原」となるこけしの白黒写真とともに入手した経緯が記されているので該当箇所を引用する。

昨年(昭和十五年)一月私は又しても三蔵を訪ねたのであった。翌朝行って見ると三蔵は自家の作業場で、既に三箇の頭を作り、それに穴をあけているところであった。他に造付の一箇を加えて全部が出来上がるのは夕方になったが、前髪の小さい鬢下がりの如何にも親しみのあるこけしを受取る時には、さすがに嬉しかった。

『こけし古作図譜』にはその深澤三蔵がカラー写真で掲載されている。広昭の写しは目つきの強烈さには欠けるものの「原」を忠実に写したことが伺える。縦長の角張った頭部、長い垂れ鼻、切れ長の二側目。胴に轆轤線はなく「る」の字の前身と思われる模様が描かれており興味をそそる。

山尾広昭1-4

次の6寸は川口貫一郎コレクションの三蔵を元に作られた平成15年(2003年)1月作。出品者の説明によれば重ね菊で轆轤線がない珍しい胴模様であるという。「原」を確認したわけではないが自分の中の三蔵のイメージはこれに近い。鼻は小さめの垂れ鼻。目鼻頭の上部に寄り、口は紅で太めに描かれる。胴いっぱいに重ね菊が配置され装飾的な葉があしらわれている。頭部は小さめに抑えられており洗練された木地形態であるように思う。そして全体の雰囲気に鋭さがある。

山尾広昭1-5

3つ目は平成15年(2003年)5月作。酒井利治氏『木這子との邂逅』109番の写しであるとのこと。頭部小さく丸みを帯び、太めの胴が安定感を与える。二側目は大きく見開かれ真っ直ぐ前を見据える。三蔵型には珍しいねこ鼻で口は紅により一筆で描かれる。太い緑の轆轤線が上下に2本ずつ引かれ、間に「る」の字が2つ配される。

山尾広昭1-6

最近入手したこの6寸はひやねの『こけし往来』即売品。やはり名古屋こけし会の頒布品で、胴背面には第112回のシールが貼られている。この写しの「原」についての情報は持ち合わせていないがおそらく『こけし這子の話』の図譜に掲載されているものと推測される。切れ長の三日月目は下瞼が下に膨らまない典型的な遠刈田の二側目。胴上下の轆轤線は緑以上に赤が目立ち、大振りに描かれた重ね菊と相まって濃厚な雰囲気を漂わす。

こうして見てみると、5本とも異なる様式を持ち三蔵こけしのもつ意外な程の幅広さが浮き彫りになる。そしてまた同時に、山尾広昭という工人の写しの仕事振りにも感心せざるを得ない。特に良いと思うのは面描。その筆致の力強さによって古い味わいを感じさせるこけしとなっている点である。三蔵の遺したこけし自体、枯れた稚拙の筆使いがひとつの特徴となっているように思うが、広昭の面描は上手に整えることをせず、筆太く、揺れて曲がり、そしてたどたどしい。けっして綺麗な筆致ではないけれど、こけしが子供のおもちゃだった時代はこういった無骨とも言える描彩のものが多かったのではないかと想像させられるのである。現代ではなかなかこのような筆使いでこけしを描く工人は少ないような気がする。

『伝統こけし最新工人録』によると、山尾広昭は昭和33年(1958年)12月14日、山尾昭の長男として生まれた。木地修行を始めたのは昭和61年(1986年)4月頃から。工人27歳の時である。「ひとこと」の欄には「木地職人の祖父、父を持ち三代目として仕事の休みを利用しての勉強です。祖父のこけし復元にも興味を持っております。妻(※山尾裕華)と共にこれからの私ですが、伝統を守り続けて参ります。」と寄せており、他に仕事を持つ兼業でのこけし製作であることが窺い知ることができる。上に挙げた名古屋こけし会頒布による三蔵写しは平成14年〜15年作であるので工人44歳前後の作ということになる。この後の経緯はわからないが広昭は2016年4月現在55歳。残念ながらこけし製作は中断しているということである。


031: 佐藤治郎

こけしに興味を持ち始めた当初、寝ても覚めてもこけしこけしという塩梅で膨大な記事数をものともせず「こけし千夜一夜物語」を古い記事順に読み進めていった。その中で特に大沼昇治を中心とする遠刈田系の梅こけしには心惹かれるものがあり、オークションでも注目する型となった。最初に入手した遠刈田系梅こけしは大沼昇治ではなくその師匠、佐藤治郎による7寸であった。手元のメモを確認すると9本目に手にした伝統こけしということである。まさに収集しはじめの頃に入手したものということになるが、この前後に入手した尺サイズのこけし群は初こけしである新山左京9寸を残し思い切りよく整理した。そのような断捨離めいた状況でも整理対象にならず今もこうして手元に置いているということはそれだけ何か惹かれるものを感じているからなのだろう。

佐藤治郎は大正4年(1915年)7月13日、農業を営む木須春五郎の三男として生まれた。余談ではあるが自分と誕生日が一緒なのもあり親近感を感じているところは少なからずある。さて、治郎は昭和15年(1940年)に遠刈田新地の佐藤円吉の三女やいと結婚し婿養子となった。昭和18年(1943年)より義父について足踏みロクロを学ぶ。この時28歳ということで木地を始めたのはだいぶ遅かったということになる。その後、北岡工場での職人経験を経て昭和29年(1954年)に動力ロクロを取り付け独立。昭和31年(1956年)には大沼昇治を弟子に取り、この頃より伝統こけしを専門に作るようになったという。

佐藤治郎1-2

この梅こけしは工人55歳の時の作。頭部、胴下部のくびれともやや角張った形態である。古色、シミ深く、当初は頭部のロウが浮き白っぽくなっていた。この傾向は治郎のみならず、後継者である大沼昇治のこけしでも散見されるもののように思うが単なる偶然だろうか。ロウの浮きは①ドライヤーの熱を当てる②乾いた布などでゴシゴシこすり落とす、のいずれかの方法で解決できるようだが今のところどちらが良いのかは判断がつきかねる。胴の上部に一輪、下部に三輪、梅花がぼてっとした調子で描かれ、蕾は輪郭によって表現される。同時期に手に入れた佐藤誠孝の小倉嘉三郎型梅こけしと並べるとまるで恋人のようによく似合い、楽しむことができた。まわりが一尺のこけしばかりであったから、一層このこけしが可憐にみえたのかもしれない。面描は割れ鼻大きく、下瞼が上瞼にくっつかず甘い表情の大きな瞳は典型的な遠刈田系の二側目とは趣を異にし、特徴的である。

このこけし以降、少なからず治郎作の梅こけしを見てきたがもう一本入手というところまではいかなかった。木地形態であったり、表情であったり、状態であったり、それぞれになにかしらの不満点があってなかなか満足できるものに巡り会うことができなかったのであるが、「026: 山尾昭」「021: 大沼昇治 ①」の項で紹介したこけしと同時に落札したこの8寸はそれまで見てきた治郎作とは一線を画するものがあった。胴底に48歳作と記されたこのこけしの面描、胴模様は極めて丁寧な仕上がりで上述の55歳作とはまた違う魅力を有している。

佐藤治郎1-1

『こけし手帖 547号』に柴田長吉郎氏による「佐藤治郎さんの思い出」という追悼文が載っている。それによると治郎が円吉型の梅こけしを復元したのは昭和38年(1963年)であるようだ。単純計算すると「1963-1915=48」つまり工人48歳の時であり、この8寸はまさに円吉型の初期作であることが推測される。55歳作にみられるような、向って左側の眉と目尻が下がる傾向はなく目眉とも左右対称に描かれ、梅花も緑の葉も律儀ともいえるほどの慎重な筆運びである。木地形態は丸みを帯びて柔らかい。

治郎の梅こけしはこの48歳作から出発し、数をこなしていく中で徐々に速筆化、抽象化され治郎独自のものへと変化していったということが伺える。前述の記事では柴田氏はそうした変化を次のように記している。

梅こけしは円吉が始めた型で、この形は大野栄治の影響であるが、治郎さんは真面目に義父円吉の型を踏襲したのである。しかし矢張り治郎さん独特のところがあり、円吉でも、弟子の大沼昇治でもなく治郎のこけしであり、一目で治郎作と判った。それは上手・下手と言うよりも寧ろ彼の個性であり、一生それを貫いたと言うことができる。

同記事にはまた昭和46年(1971年)1月の東京こけし友の会例会頒布品6寸が写真掲載されている。工人56歳の作であり、一本目に紹介したこけしとやはり作風は似ている。


030: 桜井昭寛

古作の写しを嗜好するこけし愛好家にとって桜井昭寛という工人が現役で活躍されているということはどれだけ大きな意味を持ち、また心強いものであろうか。大沼岩蔵、庄司永吉、大沼甚四郎といった古鳴子の重要工人の写しを店頭に並べ、さらに近年では創成期の鳴子こけしの写しにも精力的に取り組まれている。古作の写しを依頼するのに甚だ難儀する昨今にあって、愛好家の欲しがる古型を作り続け、しかも古いこけしの情味を余すことなく再現できる工人は数少ない。それはもちろん桜井家が古鳴子の中でも人気の型を有しているということにも依るものかもしれないが、そうだとしても、その型を守り且つ絶え間なく研鑽を重ねてきたからこそ、現在の名声があるのだと思う。素晴らしい古型を継承するにも関わらずそれを活かし切れていない例は決して少なくない。だからこそ私は桜井昭寛工人に最大限の敬意を表したいのである。

私が鳴子こけしの面白さを知ったのは西田峯吉氏の名著『鳴子・こけし・工人』であった。口絵写真に掲載された古鳴子のこけしは現在よく見かける鳴子一般型とはまるで趣を異にする深い味わいに溢れているように思われた。若い愛好家から「鳴子系のこけしは全て同じように見える」という意見をよく耳にする。恥ずかしながらそれまでの私自身も同じように感じていたのであるが、それはいわゆる一般型と呼ばれる鳴子こけししか知らないためであると考えられる。『鳴子・こけし・工人』に収められたこけし達のなんと個性的なことか。口絵写真とともに西田氏の書く各系列の説明、工人達の物語を読むことで一気に古鳴子への興味が湧いた。同書の口絵の中でも特に心惹かれたのが、高野幸八、庄司永吉、大沼甚四郎、高野まつよ、遊佐雄四郎といった一筆目のこけし群で、この一筆で描かれる目こそが古鳴子の大きな特徴といえるのかもしれない。

2015年の鳴子全国こけし祭りに行くことが決まり色々と下準備をしてみると前述した工人のうち、庄司永吉型は桜井昭寛工人、大沼甚四郎型は佐藤実工人、遊佐雄四郎型は高橋正吾工人が手がけていることがわかった。当日、車でいらしていた知人のご好意により全ての工人の工房にお邪魔できたことは「013: 鳴子の旅」の項で既述した通りである。正吾工人、実工人と廻り最後に辿り着いたのが桜井こけし店であった。桜井こけし店はこけし通りの中程にある。BGM にモダンジャズが流れ、白と茶を基調とした店内の雰囲気は格調高く、温泉街の土産物店という感じはしない洗練がある。

桜井昭寛1-1

壁際の飾り棚に大沼岩蔵型、桜井万之丞型、桜井コウ型とともに庄司永吉型のこけしが並んでいた。一口に永吉型といっても、胴模様、フォルム、サイズにさまざまな変化があって大いに悩むところであった。こういった収集欲を刺激するバリエーション違いを揃える探究心が、昭寛工人の真骨頂であり人気の秘訣であるのかもしれない。悩みに悩んだ挙げ句に手にした永吉型は6寸2分の菊模様。胴模様の様式は深澤コレクション7寸1分あたりが近いような感じがするが確証はない。ふくよかな丸頭がなだらかで低めの肩をもつ直胴に乗る。濃厚な緑による写実的な葉が茂る中、燃えさかる炎のような菊花咲き誇りなんとも生命力に溢れた胴模様ではないだろうか。

桜井昭寛1-2

同店でもうひとつ入手したいと思っていたのがこの創成期の鳴子こけし。これは高橋五郎氏が『こけし手帖 618号』で発表した創成期のものと推定される3本の古こけしのうちの一本を写したものである。これは前年の第60回全国こけし祭りにおいて各工人に現物を見せ、そこから想像を膨らませてこけしを作ってもらおうという特別企画に端を発する。詳しくはKokeshi Wiki の記事(「創成期鳴子こけし」)を参照のこと。事前に調査した結果、昭寛工人の写しが最もその「原」のもつ古風な味わい、神秘性、そして得体の知れない凄みを再現しているように見えた。永吉型、岩蔵型という鳴子古型を手掛けてきた昭寛工人とは特に相性が良いように思われた。店頭の棚に唯一残っていたのが7寸2分のこけし。古鳴子らしい一筆目に、長い垂れ鼻、鬢は太い筆致で大きく描かれる。末広がりの胴の上下には鉋溝が刻まれ、特に最上部の深い溝はこのこけしの大きな特徴となっている。

桜井昭寛1-3

最近入手したこちらの6寸8分は創成期の3本と同じ出自の岩蔵こけしの写しで、前述『こけし手帖 618号』に現物の写真が掲載されている。昭和13年の復活以前のこけしと目され、創成期岩蔵型と名付けられている。蕪型の頭部が乗っかる細身の胴は裾にかけて更に細くなる。胴模様は4つの菊花を中心としたもので、配置と様式に細かい差異があるものの前述した永吉型と同傾向にあり、古い岩太郎系列の在りし姿を想像させる。現在手掛けている型に留まらず常に新しいものへ挑戦し続ける昭寛工人の底なしの情熱をこの創成期岩蔵型からも垣間みる思いがする。昭寛工人がかく活躍し多くの古型を作り続けてくれる現代は非常に恵まれている状況であることは間違いない。

桜井昭寛1-4
菊花咲き乱れる。左より、創成期鳴子こけし7寸2分、創成期岩蔵型6寸8分、永吉型6寸2分